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第7官界彷徨
追原騒動記
2005年2月
市川市のコルトンプラザ前の科学館で開かれた、三番瀬、盤洲干潟展に行きました。三
番瀬はもう市民権を得ているけど、盤洲干潟は名前を知っている人が少ないのでは。
盤洲干潟は、千葉県のほぼ中央を貫いて流れる小櫃川の河口域にあり、三番瀬ととも
に東アジアフライウェイを旅する鳥たちの大切な命の鎖の一つです。今、そこには大
きなスパとホテルが開業したため、河口に密生していたハママツナ、シオクグなどの
植物が絶滅状態になってしまいました。千葉県や、ホテル、環境の専門家を名乗る人
たちは、このスパのせいではないて言ってますが、私たち環境保護団体は、シャン
プーまじりの温水や、浴槽を洗った洗剤まじりの廃水が原因だと考えています。この
地で育ち、この干潟を毎日歩いて観察している干潟の防人、Kさんと一緒に私たちは
水質検査や生物、植物のデータを記録しています。
皆さんが知っている盤洲干潟といえば、テレビの「いきなり黄金伝説」で、「シャクー」の友人、濱口くんが、河口で「ちごがに」をバケツいっぱいとってカニチャーハンにして食べてしまった事がありましたが、あの現場が盤洲干潟です。私たちは、もちろん抗議文をテレビ朝日に出し
ましたよ。時々「干潟の学校」をKさんを講師に開いています。
2005年3月
ところで、盤洲干潟と私たちとのかかわりは、追原ダムなんですね。小櫃川の源流域に
七里川と呼ばれる渓谷があり、そのそばに追原という廃村がありました。かつては薪
炭産業で栄えたらしい村。立派な石垣があり、樹齢600年はあるかと思われる大楓
がその集落の主のように立っていました。
ハイキングサークルの例会でそこに連れて行ってもらった私たちは、すっかり追原の魅力に取りつかれてしまいました。七里川にかかる東大演習林にゆく吊り橋を渡ると追原への道。昼なお暗い杉林を行くと炭焼き窯のあとがあり、小さな流れのところから竹林が見えます。春には竹林の向こうに霞がかかったように桐の花が咲いているのが見えます。どんどん行けば赤いよだれ掛けをしたお地蔵様。そして竹林、梅の木、壊された家の材木。いつか人目に触れることを予感してか、一升瓶がきちんと並べられ、ここが玄関、ここが水屋、と、家の間取りも想像できるのでした。
屋敷のまわりに植えられた桐の木は樹齢何年か。かつてここにみんなに祝われて誕生した女の子がいたのだと想像できます。 追原に行く道は、誰かが私たちを待っていてくれるような不思議な嬉しさを与えてくれる道でした。
まめざくら、お茶の木、香り高い黒文字の若木、暗い杉林の奥から息を潜めて私たち
侵入者を見つめていた小さなけものたち。私たちは幸せだった少女の日の自分に会い
たくて七里川の吊り橋を渡ったのかも知れません。それからね、思いもかけない大変
なことが起こったのです。続く。
on 05.3.2 9:58 AM, at
wrote:
追原騒動記その2/
ハイキングサークルの人たちは、その頃から県外の高い山に行くよ
うになり、私たちは「誰にもここを教えないようにしよう。どうせ長野や群馬の山に
は負けるからね」なんていいながら吊り橋を渡って遊びに行ったのでした。
1997年の暮れ、木更津から電話が来ました。「大変だよ、追原にダムができるんだって」
どうしよう、と思いながらどうしていいのかわからず、ハイキングサークルの親分に
相談しました。そして追原を守る運動を始めたのです。まずは、秘密の場所はここが
どんなに素晴らしい所かを宣伝しなければなりません。
私たちは近くにある七里川温泉をベース基地に追原を歩く自然観察会を計画しました。第1回は1998年1月、なんと南房総には珍しい雪の日でした。雪の中を訪ねた私たちに、廃村追原は「こんな景色だってあるんだよ」と雪化粧した姿を見せてくれました。
その日うさぎCちゃんが撮影した「雪の追原」の写真はそれから写真展を開く度に人々の感動を呼ぶ傑作となりました。
2回目は1998年3月。わたしはじゃんじゃん「追原つうしん」を発行し、
もう秘密とは言ってられなくて、いろんな人に呼び掛けて、この日の観察会は人々の
集団がおしかけ、山里はお祭り状態になりました。水性生物、野草、地質学、歴史、
昆虫、けものと、6つのコースにわかれ、追原をそれぞれの専門家の案内で歩くとい
う大変ぜいたくな観察会でした。どうしてこんなことができたのか、今でもちょっと
信じられません。
何と、その日から私たちは追原ダム問題の第1人者になってしまっ
たのでした。地元の人に示された計画図では、片側二車線の付け替え道路ができて、
トンネルの出口はちょうど私たちの大事な楓の木のある廃村のところでした。どうし
てもあの木を守ってあげたい、何だか使命感を持ってしまった私たちでした。続く。
on 05.3.6 9:58 AM, at
wrote:
追原騒動記その3/
3月の雪は1998年以来と新聞に書いてありました。記憶を呼び
覚ませてみると、追原に雪が降ったのは1998年の3月でした。その日、しんしん
と降る雪の道を追原迄たどり、そのあと七里川温泉の大広間で「ダムはムダ」という
タペストリーを持って記念撮影をしました。
さて、それから何回もの自然観察会を持ち、県にもでかけ、新聞記者とも知り合いになり、という展開があったのですが、私
たちにとって「ただそこが好き」というだけだった追原には、私たちの知らないいろ
いろな面があることがわかりました。
場所は木更津から久留里線に乗って終点の亀山
駅で降ります。バスに乗って黄和田という終点で降りて歩くのです。江戸時代、この
