セミリアイア「晩年」日記

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2020.03.19
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カテゴリ: 評論


 ​ 学校教育に「生きる力​​​」という奇妙な日本語が登場したのは、もう25年も前のこの答申が端緒であった。背景にあったのは重厚長大という工業化社会の脱工業化、情報化社会の到来などである。その限りで、この答申は時宜を得たものであり、教育が「自己教育」であるという思想は、自分の思想と合致する。

 ただし、ここで全く触れられていないのは「生きる力」を獲得するために学ぶべき伝統的知という視点である。『我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称する』という文面を見る限り(ついでに言えば「社会を、」の読点は不要であり、「社会を生きる力」と一続きでなければ意味が不明になる。こういう無神経な日本語を書くのは「生きる力」の一つであるコミュニケーション力の欠如ではないか)、「これからの時代は、変化が激しく、古い知恵や教養にしがみついていたら、生きていけない」という含意が見て取れる。

 当時のキーワードは「情報」と「国際」であり、その名前を冠した大学、学部が各地に誕生し、一時的にではあったが人気を集めた。そして「人文学」という古くからある学問の総称は、総じて不人気学部の代表となった。この変化の激しい時代に「生きる力」を得るためには、「温故知新」など不要と、審議会は考えたようである。

 学校現場では、いきなり週2~3時間の「総合的な学習の時間」が振り分けられ、その扱いに困り、各地で「そば打ち教室」などが展開された。「そば打ち」がどうして「生きる力」につながるのかは、少なくとも現場では問われることもなかった。

 「生きる力」には同時に「健康や体力が不可欠」とされ、いろいろな面でそれが備わっていない人間は「特別支援」の対象となり、「変化の激しい社会」から隔離されていった。また、現在、教師のブラック労働の主たる原因である「部活動」は、何ら見直されることがなかったが、それもこの答申に遠因があると、自分は考えている。なにしろ「健康と体力」である。

 それ以上に大きな問題は、学校が「生きる力」の獲得を教育の目標として掲げた以上、その評価を担うのもまた学校であるということである。正規の学校教育から外れてしまった不登校等の生徒・児童は「生きる力」がないと判断される。現に義務教育では、不登校の生徒を卒業はさせるが、各教科の評価は普通は「1」をつける。つまり、学校教育の最大目標である「生きる力」につながる小分野、つまり、教科分野がすべて「1」ということであり、それは「生きる力がない」という宣告に等しい。

 さらに、この答申を受けた学習指導要領から、義務教育の教科評価は「相対評価」から「絶対評価」に変った。つまり「1」の者は、下位7%に該当するのではなく、「絶対的に」「1」なのである。「絶対的に生きる力がない」という宣告を、学校は15歳の不登校生徒にしていることになる。

 そして、この学習指導要領以来、つまり21世紀に入ってから「引きこもり」の問題が顕在化してくる。NEETという人たちは、社会のカーストの最下位層として存在するが、その価値づけを作り出したのは「生きる力」を目指した学校教育だ。そして、皮肉なことに、「引きこもり」を可能にしたのは「変化の激しい時代」の産物である「情報化社会」だ。すでに中高年に達している初代の(?)引きこもりは、スマホやPCを通してバーチャルな世界とはつながっていて、その世界は歪んだ世界だ。

「生きる力」を、社会のある人たちから奪ったのは「学校」という制度である。


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最終更新日  2020.03.19 07:20:25


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