セミリアイア「晩年」日記

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2020.09.24
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カテゴリ: 評論


言うまでもなく、中学校では制服があり、制服について、あるいは髪型について、無意味な細かい規定があり、一部の教師はそれを順守させることが教育だと信じて疑わない。

生徒は、お互いを監視し、違反者がいれば注意するという、まるで江戸の百姓たちのような相互監視システムの中に落とし込まれる。生徒会やクラス委員などは、そのシステムの内部協力者である。

違反をする者も、表立っては順守者としてふるまい、陰でこっそりと違反する。面従腹背は小学生で身につけておかねばならない最重要の「徳目」だ。

そして部活動。学校が強要できるのは、本来は勉強だけだ。授業中、寝ていれば起こして授業に参加せるべきだし、授業を妨害する者がいれば、排除すべきである。ところが、授業はまったくそうなっていない。そもそも眠るような退屈な授業をする教員の方が排除されるべきなのだが、決してそうはならない。その代り、眠っている生徒も捨て置かれる。つまり、学校という場所では、教師の力量が最も露骨に現れ、生徒個々人の差異がこれもまた露骨に現れる授業という場は「建前」にすぎなくなっている。

その代り、「本音」として立ち現れるのが生活指導と部活動だ。そもそもなぜ、授業中に眠るような生徒が放課後の自由活動である部活動に参加できるのか。部活動では儒学の「長幼の序」が立派に残っており、先輩ー後輩の縦の関係が人間関係の基本だ。生活指導での教師ー生徒の関係と同じである。部活動には参加するというのが「建前」であり、一端部活に入れば、そこからの離脱はあってはならないこととされる。授業はいくらでも怠けたおせるのに、部活ではそれは許されず、ましてやめるとなると、大問題になる。まるでカルト教団である。しかも、おかしいことに部活動は決して実力本位ではない。毎日長時間放課後に、チームとして強くもならない練習に拘束されるという不合理を全員で受け入れることが部活動の「本音」である。

こういう環境では、同調圧力は最大限に強まっていく。そういう生活に6年間身を晒せば、みんな「自粛警察」になってしまう。

本来「任意」のことが、まるでやることが義務であるかのように言われ、やらないものが白眼視されるというのは、コロナでも同じだ。「要請」はあくまでも「要請」であり、それに従うかどうかは、完全に個人の自由だという、近代民主主義の考えのかけらもない。

しかも、それは大学生活にまで及んでいる。大学教育の名に値しない教養と知識がない子どもたちが大量に入学してくる時代となり、サークル活動に入ることは半ば義務化され、就活でそれが有利に働くようなシステムができあがってしまっている。

コロナの閉塞感の本当の正体は、同調圧力による抑圧感である。

(この記事はpart29月8日の再録です)

後記。今日現在では、シルバーウィークの人混みや 人出が戻ってよかったというホテル業者のインタビューの映像が流れ、「自粛」に同調しなくてもいいのだという感じになっている。人々は「抑圧感」から解放され、GoToの穴場特集などを熱心に見ている。






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最終更新日  2020.09.25 04:56:42


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