土地は川越藩松平家の飛び地でした。この地でとれた炭や薪を小櫃川を下って河口の
木更津から船で江戸に運びました。いわば植民地のように、搾取されていたのです。
3代家光の頃から、薪炭産業のほかに新田開発が行われました。川まわしという、小
櫃川の流れを変えてその川のあとを水田にしたところがいくつも残っています。
郷土史の先生は、追原が栄えたころの人別帳を見せてくれました。農民の数、持っている
土地、馬や牛の数から虚無僧の数まで書かれていて、興味深いものでした。上総の飛
鳥という本があります。我らが親分は、追原は大和朝廷から逃れた人たちの隠れ砦だ
と力説しています。あんな山の中にあんな石詰みがあるのですからそんな想像も広が
ります。
親分は「追原宣言という立派な文章を書き、七里川温泉の大広間で、満場一
致で宣言を採択し、後には引けない戦いが始まりました。
on 05.3.7 10:00 AM, at
wrote:
追原騒動記その4/
長塚節の短編に「炭焼きの娘」というのがある。茨城県の豪農の息
子であった長塚節が、千葉県の清澄山系の山持ちの家に林業を学びに来ていた時の体
験を書いたもので、追原によく似た植物などが出て来る。私たちは自然観察会でこの
あたりの植物の名をたくさん覚えた。
始めて知ったものに「フサザクラ」がある。こ
の木は桑科の植物でちゃんとした土地ではほかの木に淘汰されて生きられない。崩落
地帯に根を張って生きる。3月の半ば過ぎ、七里川の土手に赤い小さなともしびを点
す。この木は花びらがない。けれど、短い満開の時に出会えば、忘れられない美しさ
だ。フサザクラが咲く頃、道の反対側の斜面にはすみれの群落が現われる。気の早い
シャガがつぼみをつけ、観音堂の前のやぶつばきは花と葉のちょうど良い対比で私た
ちを喜ばせる。
イノシシたちはたけのこ掘りに夢中だ。親分はヒメコマツガ氷河期の
生き残りでここにあるのは貴重だと力説していた。けれど、私たち子分は、その地味
さに、あまり感動せず、キブシのかんざしのように揺れる花を愛で、マメザクラの小
さな淡い色の花びらを愛でた。うさぎたちは親分を尊敬しつつも、あまり言うことを
聞かなかった。
on 05.3.10 9:58 AM, at
wrote:
追原騒動記その5/
さて、うさぎたちは親分のいうことを聞かなかったというより、勝
手に突っ走ってしまったというのが正しいような気がします。親分は千葉の自然を愛
し、どの季節にはどの斜面に何の花が咲くとか、どの渓谷に何の鳥が毎年巣を作ると
か、何でも知っています。
その千葉の自然が山ごと消えてなくなった高度成長期、そ
のあとのゴルフ場銀座、そして横断道路を渡って産廃の捨て場になったこと、川の流
れをせきとめて、いくつもいくつも出来たダムなどについて、悲しんでいました。私
たちの思いを受け止めて、責任は自分がとるから、何でも好きにやって良い、援助は
するから、と言ってくれたのです。
追原うさぎが作った年賀状の絵は、大きなリュッ
クを背負い、旗を持って先頭を行く親分のうしろで、思い思いの方向を向いたうさぎ
たち、、双眼鏡片手にあらぬ方向を向いて笑っているうさぎ、カメラを構えて
御満悦のうさぎ、大きな鉛筆を背負って、自分の世界に入り込んでしまったうさぎ(私の事?)
が描かれています。
さて、追原の生き物ですが、まずはイノシシ。元気で太っていっ
ぱいいます。12月からタケノコ掘りをし、泥んこ遊びのあともあちこちにあります。
そして鹿。七里川では鹿の角を拾うことも、鹿の写真をとることもできました。それ
からキョン。マンガのガキデカに「八丈島のキョン」が出て来ますが、中型犬の大き
いのくらいで、鹿そっくりです。四つ目鹿ともいうそうです。のうさぎ、野ねずみは
猛禽類の鳥たちのためにたくさんいます。蛇とヒルは苦手。ものすごくたくさんいま
す。ヒルは大きいのから、髪の毛くらいのまでいます。
私たちは夏の間は追原へ行くのをやめていました。川にはハヤ、ギバチ、アユなどがいました。鳥は、ヤマセミ、カワセミ、キツツキの仲間がいろいろ、里山の鳥たちも行き場を失ってこの渓谷に来ていました。猿は、群れが通過するだけでした。お猿の専門家の先生に、いろいろな
動物の糞の見分け方を教わりました。フリーページに、追原のページを作りました。
見てね。続く。
on 05.3.11 9:59 AM, at
wrote:
追原騒動記その6/
自然観察会では地学の先生も来た。この地域は清澄層と黄和田層の
地層が重なっており、海底の埃が溜まっていたものが隆起した部分もある。それが七
里川の川底を作っている滑床になっているそうだ。
洗濯板のようになった柔らかい川底が続いている。その地層のすきまから温泉が湧き出ている。イオウの臭いが鼻を突
き、湯の華の沈殿もある。川の何か所かに温泉の汲み入れパイプが出ている。この頃、
地元のケーブルテレビがこの温泉を汲んで(成分は温泉でも、湯温度は地下水と同じ
なので)河原でお風呂を焚いた番組を作ったこともあった。
川岸には隆起した部分が
美しく層になっているのも観察できて、地学にも詳しくなった私たちだった。親分は
それ以前から千葉の温泉をミニコミ誌で紹介しており、まとめた本は地方出版社の売
り上げ第一位になった。1998年3月26日には初めて千葉県庁に行き、河川海岸
課、土木課、環境保全課、などと交渉した。
3月29日には、七里川温泉の大広間で
「追原宣言」を採択した。この日、吊り橋のところで、2羽のヤマセミに会った。鳩
くらいの大きさで、頭にかんむりをつけていた。川のまん中の上空で、1羽がもう1
羽に魚を与えていた。夢のような情景だった。あとで調べると、結婚が成立したとき、
雄が雌に獲物をプレゼントするのだそうだ。かれらの幸せを守るためにも、追原を守
