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実は行ってたシリーズ1 (2022年4月にまとめてアップ)祖父の葬式に行けなかったS、供養の下関帰省を計画したが、やはり新幹線に乗る感染リスクを施設も重く見て、もどってから2週間通所できず…ということだったので、スッと断念。8月17日(火)~19日(木)の日程で、車で行ける温泉地を探した。行先は群馬県草津町のホテルヴィレッジ。昼の湯畑渋い街仕様のローソンこの後、ホテルの温水プール・温泉へ夕食後に夜の湯畑へ翌日も同じ感じで過ごす。霧や雨にたたられたが最終日は良く晴れた。大きな池のような温泉、洗い場はないが良かった。草津への行き帰りが思ったより大変で、高速道路の運転がやはり抜かれすぎで疲れる。行きは雨の80km制限がかえって走りやすく、自動運転機能もうまく使いこなせて良かったのだが、帰りは晴れて制限速度なし?なのか100kmなのか右車線は猛スピード。自動運転を使っていてもこわくて73kmくらいに設定して80kmをアクセルでキープするチキンさ。日頃、バイパスで同じくらいのスピードで走ることもあるのだが恐怖感が全然違って、周りの車のことを信用できない(笑)秩父から抜ける山道があるようなので、次に来るときは下の道で行ってみよう…と思ったことを書き残しておこう。ムーミンパークそばの慣れた温泉に寄って、食事をして、後は山道や市街地の道をのんびり帰った。
2021/08/17
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ずっと忘れない日がある。昭和58年(1983年)7月22日、1回戦最高の好カードと言われた下関商業との試合は3対3で延長となり、10回表、6点を一気に取られて敗れたその日。その試合(も)、控え内野手で代打要員の背番号10番は一塁コーチャーとしての仕事のみで打席には立てなかった。(それでもすごく疲れたが…) 代打ではなく、最終回に守備要員(守備が不安で控えだったはずだがw)としてセカンドを守って出場したら、相手打者がセカンドからサードに移った選手を狙ったセーフティーバントを試み、1球でチェンジとなった…。球飛んで来なくて良かったが(笑)、正に何もせずに高校野球が終わった。小学校の町内対抗ソフトボールでは、鬼監督だった父の強引な手腕もあり、弱小地区だった山の口町が、ベスト4や準優勝…その息子も一部の他地区のコーチ等から天才扱い(爆)されていたこともあったのだが…。それだけに「今日は出るかも」と思い試合を見に来ている父はどんな気持ちだったのだろう…高校野球であまりにも活躍しない息子(ちなみに兄は反抗してサッカー部w)…という後ろめたさもあり、その頃の話は大人になってもあまりしなかった。それからちょうど38年、2021.7.22オリンピック開会式の前日に、83歳で父は逝った。 7月初めに脳血栓で倒れて救急搬送された時は「2週間程度で退院」と聞いていた。家で倒れた時、ろれつが回らない状態で母に必死に何かを言っていて、「これに書いて」と紙を渡したら右手がマヒしていて、左手で必死に書いた文字が「119」だった…という、「書かせるよりもまず救急車だろ!」というブラックジョークのような話が、その後、元気になっていれば笑い話になるはずだったのだが…。入院中に左手にも新たにマヒが出たことでしっかり検査をし直すと、7月9日の段階では、脳の血栓は2つ、栄養失調で管を入れている、腎臓に影がある、血尿が出ている、両手や足のマヒ、熱も出ている…と今思えば結構深刻な状況になっていた。検査が続き、医師から検査結果を説明されるまでの期間、コロナ関係の面会禁止で母は会えず、医師の電話待ちだった。そして、7月19日に家族(母と兄)に「腎臓がん」であること、腰骨などに骨転移があることの説明があり、そのまま医師を伴って本人へのがん告知に病室に行った。父は、面会禁止なのに現れた二人に相当驚いていたようだ。相当悪いなと覚悟したのかもしれない。告知を受けた時に父の意識はしっかりしていて、倒れる前の1か月間、食欲不振でかかっていた近所の内科医のことを「○○のやつ…」(がんを見逃して的外れな食事療法をさせやがって…の意か?)とつぶやいた。