1

伊能忠敬測量日記研究者の解読のままの説明文である。テゲテゲであるが解析は今後である。士農工商の世の中、苗字帯刀を紀伊の殿様から許されるとは奇妙である。益々、不可思議な瀬戸である。琉球との交易の場所である。口分田の無い商人や漁民が沢山いたと言う大正溶岩以前4百戸以上の戸数の村だったとそうだ。記事 誤り訂正である。12月19日テゲテゲの早とちりである。電子図書館が教えてくれたのである。薩摩の瀬戸ではないのである。削除するべしである。伊能忠敬測量日記・瀬戸、鉛山両村日記(前文略) 文化2(西暦1805)年7月23日、 朝はくもりがちながら晴れていました。 波が静かになっていました。 朝、6つ後(午前6時)、富田組の中村を出立(発)しました。 先手は、平山、小坂、永沢、利助たちで、鉛山村字梶原より始めて鉛山村まで測りました。 明日測量する予定の新庄村 までは距離も大分あるので、瀬戸村の内、崎の浜までは今日中に測っておきました。 後手は、我ら(伊能)、高橋、稲生、門谷、伊兵衛たちで、才野村より始めて梶原まで測りました。 乗った船は鉛山村へ着きました。 後手は9つ(正午)ごろ着きました。 先手は、宿を通り越し、その先まで測ってきたので、7つ(午後4時)前に宿に帰ってきました。 泊った宿は、鉛山村の本陣森三太夫方です。 この人は、紀州の殿様より刀を差すこと許されている人です。 隊員の市野の宿は三木善右衛門方でした。 この人も紀州の殿様から刀を差すことを許されている人です。 この夜は非常に曇っていたので天測は行いませんでした。 この村は温泉がありました。(7月23日分の現代語訳 伊能忠敬記念館学芸員 米谷 博氏) 7月24日、 朝から少し晴れたり大そう曇ったりしていました。 6つ(午前6時)ごろ鉛山村を出立(発)しました。 先手、後手とも舟に乗りました。 先手は、平山、小坂、永沢、利助たちで、堅田村堂石(どういわ)(現畑崎の観音堂のあるところ)から始めて、富田組と田辺組の境界(池田湾)まで測りました。 後手は、我ら(伊能)、高橋、稲生、門谷、伊兵衛たちで、瀬戸村の崎の浜より始めて、堅田村の堂石まで測りました。 先手、後手とも、9つ半(午後1時)ごろ田辺城下へ(後文略) 地図に記載されている「メトシマ」について 四双島(シソジマ)の沖に記載されている「メトシマ」とは、四双島(シソジマ)の沖の「シャクシ」ではないかと云う。 「シャクシ」は大潮の干潮時は岩礁の頂上部分が海面より約2m位だと云う。 上記「メトシマ」についての記載 2005-02-24
2008.12.15
閲覧総数 147
2

昭和15年桜島登山・山頂の縦走の記録である。火口底に登山者貴重な写真である。山頂の祠に鉾見えない。テゲテゲの判読北岳の火口原ではない。南岳の火口原である。江戸期に白水の池があったとされる場所である。
2010.05.21
閲覧総数 6419
3

件名 : 29日の日記 テレビ小説にヒントを見た。 右手と左手 上座と下座 上手と下手 上方と下方 下関の語源のある意味で解明である。 関は関所、門番の守がいる。 薩摩の七関所をグルで見ない。 言霊の落ちを語る落語に共鳴した 今朝方のクロカミさまでした。 宇土の地名の語源、落人か 居つきの里かである。 各地の平家の落人伝説の粋を 駄洒落好きの日ノ本の楽天家族 の黒守さまはお洒落言葉一番に 五木村となす。
2007.11.29
閲覧総数 2