らなければと、うさぎたちは決意した。
on 05.3.12 9:56 AM, at
wrote:
追原騒動記その7/
そまびとたち。(MAC使いの私ですが、そまという字の漢字変換が
できません)この地域は房総のチベットといわれ、千葉県の政治から置き去りにされ
てきました。
電気がついたのは県内で最後、昭和30年代の中ごろだったそうです。
今回のダム計画は、初めて政治の光をあびたと人々は感激し、歓迎しました。私たち
が反対集会をやっている日と、彼等のために県の役人が食事つき説明会を行う日は、
なぜかかちあいました。
終わって、「お前らに俺たちの気持ちがわかるか」と、いつ
も詰め寄られました。詰め寄る人はダムによって利益を得る少数の人たちでした。補
償目当てに大急ぎで杉や檜を植林する人でした。私たちは追原に棲む言葉を持たない
たくさんの命たちの代わりに、彼等にダムの不必要性を説きました。
七里川温泉から10メートルほど下がったところ
に、私たちが大好きな山の物産店があります。マリリンモンローの大きな白黒写真の
ポスターが2枚貼ってあり、店の品物は、炭焼き部のおじさんたちが焼いた炭、一升
壜に入った木酢液。木工部のおじさんたちが作った木の細工物、七里川で拾った鹿の
角、おなじく七里川で拾った「むじなっこ」。むじなっことは、川の流れに洗われた
木の枝が、硬い所だけ残って、自然の花器のようになったものです。
それから、姿はみせないけれど、おばさんたちが作ったみそ、山菜の煮物、つけもの、おもち、季節ごとの花、夏はきゅうりやトマト、冬は柚子やみかん。新鮮で安くて、おじさんたち
との話もはずみます。年の瀬は、お正月の買い物もこの店でしました。長い紐にくく
りつけた干し柿は、安くておいしくて、追原うさぎAは、首から下げてネックレスに
して遊びました。いつもお茶を入れてもらって話をしました。
おじさんはお菓子も出してくれました。そしてお得意は山ヒル談義。私たちがキャーキャー言ってこわがるので、必ず山ヒルの話が出ました。私たちは、おじさんたちに、ここにダムができた
ら、ここの良さはなくなるし、道ができても空き缶と排気ガスと産廃が来るだけだと
話しました。「そうはいってもなあ」おじさんたちは現状を何か変えたいという様子
でした。
お店の隣には炭焼き窯があり、夕方前を通ると焚き口にほのかなあかりがあ
り、紫のけむりがたちのぼり、こげくさいにおいがあたりに漂って、山里のムードが
いっぱいでした。
on 05.3.13 9:57 AM, at
wrote:
追原騒動記その8/
さて、追原うさぎの年賀状が届いたあと、ハイキングサークルのO
さんから「追原のメンバーってどうなってるの?」と、聞かれました。「メンバーっ
て、私たち以外に別にいないんですけど。皆さんはどうなんでしょうね」と、聞くと
「みんな自分が追原のメンバーだと思ってるよ」とのこと、確かにそうです、何かに
つけてお願いして、受付や案内や署名を集めることや中心になってもらったのはハイ
キングサークルの皆さんでした。でも、「山歩きに政治は持ち込まない」という不文
律のようなものもありました。
親分の立場を危うくしてはいけないと思い、積極的に
お願いしてはいけないと思っていたものの、千葉の山を歩き、千葉の山が好き、この
自然を次の世代に手渡したいとの思いは、ハイキングの仲間はみんな同じでした。次
の年の年賀状には、裃をつけたうさぎのOさんの絵が加わりました。Oさんのことを何
と呼ぼう、となって、殿、御家老、などいろいろ出たのですが、最終的には「じいや」
になりました。
じいやは、本当は市原の土地持ちの息子さんで、一生を豊かににこや
かに過ごしました。大学時代は児研部だったそうで思わずぎゃっとなってしまいまし
たが。児童文化研究部は、何か地味な感じで手作りの人形劇などをして夏休みには田
舎を上演して回っているみたいな、そんなかんじでしょうか。私たちは愛を込めてO
さんのことを(陰で)じいやと呼んでいました。
じいやは登山の趣味を仕事にして、
彼を愛する働き者の妻とともにスポーツ店を営んでいました。山の道具その他、いい
ものをいっぱい持っていました。3年前のゴールデンウイークには亀山湖でカヌーに
乗せて貰いました。2艘のカヌーを積んで来て、Y,Tちゃんの2艘とともに皆で楽し
い休日を過ごしました。鋳物のお鍋でじいやが焚いてくれたシャケ御飯のおいしかっ
たこと。
その前のゴールデンウイークには、追原うさぎAが「こしあぶら」というも
のを長野に取りに行き、みんなが同行。Oさんの運転であちこち回りました。草津白
根のあたりでお腹の具合が悪くなり、八ツ場ダムの川原湯温泉では、体調が悪そうで
したね。昨年の3月、「ゴールデンウイークには遊んでね」と出した私のはがきが届
いた頃、じいやは再発した病気が悪化して入院してしまいました。亡くなったのは4
月。じいやのいない寂しい春が来ます。
on 05.3.16 9:55 AM, at
wrote:
>追原騒動記その9/
1998年11月8日、「小櫃川原流域の自然を守り育む連絡会」
が発足しました。私たちは全然知らなかったのですが、私たち以外にこのあたりを大
事に思っている人たちがいたのですね。そしてこの人たちは私たちみたいにふらふら
遊んでいるのではなく、水質検査や生物の調査など、自然環境や水を守るために、地
味な仕事をこなしている専門科集団でした。
私たちは自然な成りゆきでこの人たち
と一緒に追原を守る事になり、連絡会にも加入しました。29日には連絡会主催の自
然観察会が開かれ、150人が参加しました。1999年3月には、東京大学演習林
