セミリアイア「晩年」日記

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2020.12.04
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カテゴリ: 読書日記
内田は、幼い頃から「消費主体」としてのみ育てられ、「労働主体」としての経験がないまま成長した小学生たちが授業崩壊を引き起こし、就職半年でやめてしまうような事態を引き起こしているのだ、とするが、さすがにその論には無理があるだろう。

まず、消費主体が「無時間的」であるという彼の論理の根幹に無理がある。金を払ったらすぐ品物を受け取る、というのが「無時間的」の原型だが、現代は「品物が先、支払いは後」というクレジットカード消費や、「支払いが先、品物は翌日以降」という通販などの「消費」があり、還元されたポイントで消費するなど、「消費」自体が多様化している。

また、「嫌消費世代」とも言われるロスジェネの世代もいるし、GoToで浮かれて消費する高齢者たちもいる(自分たちもそうだ)。

さらに購入するサービスに対して「値踏み」するというのが消費者の基本的態度だというが、それは中東のバザールの話であり、日本文化にはそのような消費態度はない。

だから、小学生が教師に対して「お前の教育サービスはどの程度なのか」と「値踏み」して、それを受ける対価として「最小限の関心しか払わない」のだという彼の論理は成立しない。

自分の経験で言えば、学級崩壊が起こるのは、究極的には、それを起こす生徒を強制的に授業から締め出すことがないからだ。もちろん、そこに至るまでの教師の力量の問題はある。しかし、集団教育である限り、ある種の統制的規律は必要であり、それは有無を言わさず身につけさせるべきものだ。小学1年生が先生に「座れ!」と怒鳴られて可哀想だという理屈は成り立たない。学校とはそうしたところなのだから、イヤなら家庭で、親の責任と監督において基礎教育を受けたらいい。それを義務教育終了と認定する試験に合格できればそれでいいではないか。おそらく、社会性のない大人に成長するだろうが、それこそ家庭の「自己責任」なのだ。

学校は子どもの人権にもちろん配慮しなければならないが、それは他の人権と同じく「公共の秩序を乱さない」限りにおいて、尊重されるべきものだ。教室内で立って騒ぐなど「公共の秩序を乱す」とんでもない行動だ、ということを教えるのが教育なのだ。

自分の授業で学級崩壊などは起こらない。まあ、高校生だし、比較的出来る生徒たちだから、ということもある。とにかく、「授業を壊す行為は、断じて許さない」ということを最初に、強く宣言しておくことが必要だと思う。しかし、最近はそんなことは不要なほど、生徒は規律正しい。授業が退屈なものでなく、学問的関心を惹起するようなものなら、何も問題はない。言いたくはないが、何年もやってきた同僚の中には、学級崩壊に近い授業をする教師もいる。「つまらない」「話しても注意もしない」というのが生徒の言い分で、そりゃもっともだろう、と思う。生徒の側に規律をもって授業を受けることを強要するなら、教師もそれなりの努力をするのは当然なのだが、十年一日のごとく指導書丸写しの授業を、これ以上つまらなくは教えられないというくらい、淡々と行い、騒ぐ生徒を直視せず黒板しか見ないで授業をするような教師に、何の職業的処分もないのはおかしい。どんなことをしても規律を守らない生徒に出席停止を命じる権限はある。同じく、どんな時でも授業が壊れるような授業しか出来ない教師にも、謹慎、研修を強制する権限は学校設置者にある。

自分は学級崩壊や早すぎる中途退社の原因は「消費者」として生徒が学校に相対するからでもなく、「労働者」としての自己を家庭内労働において形成しなかったからでもない。「権利ー義務」意識の基本的欠如がそれを招いている。





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最終更新日  2020.12.04 07:18:02


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