セミリアイア「晩年」日記

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2022.01.08
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カテゴリ: 随想


一昨日の生検で腰椎麻酔をしたが、麻酔医の腕がちょっと悪かったのか、神経に直接針が触れ、ピクンとなることが2,3回あった。これは、もう痛いというより、痙攣のような不随意的発作だ。「あ、ごめんなさいね」と言ってやり直すのだが、勘弁してほしかった。

悲しいのは顔ではないんです
悲しいのは心でもないんです
悲しいのは  この痛みだけ
(吉田拓郎『悲しいのは』詩 岡本おさみ)

「痛み」というのは、人間からすべてを奪う厄介な代物である。激痛の前では、理性も意志も感受性も、すべて無力だ。そして、それを経験すれば分かるが、痛みは誰とも分かち合えない。

元来、「私」の思考や感情は、「私」の所有であり、他の誰かと共有することは原理的に不可能だと、近代個人主義者である自分は考えている。しかし、それにしても「他人の身になって」ものを考えたり、感じたりすることはある程度可能で、だからこそ「思いやり」(「思い」を「遣る」こと)が成立する。「思いやり」、「同情」は人間の善性の中で、最も欠かせない資質だ。「同情」はドイツ語でMitleid、その原義に沿って「共苦」と訳されることもある。「苦しむ人とともに苦しみ、悲しむ人とともに悲しむ」は聖書の最も有名な一説だ。

だが、「痛み」となると、それが襲ってきている時は、誰に分かち合ってもらおうが「痛い」のであり、決して軽減されることはない。そこに無理に「寄り添」おうとでもされれば、かえって邪魔なのだ。激痛の真っ只中で「痛いでしょ?苦しいでしょ?」などと、傍で言われたら「いいから放っといてくれ!」と叫びたくもなる。

悲しいのは私がいるために
悲しいのは私であるために
悲しいのは 私自身だから
(同上)

岡本おさみの詩は、時折、人間の本質を突いているように思える。もし 現象学派なら、 「痛み」こそが「私が私である」ことの根源的な現れなのだ、と言うだろう。
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最終更新日  2022.01.08 07:13:37


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