の林長さんをお訪ねし、100年の歴史のあるこの林を、地元民とともに守ってほし
い、雨が降っても濁らない七里川の流れは、演習林があるからこそと訴えました。同
じ年の9月から巡回写真展を始めました。開発の嵐に曝された千葉に、僅かに残った
美しい自然。千葉にもこんな所があるんです、と、みなさんに分かってもらいたかっ
たのです。1回目は9月23日の午後、千葉大学のけやき会館でした。2回目は木更
津中央公民館で、11月5日から9日まで。3回目は12月4日、千葉市女性センター
で。3回とも、撮りためた写真のほかに、鹿の角、むじなっこ、農産物、おじさんた
ちが焼いた炭などを展示、千葉にこんな所があるなんて知らなかった、と、大好評で
した。
そして、この年の8月、国庫補助事業の勧告を受けて、千葉県は追原ダムの着
工を当面の間中止するという決定をしています。勧告の内容は「水需要の伸びが鈍化
していることから、2カ年程度は流量観測程度の必要最小限の調査に留めるべき」と
いうものです。9月8日、千葉県と行った交渉では、沼田知事に追原ダム計画の全面
中止を求める要請書を出し、追原宣言の署名1392筆も提出しました。
追原の小さな命たちを守ることができそうな予感にうさぎたちの胸はうち震えました
on 05.3.28 10:42 AM, at
wrote:
追原騒動記その10/
機械(OA)に弱い親分は、お得意の手書きで「追原七里川ガイド
」というものを作り、七里川や亀山に来る行楽客に手渡し訴えをした。そのガイドは
地図つきでとてもよくできていた。秋の紅葉の時期には折木沢の東大演習林が一般解
放され、沢山のお客さんが来るので、その人たちにもガイドを渡した。『こんにちは
よ~く七里川渓谷に来てくれましたネ』という書き出しである。
「いま、あなたの
いる渓谷、七里川渓谷です。千葉県で一番長い川、小櫃川が、亀山ダムから上で2つ
に岐れ、右の谷を「笹川」と呼び、左の流れを「七里川」と名を変えます。七里川の
流域一帯は、東京大学の演習林で、2200haの樹林があるため、雨が降っても濁
らない川として素晴らしい渓谷の景観が残されています。両岸にはヒメコマツやフサ
ザクラが生き残り、オオムラサキが飛び交います。水の中にはカジカが鳴き、ギバチ
もトウキョウサンショウウオも棲んでいます。見上げれば真紅なカエデとその上にオ
オタカが舞っています。こんな自然の残る渓谷にダムを造り、谷と隠れ里追原を水底
に沈めようとする計画があります。私たちは千葉県のこんな計画を止めさせ、七里川
や追原を守り、次の世代に残したいと考えています。」という訴え文と地図。川の地
図には温泉の沸き出し口や追原ダムの堤の予定地、付け替え道路の図もあった。
東大
演習林の所で「ガイド」を渡す時、親分は「自然観察説明員」と赤いマジックで書い
たチンケな腕章を作って来て、子分のうさぎたちにその腕章をつけさせた。するとあ
~ら不思議。通行する人たちが私たちにていねいに挨拶したり話し掛けたりしてきた。
もちろん知っているかぎりの知識をお伝えしたけど、ガイドはすぐになくなって、私
たちは道ばたに簡易コンロを出し、乾杯をしてやみ鍋をつついた。
寝転んだ土手に小
さな鳥の巣がころがってきた。うさぎAが「コガラの巣だよ」と言った。人間って権
威に弱いのね。私たち東大の院生に見えたかも。うさぎたちが人間っておもしろい生
き物だとつくづく思った1日でした。>
on 05.4.1 9:45 AM, at
wrote:
追原騒動記その11/追原にはS岩温泉とS川温泉があります。。以前は清澄温泉という
素敵な温泉があったが閉店?してしまいました。私は清澄温泉を買うか借りるかして
温泉宿をやってみたいと本当に思ったことがありました。敷地はせまいがロケーショ
ンは抜群。S岩温泉は、先日よねすけさんが12チャンネルの一軒宿訪問をしていま
したが、私たちが行った時はふかしたさつまいもとかお餅を焼いて食べさせてくれた
けど、よねすけさんは伊勢エビを焼いてもらって食べてましたね。さて、S川温泉に
はお世話になりました。以前は高齢のおかみが経営していました。そのうち若い御夫
婦が買い取って営業をはじめました。主人は宗教おたく。犬と猫が多数。癒し系の温
泉です。親分は「これからは開発ではなく、この自然で、環境で飯が食える時代だ」
と言い、ダムに沈めないために、この温泉の宣伝を始めました。千葉県自然保護連合
のホームページで、追原の宣伝をし、このS川温泉の連絡先も入れました。写真展の
折々に来場者に「S川温泉に一度は行ってみて」と話しました。親分は新潟の巻機山
のふもとで一人でスキー場開発から山を守った「ひとりぼっちの反乱」の民宿うんて
んの御夫婦の例をよく話しまた。私たちは民宿「うんてん」に泊まり、巻機山登山を
しました。その山は、岩場の上に泥炭の草原の広がる、うさぎたちを夢心地にさせる
なんとも言えない美しい山でした。下山途中で孫をつれたおじいさんに「あんたたち
はその靴で登ったのか」と怒られました。山頂まで行かなかったうさぎたちは、「山
頂の下で帰ってきました」とおじいさんに告げました。おじいさんはわらじばきで、
「登山靴で登られたら、ひとたまりもない」と話していました。大事に大事に守られ
ている山で、うんてんはおかみさんの丹精込めた山菜の料理が、もういやっというほ
ど出て来る民宿でした。「ダムじゃなくて手をつけない自然だ」巻機山登山は、うさ
ぎたちに確信を与えました。>
on 05.4.5 9:46 AM, at
wrote:
追原騒動記その13/追原うさぎAから電話が来て、ハイキングサークルの総会の様子
を知りました。心配なことも聞きましたが、疲れて転地療養中だった追原うさぎMが、