医師が今後の治療計画を示したこともあり、「すぐに死ぬようなことはないだろう」と家族もそこそこ長い闘病を覚悟した。 が、その告知までの間にも、尿の排泄がうまくできなかったり、肺に水がたまったり、自発呼吸が困難になり酸素マスクを常時つけていたり、主因の腎臓がんの治療はできないままだった。昨夏は新型コロナのことで帰省できなかったので、もう2年会っていない。これはとにかく一度早めに見舞いに行こう…と、やっと受けられる2度目のワクチン接種の後、8月に…と計画し始めた。単身で行くか妻子も一緒に行けるかどうか…と。しかし、7月21日には多臓器不全の状態になり、「現在の状態から脱却することは極めて難しい」「治療に反応がなければ数日以内にお亡くなりになる可能性が十分にあります」との説明を受けたと夜に連絡が入った。 そのまま荷造りをはじめて、7月22日早朝4時に単身で始発電車より早いバスで出発。これなら新幹線小倉経由で11時47分に下関駅に着く。兄は家族で見舞うつもりで病院に朝電話をしたら、午前は治療があるので午後の方が良い…と言われ自宅待機中(だったか会社に一度行ったか)。11時頃、母に急変の報が入り、「すぐに来てくれ」…母は車で駆け付けた。死亡届には11時38分とあるが、山陽本線に乗り換えた後の列車内で聞いた11時33分の母からの留守電メッセージで「自分が間に合わない」ことを知り、体の力が抜けた。母も含めて家族誰も看取れなかったのだ…。 後から考えると、いつもせっかちで、結構「かっこつけ」の人だっただけに、「死ぬとなったら苦しまずにスッと、家族にもその姿を見せずに…」は、本人の狙い通りだったのかもしれない。病院で姿を見た時、つらい症状が1か月弱続いていた人とは思えないほど、穏やかな表情をしていた。一度お見舞いにと帰省したはずが、4連休のうちに葬儀まで済ませることになった…。こんなに早く使うことになると思っていなかっただろうが「俺が死んだら」という題名のA4サイズの白封筒の中に連絡先や口座番号や遺影の候補写真や喪主がやること…などの印刷物があったのは助かった。まあ、その題名はどうかと思うが(笑)お通夜まで忙しくて気が張り詰めていたが、間もなく始まる…というタイミングで大混乱。5人の家族葬だったはずが母の連絡の仕方も悪かったのか、一部の親族がコロナのこと無視で誘いまくって、「17人いる!」の突然の状態に「受付」の仕事をひとりで始める故人の次男…。「御香典にはさわれませんので…」と打ち合わせで言っていた典礼会館の方も見かねて、「大丈夫ですか」と声をかけてくれたので「いっぱいいっぱい…いや無理です」と返事をするとてきぱきと手伝ってくれる。あまり付き合いのなかった父方の親族に振り回され、大汗をかいた後に、やっと式場の席に着いて悲しみに浸り始めた。遠方でコロナ禍の今は来られない母方の親族(言葉通り親しい一族w)の弔電にうるうる…。家族からの聞き取りでつくられた「故人の人生の系譜」みたいな文章がすばらしく、ちょっと本人の実態と違うことも含めて泣き笑い…。そして、お経が始まると、モンゴルのホーミーのような倍音成分豊富なお坊さんの声に酔いしれた。いつの間にか夢の中…というか、少し夢を見るほど寝てしまった…。手元の数珠、2回落ちる…。「おいおい…」と思うだろうが、お坊さんの手元の「チーン」の大きいやつ(鐘)が、「ゴーーン」と鳴った瞬間に、となりの兄と母がビクッと起きていたのを見て、なかなかにすごい一族だな(苦笑)と今度は笑いをかみ殺すのに必死だった。
2021/08/07
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1学期がこんなに忙しかったのは、最後の学級担任の年だった2004年度以来…。常勤の教諭時代より非常勤の時間講師生活の方が長くなり、作業所通所の息子の送迎で枠数も多くは入らなくなった今、「もう学校の仕事で忙しくなる心配はない」(笑)と思っていたのだが、何が起こるかわからないものだ。かといって、失敗したわけではなく、今年度は思い描いていた2か所からの仕事が見事に来たのだが、両方予定より多い枠数で来て、それでいて無理すれば何とかなる枠数だったので無理することにしたのだが、さらにその一つ一つの授業準備が予定より大変だった…ためにハードな日々となった。