セミリアイア「晩年」日記

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2023.01.05
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カテゴリ: 哲学論考
​​ほとんどの現代日本人は無宗教か、そうでなければ変な宗教にハマっているような印象があるが、最近はコロナで仏事もやらなくなりつつあるらしい。樹木葬とか散骨などの葬儀を望む人も増えつつある。また、経済的事情による「直葬」も増加している。

「死」を人生のストーリーのエンディングと捉え、そこに至るまでの「終活」が、盛んに言われている。いかに、自分が死んだ後、相続トラブルなどが起こらないようにするかというのが、主な内容のようだ。100万円とか200万円の死亡保障保険もよくCMで見るが、「せめて、お葬式代くらいはねぇ」というのが「殺し」文句である。

まあ、冗談ではないのだが、「死」という個人にとってはどう対峙すればいいか分からない問題を、社会システムの中にうまく嵌め込んでいる、というのが現代の日本人の姿だ。

ハイデガーは、「死」が「現存在の絶対的不可能性」だということを忘れるために、「非本来的な遊興に耽る」「世人」(Das Man)を批判したが、現代日本人は「終活」「死亡保険」などで、「死」もまた「リスク」の一つであり、それに正しく備えることが「生」の意義であるかのように振る舞っている。これは、ハイデガーの「世人」の姿だし、イリイチが言った現代社会の「医療化」の一つの側面なのかもしれない。

自分の両親もそうだったが、多くの日本人は病院で死ぬ。その直後から、「死」についての社会的システムが駆動し、死亡診断書を受け取った遺族は、葬儀屋に連絡を取り、
霊安室から遺体を移す。それも今は自宅よりも葬儀場の方が多いという。「葬儀屋」にとっては「死」は、「真心を込めて」云々のコマーシャルフレーズを言おうが言うまいが、結局のところ商売の種であり、幾つかのメニューから遺族は応分の葬儀スタイルを選ぶことになる。やがて、遺体は火葬場で焼かれ、納骨される。この一連の流れがスムースに進むことが、あたかも「死」に対する正しい扱いであり、そのために、死者本人が生前から、自らの「死」が正しく扱われないことのリスクに備える「終活」をしなければならない。

そこには、キリスト教に見られる「救済」も、仏教に見られる「転生」もない。現代社会において「死」は、ある意味で「商品化」されているのだ。それは、宗教的儀式を行う場合でも変わらず、「坊主丸儲け」という言葉が示すとおり、「死」を独占的に取り扱うことのできる宗教は、信者の死こそが利益の源泉なのである。

そのことをやや意地悪く言えば、現代人は「死」をその本来性において受け止めないために、それを「商品化」しているのだということになる。逆説的に言えば、「死」に備える「終活」に熱心であればあるほど、彼らは自分の「死」を忘れていられる。

それでは、自分自身は、自分の「死」を、今、どのように考えているのか。次項をもってこの論考を締めくくりたい。





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最終更新日  2023.01.05 06:04:19
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