元気になって帰ってきたと嬉しい報告も聞きました。さて、追原ダムにかかわって、
たくさんの人との出会いがありました。1999年の追原つうしん第8号は、「東大
演習林の林長さんにお会いして」という親分の文章と、「大網のSさんから『先日、
例の巨樹を尋ねてみました。なんともいいようのない霊気につつまれてなかなか立ち
去ることが出来ませんでした』という手紙と署名と一緒に追原ダム建設反対の要約が
届きました。追原を知らない人に説明するために、八千代市のFさんが書いてくださっ
たのです。」という記事がありました。その要約は千葉県地図に追原の場所が書いて
あり、県はこのダム建設の目的を*洪水調整*川の流れを正常に保つ*上水道用水源
確保というが、*昭和45年以来目立った洪水、渇水はない。*周辺人口はむしろ減
少、各市は将来の人口予測を下方修正している程です。*このダム建設は全国的に言
われている無駄な公共工事そのもの。point、この辺りは千葉県随一の渓谷美を
形成し、貴重な動植物の宝庫である。この豊かな自然環境を皆さまで守ってください。
と、いうチラシでした。ポイントをきっちり押さえてあって感激。Fさんの思いが伝
わってきました。みんなの思いがきっと追原を守りきる力になると元気が出ました。」
と書いてあります。また、「追原の本」として「あんたたちの追原は大変な所だった
らしいよ」とKさんが面白い本を紹介してくれました。河村望さんの「上総の飛鳥」
(人間の科学社)追原周辺には飛鳥時代の有名人がたくさん来ていたというのです。
大津皇子の姉、大来皇女の墓もあると書いてあります。荒唐無稽の気もしますが、追
原周辺はたしかに隠された歴史があるようなムードがいっぱいです。とも書いてあり
ました。また、この号には追原うさぎAの得意なペン画で、「追原なべ」の紹介もあっ
て、必ずいれるものは揚げご飯だんご。にんじん、だいこん、こんにゃく、しいたけ、
あるといいもの、豚バラ肉、とうふ、はくさい、なのはななど。そして禁止事項には
猪、しか、野鳥などの肉は入れないこと。彼らとは追原を守る共闘関係にあります。
と書いてありました。楽しかったね。ふたり行けど行きすぎがたき秋山をいかにか君
が独り越ゆらむ・大来皇女
on 05.4.6 9:44 AM, at
wrote:
追原騒動記その14/おいしい追原。住みよい流山のHさん、メールありがとうござい
ました。過日にいただいた著作を拝見していますので、ぜひともHP開設をしていただ
いて、いろいろな主張を展開していただきたいと、期待してます。さて、昨日追原な
べの話が出たので、(うさぎたちは鍋が好き、鍋になると楽しい楽しい鍋大会になる。
そういえば昔、池袋の水明庵(学生アパートに風雅な名をつけた)で折りにつけ平家鍋、源氏鍋を作りましたっけ。まつむ
しそうの詩の頃ね。うふ。)追原の食べ物について。S川温泉には、親分が大原から
かさごやいわし、とびうおなんかの干物を持ち込んで焼いてもらいました。番頭さん
が焼いてくれるのを炉端でたくさんの猫と一緒にじっと待ってて食べるのは至福のときでしたね。時折道の奧のY部落のおじさんたち(推進派)の人たちが乱入し、「ダムはともかく道ができなければ救急車も入れない。おまえたちは俺たちを見殺しにする気か」と詰め寄られました。「ここは君津市、みなさんのところは天津小湊町だから、救急車は向こうから来るはず。追原ダムとは無関係です。残念!」しっかり理論武装もしてしまったうさぎたちでした。温泉で必ず出るのは筍の煮物。どの季節にもあって、ちょっと凍っていたりするのもご愛嬌。
鮎の塩焼きも必ずでましたね。1998年から、千葉県勤労者山岳連盟が毎年6月の
第1日曜に行っているクリーンハイクを、七里川ですることになりました。S岩温泉
の所から下流へと、S川温泉の所から上流へと向かって川の中をゴミを拾いながら歩
くのです。足下の弱い人は道路のゴミを拾いました。川の中組は、洗濯板のようになっ
た滑床を注意しながら歩くのですが、結構ゴミがありました。そして東大演習林へ行
く吊り橋の所で合流。ゴミを道まで上げて重量を量り、あとは君津市の清掃局に取り
にきてもらいました。働いたあとはおいしいお昼ご飯です。うさぎたちは毎回追原風
みそ汁を作って提供しました。川の水をおなべにすくい、火に掛けます。今は亡きM
会長と病気リハビリ中のNさんが川岸に落ちている木を拾い、石を組んで上手に即席
のかまどを作ってくれました。兵隊に行ったときに炊事班だったと言ってましたけど
本当かしら。お二人が煙に目を細めてお鍋のふたを取っている写真が残っています。
みそ汁の具はおじさんたちの山の物産店から買ってきた玉ねぎや、真竹のたけのこ、
そして追原なべの定番、冷ご飯の揚げ団子。これは私が考案したもので、田舎らしい
ムードを出したくて、残りごはんをお団子にして揚げてみたのです。それをみそ汁に
も入れてみたら、お出しが出てとてもおいしく、みなさんに喜ばれました。追原うさ
ぎAは寒天寄せが得意。みかんやソルダム、キウイなどのフルーツいっぱいの寒天や、
あんこを入れた水ようかん、みんなの喜ぶ顔が見たくて、そしてこんなにたくさん
(100人近く)の人たちが私たちの追原を応援してくれているという思いが嬉しく
て、いっぱいいっぱいご馳走した私たちでした。地元のおじさんたちも喜んでくれま
した。
on 05.4.9 9:34 AM, at
wrote:
追原騒動記その15・「びなんかずらと追原うさぎ薮こぎ彷徨」ヨーコさんお手紙有り難
うございました。浅間山の見える山荘でスローライフを楽しんでいるなんて、うらや
ましい。お勧めの辻邦生・水村美苗の「手紙、栞を添えて」早速読んで見ます。さて、
