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2023.04.08
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カテゴリ: 哲学論考
​​修士論文のタイトルは『後期ニーチェのニヒリズムについて』である。

しかし、ニヒリズムについて、ここで学問的に論じようとは思わないし、もうそういう気力もない。だが、よく考えてみると、自分はずっと「ニヒリスト」として生きてきたような気がする。

ニーチェは「世界の絶対的無目的性」を知ること。世界にはいかなるメカニズムもなく、歴史にはいかなる目的もなく、救済もない、というのがニーチェのニヒリズムの出発点である。しかし、その絶望的認識から、どう生きるかは、人それぞれだ。

ニーチェは、その冷徹な事実に正面から向き合い、学問の世界から追われ、狂気のうちに没した。「音楽の精神からの悲劇の誕生」をワーグナーの楽劇に見ようとした若き文献学者の姿は、後期ニーチェには一欠片も見当たらない。そこにあるのは、自分が逢着した真理に打ちのめされまいと必死に戦う、極めて精神不安定な人間の姿だ。もう長い文章を書くことすらできず、彼のニヒリズム思想は1880年代のアフォリズムの断片として書かれているだけである。それを一つ一つ拾い上げて、繋げて、まとまりある体系にする、というのが自分の修士論文のテーマだった。

Nicht 」、つまり「 否」 を突きつけることは、若者にとってはある種の快感である。西洋形而上学という壮大な知の体系に「否」をつきつけ、しかし、最後にはそれに取り込まれてしまう、というのがハイデガーのニーチェ理解である。「アンチはそれがアンチであるからこそ、アンチを唱えた当のものに必然的に取り込まれていく」。

自分は、ニーチェを学び、世界の無意味性を知ったが、それに正面から立ち向かうだけの力などないことはよく知っている。それを「やり過ごして」生きてきた。教師という職業は、前に書いたように「天職」などとはとても言えないが、ちょうどおあつらえ向きだったのかもしれない。ビジネスの世界なら、その論理の中で、その価値観を全面的に信じなければ、とても成功は覚束ない。役人なら、ウェーバーの言う「官僚性」の中に、己を殺さなければ生きていけない。

ところが、教師は極めて中途半端に、別の言い方をすれば、「ほどよく」ニヒリズムを実践しながら、生きていける。事実、自分はそうやって生きてきた。同列に言うのもおこがましい限りだが、自分はニーチェのようにではなく、漱石のように生きてきたような気がする。





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最終更新日  2023.04.08 06:15:32
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