セミリアイア「晩年」日記

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2023.04.02
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カテゴリ: 随想


そういう意味では、自分も孤独ではない。妻と二人暮らし、子どもたちとは定期的に行き来している。今年の連休は札幌から娘夫婦と孫たちがやってくる。5月中旬には鹿児島に行き、息子夫婦と孫に会ってくる。近所とのつきあいもそれなりにあり、職場の同僚ともいい関係だ。弓関連、健康麻雀関連、ピアノ関連など趣味での浅いつきあいもある。独居老人の孤独とは今のところ無縁だ。

だが、自分は「現象」としての「生活」がどうあろうと、人間の「本質」は「孤独」であると考えている。今朝の新聞で、個人主義からコミュニティに、コロナを機に人間の生き方が変わったという書評(『強欲資本主義は死んだ』)があった。コロナが終わっても、コミュニティから個人主義へと再び回帰はしないだろう。なぜなら、「何かに所属することは私たちにとって負担ではなく、人間性を取り戻すことにつながる」からだ、という文で書評は終わっているが、引用された筆者の短い文の文脈は不明だが、全面的に賛成はできない。

「何かに所属すること」が重要だ、という点には何も文句はない。仮に、仕事が来年度にはなくなったら、自分は「職場」の代わりになるコミュニティを探すかもしれない。年齢の問題はあるが、「教える」という仕事を別の場所に探すかもしれない。「関わり」の中でこそ、「生きがい」が得られる。

しかし、人間は、その構造上、「孤独」であり、「孤立」している。別な言い方をすれば、「個人」としてしか生きられないのだ。ハイデガーなら、「存在論的に」という言い方をするだろう。もちろん、親がいなければ自分は生まれなかった。しかし、思春期を経て、親への依存度を薄めていく。その時、「自立」し、生活も「自律的」になる。何をどこで学ぶか、どうやって自分の生活を支えていくか、人生を誰とともにするか、我々は「個」として、その選択を繰り返していく。それは、「他」から押しつけられるものであってはならない。同様に、自分の孤独を、人のせいにしたり、誰かに解決してもらおうとすることも、あってはならないと思う。

選択の結果が思うように得られなくて、普通の意味で「孤独」に陥る人もいるだろう。十分な年金や資産もなく、老後を一人で過ごさねばならない人もいるし、「引きこもり」のまま、親が亡くなる人もいる。しかし、それは「あってはならない」ことだと自分は思わない。そういう意味で、現政権が掲げている「孤独・孤立」対策、というのはいったい何なのかと思う。おそらく、「相談」センターを作ったり、孤独な人が集える場を作ったりするのだろう。自分の町にも「あいよる」センターなるものがある。何のことか、しばらく分からなかったが、「相寄る」なのかな、と最近気づいたあるいは「愛寄る」なのか。どちらにしても、まるでキラキラネームではないか。

もちろん、一方で、孤独は自らの選択である、という人もいるだろう。あるいは、そうでなくとも、受け入れつつ生きている人は多い。そういう人たちにとって、「あなたの孤独を何とかしてあげますよ」という政策は、余計なお世話でしかない。もし、孤独から脱したければ、自分で何とかしないといけない。

「死」は、いずれにしても「分かち合う」ことはできない。もちろん社会的な意味での死、つまり死亡届を出し、葬儀をし、相続をする、という意味での死は、他者の関与なしには成立しないのだが、そうだとしても「私」の「死」は、私自身のものであり、他の誰のものでもない。だから、私の「生」も本来的には同じことなのだ。

そして、だからこそ、「私」は限られた人生の中で、親や子を含めた「他者」との関わり合いを求めるのである。それを叶えてくれるのは、「社会」ではなく、「私」自身なのだ。





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最終更新日  2023.04.03 05:21:55


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