第7官界彷徨のヒロイン、小野町子は赤毛ちじれ毛の娘であり、兄さんと従兄弟の炊
事係りとして旅立つ折りに、祖母が彼女の新しいバスケットに最初に詰めたものが
「びなんかずら」と桑の根をきざんだ薬でした。祖母はこの2つが赤毛ちじれ毛の特
効薬だと深く信じていたのです。さて、ある日、うさぎたちは七里川を渡り冒険の旅
に出ました。清澄温泉の下の一本橋を渡り、湯が滝の廃屋へ。途中にある馬頭観音の
先でいきなり立派な鹿に出会いました。双方じっとみつめあったのち、鹿は深い森の
奧に消えていきました。そしてたどりついた廃屋は、かつてのひとの暮らしがそのま
まに、伸び放題のつつじや山茶花の植え込みもありました。うさぎAがどんどん裏に
まわり、うさぎCもあとをついて行ってしまったので、私もこわごわついていきまし
た。裏には別に何にもなくて裏山(赤井沢ピーク)に続いていました。うさぎAが
「すごいよすごいよびなんかずらだよ」というので見ると、大きな木にからんだびな
んかずらが、それはそれはきれいな大きな立派な実をつけていました。翌年の暮れ、
S川温泉での忘年会のかえり、うさぎたちは、またあの湯ヶ滝の廃屋から、キンダン
沢の大洞に行ってみたくなりました。「遭難するといけないから」わたしはみかんを
3つとチョコレートと水筒を持ち、うさぎAは双眼鏡、うさぎCはカメラを首からぶら
さげていました。清澄温泉から下りて川を渡り、どんどん行きました。廃屋の所をと
おりそのそばのお墓は年の瀬なのできれいに掃除して菊の花が供えられているのも見
ました。川にそってどんどん行き、川は県道に沿っているので、初めてでも大丈夫の
筈でした。川を渡れば県道があるのですから。崖を上り、下り「ましらのごとく」3
匹のうさぎはどんどん行きました。なんだか気が大きくなって、すごい崖もよじのぼ
り、やせ尾根のちょっとの眺望もながめました。「そろそろ帰ろうか」ちょうど川が
あったので浅瀬を渡り、帰ることにしました。川からの急な崖を上りどんどん行くと、
何と、また川があったのです。「ここはどこ?」うさぎたちは不安に駆られました。
この川を渡ったらどこに行くのか。全くわかりません。そして崖はうさぎたちには越
えられない程深かったのです。「川を越えて道に出なくては」それだけを思って、暗
い森や急な上りをどんどん行きました。夢中で「アタックナンバーワン」の歌を歌い
ました。なぜこの歌だったのか今もって不明。ただ「だけど、涙が出ちゃう。女の子
だもん」のところは妙に全員が大きな声になっていたので、泣きたかったんでしょう
ね。だんだん暗くなるし、みんな無口になるし、みかんは食べ終わってしまうし、と
いうところで、崖の下が川ではなく道になっていて、なんと車の音がするではありま
せんか。夢中で崖を走り落ちると、そこはS岩温泉の奧の県道でした。ちょっと30
分くらいのつもりで山に入って恐い思いをしましたが、私たちは下り道の県道を何事
もなかったように口笛を吹いて車の所まで帰りました。お正月のお飾り用の榊の枝を
軽トラに積んだおじさんが手を振って走り去りました。それ以来、私たちはプラスチッ
クの可愛い呼び子の笛をうさぎAに買ってもらい、いつも首からぶらさげています。
最後の方は疲れと不安で声も出なかったのです。あとから考えると、川が大きく蛇行
していたんですね。
on 05.4.10 9:36 AM, at
wrote:
追原騒動記その16/無惨・保台ダム。明けて2月、ハイキングクラブの例会で保台ダ
ムの所でキャンプをしました。保台ダムは初めて行ったのですが、追原ダムと同じよ
うに川を堰き止めて作ったものでした。車でダム湖の脇の道を上がって行くと、「コ
ロラドの月」みたいな景色が俯瞰されてきました。狭い川をせきとめたため、ダムの
周辺から多量の落ち葉が舞い込み、水が富栄養化して使い物にならなくなって全部水
を落としてあったんですね。本当は七里川みたいだったはずの川岸から山の中腹まで、
赤茶けた土がむき出しになり、不毛の川になってしまっていました。ここに住んでい
たたくさんの生き物たちの命を奪った結果がこれなんて、と、怒りがこみあげてきま
した。反対側に目を移すと、一羽の鳥がいました。「何だろうあれ」と私が言うと親
分が「磯ヒヨドリだっぺ」といいました。「そっかあ、こんなところまでくるんだあ」
私はあくまで素直でしたが、キャンプ場について車から降りたときうさぎAが「あれ
は絶対磯ヒヨドリなんんかじゃないよ」と低い声で言いました。でも、私たちは親分
の顔をつぶしては悪いので、あの鳥は磯ヒヨドリだと思うことにしました。じいやた
ちがテントを張っている間に私たちはふもとの町に買い出しに行きました。何だか嬉
しくて親分にソフトクリームをねだって買ってもらいました。買ったもので私の知ら
なかったものに、鳥の砂肝と、芽かぶこんぶがありましたキャンプ場にはみんなが
続々と詰めかけて来て、もう盛大に火が燃やされていました。取ってきた竹を50セ
ンチ位に切って、先を尖らせ、砂肝や鶏肉、お魚などを刺して火の回りに立てて楽し
い夕食が始まりました。この竹はうさぎの串焼きができるほど大きくしっかりしてい
たので、私は酔っぱらった誰かが串焼きになるのではないかと心配でたまりませんで
した。空は真っ暗で雪が降りそうな寒さでしたが、盛大に焚き火をし、砂肝はすぐに
黒こげになりましたが、みんなの食欲は炭化した食物をも消化しました。芽かぶこん
ぶは、なんか海草のねじまきのようなものでしたが、こまかくきざんでやかんの熱湯
をかけるときれいな翠色になり、お醤油とかつお節をかけてかきまぜるとすごくおい
しいとろろになり、これ以降私の大好物になりました。宴たけなわのころ。雲の間か
