セミリアイア「晩年」日記

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2019.11.30
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カテゴリ: 評論
個人は「負荷ある個人」として生まれるが、このことは何も否定的にばかり解釈される必要はない。

この親の子どもとして、この国に、この地域に生まれてきてよかったと思える人も多い。実際、自分の周りにはそういう人たちが多かったし、今も多いのだ。

虐待やいじめ、災害、貧困や将来不安など、マスコミはまるでお先真っ暗であるかのような報道ばかりするが、それはその方が視聴率が取れ、雑誌が売れ、検索回数が増えるからであって、「お先真っ暗」が事実として確定しているわけではない。

「負荷ある個人」は、自らの出自である共同体をできる限り、自分にとっていいものにしていく努力をする。それが、自分の幸福に直結するからだ。そこには、個人と社会が何の仮説的理論も介さずに、直接的に結びついている。

時に共同体は、個人を束縛する力として働き、個人はそこから逃れ、すべてを自分でまかない、自己責任を取る場へと出ようとする。そしてそこで敗残すると、社会が救済の責任を果たせと主張する。しかし、最初の時点で、もし個人が共同体を捨てずに、そこをよくしていく努力をすれば、彼の誰とも連帯できない孤独には陥らずにすんだのではないか。

個人主義は確かに自己の意思決定を共同体的集団のそれよりも優先する。そして、集団の同調圧力には屈しない。だが、共同体的集団の中にとどまり、マージナルマン(周辺人)として、いわばその集団の「外れ者」として、その内にあり続ける。マージナルマンは実は集団が行き詰った時に、その集団をさらに大きな外部環境に適応させるダイナミクスにとって、不可欠の存在なのだ。

サンデルらのコミュニタリアニズム(共同体主義)は、理性によってすべてを自己決定する「負荷なき個人」を西欧近代主義の生んだ幻影であるとし、個人は最初から共同体の「負荷ある」ものとして生まれる、と指摘する。

そして「私」の個人主義は、この思想に賛成する。

家族共同体の中で、「私」は誕生し、その中で次第にマージナルマンとして成長したが、今はその家族も代替わりし、子どもたちがそれぞれ別の地で、新たな家庭を築いている。だが、彼らとの共同体が消滅したわけではなく、家族意識は各自が持ち続けているだろう。全体としてその家族が、より良い方向に向かうことを願い、そのために努力をし、相互扶助をする。それが、家族という場においての「共通善」であり、サンデルが目指すものの一つだ。そこで「我を通す」ことが個人主義なのではない。



国家をネイションステートとしてではなく、一つの大きな共同体ととらえているからこそ、見知らぬ土地の災害にあれだけの人がボランティアとして駆けつけるのだろう。

しかし、個人が属する共同体は基本的には「目に見える」人々と形成されるものであり、個人がそこを素通りして、SNSやネット上の大きな共同体と直接に連帯することについての評価は、自分の中でまだ定まってはいない。おそらく、それはアトム化した個人の疑似共同体に今のところはとどまっているのではないかと考える。だから、そこは無秩序な場で、現代的な意味での共同幻想が生まれる場である。見方を変えれば、幻想の共同体にしがみつくことによってでも、人間は生きようとするのであり、そのことは個人にとっていかに共同体が必要かを、逆説的に証明している。





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最終更新日  2019.11.30 06:55:40


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