セミリアイア「晩年」日記

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2024.01.15
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カテゴリ: 論考集


前回書いた、規律の厳しい授業をする先輩教師も、やはり「生徒を支配する」型の教師である。学校教育は集団教育だから、そこで「一人一人を大事にする」教育などできない。だからといって授業集団としてしか生徒を見ず、その統制だけが目的であるような授業の進め方も間違っている。

先輩教師は、その矛盾を担任としては慈母のごとく愛情を生徒に注ぐ、という形で解決しようとしたのだとも言えるし、それは間違っていない場合もある。なぜなら、本来親が果たすべきそのような愛情を受けていない生徒は、必ずいたからだ。だから、そういう生徒は一生涯、彼女を「恩師」と思い、慕い続ける。だが、そうでない生徒にとっては、何だか分からないが、やたらに厳しく口喧しい教師としてしか記憶に残らないだろう。

授業をしていて、生徒の成長、といっても自分の場合は生徒の言語能力の成長をふっと感じるときがある。また、生徒自身もそれを実感することも多い。「李徴はなぜ虎に変身したのか、2000字程度で論ぜよ」というような課題を、考えあぐねつつも書き上げ、「うん、頑張ったね」と言ってやると、ことのほか喜ぶ。

「おまえら、日本語、大分できるようになったでしょ?だって、今読んでる、『論理空間』としての『可能性』の空間と『言語空間』の関係なんて、1年の最初に読んだら、何が何だか分からない話だよね、きっと?」と言うと、本当にそうだというような顔をしている。つい2年前の自分には、背伸びをしようがどうしようがまったく理解不能の文章を、今は何とか説明されれば理解できるところまでたどり着いたのだから、自分の成長を実感できるのだろう。

自分が授業で求めているのは、結局そういうことであって、それは生徒を支配することではまったくないし、まして、生徒に無際限の愛情を注ぐことでもない。生徒の成長の傍らにいることが単に嬉しい。その嬉しさは、弓で努力して目標の点数を出したときの嬉しさとはまったく違う。「私」という個人の中で完結しない喜びだからだ。

もう40年を越した教員という職業生活の中で、自分がはっきりと自分の手にしたと言えるのは、そういう喜びであり、それは年に数回だけ訪れ、後は消えていくようなものだ。





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最終更新日  2024.01.15 05:35:32
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