らちょっとだけ月が顔を出しましたので、私たちは歓声をあげて火の周りを踊りまく
りました。あてがわれたテントでぐっすり眠って起きると、テントには雪が積もって
いました。「きのう、鹿が来てたみたいだよ」誰かが言いました。確かによく見ると
あたりは鹿の糞だらけでした。朝ご飯は残り物を雑炊にして、パンと牛乳も並べて食
べました。私は食器洗いの担当でした。湧き水の所まで持って行って洗うのですが、
その冷たいこと、油分の凍って落ちにくいこと、テント撤収部隊の楽しそうなかけ声
を遠くに聞きながら、独り淋しく手をまっ赤にして茶碗や鍋を洗いました。
on 05.4.13 10:26 AM, at
wrote:
>追原騒動記その17/お月見キャンプ。本題の追原ダムからどんどん離れていってしま
いますが、まあ急ぐ旅でもないので、思い出したキャンプについて書いてみます。ハ
イキングサークル名物のお月見キャンプは中秋の名月の頃に主に高宕山で行いますが、
陸上自衛隊の通信基地のある、嶺岡山のキャンプもよくやりました。初めて行ったの
はゆみこさんの結婚式の日。出席したうさぎAと一緒に真っ暗な中を遅れて行きまし
た。2回目の時も何かがあって遅れて行ったのですが、フルメンバーが揃ってそれは
それは豪勢なキャンプでした。小泉千堅の「、、、嶺岡山の燃ゆる火の、、」という
歌を思い起こせる程にそこらへんにある木をぼんぼん燃やして気持ちよかったですね。
じいやはその日、相当準備したと思われる豚バラ肉の塩漬けとたいそうな仕掛けを持
参、さくらチップを燃やして、みんなに薫製を作ってくれましたが、塩気が抜けてな
くて辛かったですね。私はたくあんとかゆで卵とかの廉価の薫製が好き。宴もたけな
わの頃、ジープ型軽自動車が私たちのキャンプにやって来ました。迷彩服の太った男
がやってきて、聞けば、ここで模擬戦争ごっこをやるので明け渡してほしいとのこと、
すかさず親分が前へ出て「私たちはここの所有者に断って使っている」と、きりりと
言いました。びくついていた私たち子分うさぎは「親分はすごい!」と思いました。
でも、持ち主に断ったというのほんとかな?とも思いました。結局、その人たちは訓
練を明日行うので、私たちはその前に撤収するということになり、また、楽しく宴を
続けました。Rうさぎがラ・フランスノ5キロ入りの箱を持って来てくれました。私
とうさぎAは、率先してその剥き役を買って出ました。秋の夜気に程良く冷やされた
大好物のラ・フランスは、甘い果汁をしたたらせながら、次から次へと私たちのお腹
へ消えて行きました。甘い汁を吸うってこんなことをいうのかしら。さて翌日、起き
るとすでに自衛隊のテントのようなのが向こうに5~6張り張ってあり、比べると私
たちのテントは小さくて「まるで難民キャンプみたいね」とうさぎたちは話し合いま
した。その人達は家族連れで戦場に来ているらしく、妻やと子どももいました。私た
ちが朝ご飯を食べているとき、彼らは結構な装備をつけて撃ち合いをし始めました。
脇から見ていると、戦争シーンはドラマでしか見たことがないので、その戦争ごっこ
はちょっと不格好に見えました。そのうちに、じいやが連れて来たかわいい小雪ちゃ
んが、弟を連れて彼らに近づいて行き、1台の軽トラの上でとびはねて遊び始めまし
た。「難民に占拠された政府軍のとりで」といった様子で、おかしかったですね。そ
の日、うさぎCは二日酔いで、みんながハイキングに出かけたあと、一人キャンプに
残され、軍隊の砲火に曝されましたが、無事でした。さて、ダムの話ですが、4月2
3日に公開の「村の写真屋」という映画を見に行こうと思います。ダムに沈む花谷村
では、村の全ての家族を写真に撮って残すことに。村の写真屋藤竜也と、東京で写真
家をめざす息子の海東健は、一軒一軒尋ねて写真を撮って歩きます。美しい景色が広
がって来そうな映画ですね。
on 05.4.14 10:25 AM, at
wrote:
追原騒動記その18/「お師匠さま」この嶺岡山キャンプで、私はリクレーション担当
になり、宴会の司会をすることになりました。「私はまじめだから、面白くできませ
ん。楽しい宴会が沈んじゃいますから、とってもできません」と断ったのですが、そ
の日から私の宴会の師匠となったHさんが、「その方がかえって面白いんだから」と
いうので、二人で司会をすることになりました。その辺にころがっているこげた棒き
れをマイク代わりに、火の粉が雨あられと降り注ぐ中を皆さんに歌やかくし芸をして
もらいました。まじめな私の司会でも、みなさんすでにすごい盛り上がりで、声も嗄
れるほど笑い続けました。一番受けたのは絵描きのMさんの「与作」の即興の踊りで、
何度も何度もリクエストがきました。Mさんが焚き火を身軽に飛び越えながら踊りま
くる姿に、私たちはおかしくて笑い転げました。そしておしまいは師匠のハーモニカ
です。立派なケースに入ったすごくでかいハーモニカを、和音を巧みに使っていろん
な曲を吹いてくれました。この日の司会から、私はすっかりレク担当にはまっていま
す。師匠はなんでも楽しいことをやるのが好きで、仲間と焼き物のグループを作って
年に1回は作陶展を開いています。Mさんの絵はお地蔵様が多いので小市民の私の居
間には飾れなくて、購入していませんが、師匠の作るお皿はほとんどがお酒の肴を並
べのにふさわしい大きな角皿で、愛用させていただいてます。師匠には雅子さまとい
う妃がいます。あんまりハーモニカがすてきだったので、うさぎAと、kうさぎたち
は(うさぎの前にイニシャルつきは譜代大名、うさぎのあとにつくのは、御家人とい
うことにします。そのうち外様大名も出てくるかな。本当は大奥がいいんですけど、