大変なあまり、例年なら「今期の仕事はこうなりました」と記録としての意味も含めてこのブログにアップするのだが、今年は早々と断念。そんな中、誰かに送ったメール(方言のも含む数人分)から引用して当時の気持ちを思い出してみた。1 今年度は、肢体不自由の特別支援学校の高等部で8枠(高1~高3)と、中学校の特別支援学級(固定の自閉症・情緒障害学級)で5枠(中1~中3)。少なく見えるけど、通常級やったら3クラスとかある分が、すべて1クラス1回きりなんで、7種類の準備する量が半端ない。しかも高校の世界史が5段階評定で「●」やった俺には中学歴史にない部分が全然わからん(オスマントルコとか)ので、勉強してから資料つくるのがヒイヒイ(笑)(すみません、仕事に差し支えるので評定はブログ貼付けの際に伏字にしましたw) 2 火の車です!(笑)高校4種類、中学3種類の授業準備に、近年ない締め切りに追われる生活…ところが今週からわけあって息子の作業所が通所停止に…。始まったばかりで仕事も休めず。息子は、お昼に祖父と昼食を取ってから午後はウォーキングや隣の家で作業や運動…に父母交代で当たっています。まだ3日目なので本人が怒ってないのは救いですが、我々が不規則です。 3 今日は8日目ですが、職員さんに新型コロナ陽性者が出て、通所はGW明けまで停止となっています。1名だけで広がりはないのですが、他の職員さんも家に帰らず缶詰め状態で、通所施設の方で暮らしていることもあって4月28日まではその状態が続く(その後は未定)ということで…。仕事して帰ってきたら、やっと息子の一日が始まる(つまりこちらは家での持ち帰り仕事もできない)という大変な状態です…。 4 ともあれ、自分が望んでいた学校、しかも本来自分が受け持つべき生徒さんたち(ここで、息子を受け持っていただいた先生たちへの恩返し&罪滅ぼし…)がいる所に入れたので、時間的に少し無理してでもまずはやってみようと思っている所です。聞いていないのに副校長が電話口で「今は暴れている生徒いないんですよ」と3回も言ったのが気になりますが…元H中生活指導部副主任なので本当は暴れる君がいても許します(笑) 5 いつもは、1校は通常級の仕事があったので、通常級まったくなしの年は18年前のN養護の仮自閉症学級担任教諭で心折れかけてた時以来です。なので、教職34年目だけどちょっと不安(笑)でも一度はやりたかった自閉症・情緒固定の固定級で、場所的にも一番行きたかった学校なのでがんばります。引用終わりというので、5月半ばからは息子の作業所がひと段落して自分の仕事のみが大変となった。授業準備や定期考査作成に追われながらも、新型コロナのことで他に何もできないから「授業準備に集中」できる(笑)日々。ただ、本当に追われているから、夕食を食べ終えてくつろぐ時間にも食卓にパソコンを置いて少し仕事…、寝る前にまた打つから2階に持って上がったり、息子と別棟の工房にいる時もパソコン仕事…と、あまりにも移動するのでノートパソコンの電源コードを2つ買い増しして、移動のストレスを減らした。明日の授業のプリントづくりを前日にする…という綱渡りの日々、7種類もあるとどれがどうなっているかもわからなくなり(笑)急に締め切りが迫ってくる!ただ1~8名の少人数でやる授業、それぞれの生徒(クラス)に合わせたことを自分で考えて工夫できる自由さ・楽しさは、この上なく貴重な体験となっている。どちらの学校もそれぞれ学校・学級経営?に変な慣例があり、それを半分気にしつつも、うまくかわしたり、調整したり、ひそかに正したりw…今の立場・年齢だからこそ、また謙虚なふりをして厚かましい自分だからこそ、ストレスなくできているのかなあ…とも思っている。1学期は結局一度も余裕を持てなかったので、夏休みにものすごく先まで準備をしよう!…と計画を立てたのだが、人間追い込まれたときほどの頑張りは、日常にはできないようで、今のところ、1週間分も終わっていない。(8月6日現在)夏休み入ってすぐに、「さあ、やるか」というタイミングでそれよりも優先な大変なことが起こったことが大きいのだが…。
2021/08/06
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