いろいろさしさわりがあって)師匠にハーモニカを習うことにしました、そして買っ
てもらったのが和音しかできない本格派。結局宝の持ち腐れになったみたい。そうい
えば私はうさぎCと遠野の旅に行った時、師匠のことを思い出して315円の穴が6
つしかないハーモニカを買って来ましたが、これも使い物になりませんでした。中庸
という言葉がない私たちです。本当についこの間の出来事なのに、もう遠い昔のよう
な気がします。
追原騒動記その19・うさぎ市街戦に突入。さかのぼって1998年4月16日、うさ
ぎたちは千葉県庁に行きました。メンバーは、親分、うさぎA,うさぎcそして私でし
た。
>時間は4時だったと思います。(それから何度かの県との話し合いはいつも4時でした
。長引いても1時間で帰らせられるということなのかな?)早めについてしまったの
で、議会の下のロビーで待っているときに、うさぎCがなぜか長椅子に横になってし
まい、守衛さんに「横にならないでください」と文句を言われました。(なぜうさぎ
cが横になったか不明。でも、きっと初めての対県交渉で、朝から緊張していたんで
しょうね。守衛さんは、私たちをホームレスの男女だと思ったのかしら。県庁では長
椅子に横になってはいけない規則があるんでしょうね。)県からは「河川海岸課」
「道路建設課」「自然保護課」の担当が2人ずつ来ました。まず、親分が地元の人の
思いも入れて追原への思いをせつせつと訴え、追原宣言を採択することになった経緯
を説明して、170筆の署名に「追原宣言を行政に生かすことを求める要請書」の表
紙をつけて提出しました。県からは、河川法が変わって、自然保護を重視するように
なった ことなど丁寧に教えてくれましたが、決してこちらの言うことをさえぎらず
聞く姿勢は崩さず、しかしこちらの話にも決して乗ってこないという人たちでしたね。
慇懃無礼とはこんなことをいうのかと実感しました。具体的な追原ダムの話になると
「決まっていません。わかりません。未定です」というこたえばかりが返ってきまし
た。県との話し合いのあと、記者クラブへ行きました。担当新聞社に予約しておかな
いといけないなどどは露知らず、記者クラブへ行き、その場にいた記者さんたちに集
まってもらい、「追原つうしん」と「宣言」「ダム予定地の地図」「道路の付け替え
予測図」などと、雪の追原の写真などを見せました。ダムができた場合の弊害、でき
なかった場合のマイナス面、千葉県や君津市の姿勢などを話しました。突然だったに
もかかわらず、どの記者さんたちも前向きに話を聞いてくれて、翌日の新聞に記事が
載りました。4月19日にはS川温泉に集合して5つのグループに分かれて自然観察
会を行いました。野鳥は、新芽が出て見にくい状況でしたが、ヤマセミ、オオルリ、
ヤブサメ、センダイムシクイなど23種類が確認され、本当は里山に住むサシバが、
繁殖準備をしているという報告もありました。そしてこの日、公安という人たちも来
ていたとの報告がありました。>
2005年4月26日
昨日、うさぎAからメールが来て、24日の「干潟の日2005」の、盤洲干潟学校に
いってきたとのこと。題は「鵜団地」で、参加者の中に新しい人も多く、干潟の防人、
Kさんの講義にも熱が入り、郷土史もふまえて、なかなか内容の濃い授業だったとの
こと。丸池(新日鉄誘致のために、海水を真水にかえるために、県が試作した施設の
あと)の鵜が子育て真っ最中で、巣をかける木が足りなくて地べたにもいっぱい巣が
あったそうです。彼女が得意の木のぼりで見ると、雑な作りの巣のなかに、丸はだか
のひながべたっと寝ていたそうです。巣立ちの時は壮観でしょうね。と、書いてあり
ました。干潟の風のにおいを感じました。源流域の七里川から小櫃川の河口へ、私た
ちが守っている盤洲干潟です。うさぎの市街戦から筆が止まってしまいました。うさ
ぎは市街戦が苦手です。おいしい追原の、空行く雲や草の花の匂いについてだったら
どんどん書けるのに。市街戦になった頃、言葉にならない不安がうさぎたちを支配し
ていました。「フリスさま。インレの黒うさぎから私たちを救ってください。そこで、
エル・アライラーはこう言った。頑張って前に進むしかないではないか」(ウオーター
シップダウンのうさぎたちごっこを思わずやってしまいました)権力と切り結ぶこと
のへ漠然とした不安でした。今でも思い出すとこわいのです。でも、親分が「このこ
とについては、書いて残しておかなければいけない。そこまでがおれたちの責任だ」
と、いつかまじめに言っていたので、このブログでまとめようと思い立ったのですが、
、、。楽天さんからは、昨日、がんばって?日記を更新しましょう。というメールが
来ました。本当に至れり尽くせりですね。がんばって、早く河口にたどりつかねば。
2005年5月
追原うさぎAからfaxが来ました。みどりの日に、七里川で地元の小学生が200本
の植樹をしたという新聞記事です。君津市は今年、七里川周辺の環境整備を事業の一
つに加えたとのこと、この地域のすばらしさを、地元の人たちが認識してくれたとい
うことが、とっても嬉しかったです。当日は、市長さんの「この美しい森林の緑は、
私たちが生活していく上で大切な役割を果たしています」と、挨拶されたとか。2つ
の小学校の児童と、地元のみなさんも加わって、植樹したそうです。ここの環境こそ
が大事と訴えてまわった頃を思い出すと昔日の感があります。これからの七里川は水
遊びに最適です。県道のそばなのに、深山幽谷の気配があって、お弁当を持ってぼん
やり過ごすと、心も体もリフレッシュできます。
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