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拡大役員会が9月27日礼拝後に開催されました。話題は二つ「土曜礼拝に関する件」と「日本基督教団信仰告白に関する件」です。今回は紙面の都合「土曜礼拝」についてのみ、簡単に報告させて頂きます。 先ず私から「土曜礼拝」の目的などについての説明をさせてもらいました。「土曜礼拝の主旨は、日曜礼拝を捧げられないでいる方々に対して、ただ「礼拝に出ましょう!」という呼びかけるだけでなく、教会として礼拝を捧げる機会を拡充する必要があるのではないか。そのような意味で、土曜礼拝の性格は、日曜日礼拝と全く同質の(聖礼典についても同じ)礼拝となる。ただ、奉仕者(司式・奏楽・受付など)については、これからの議論の中で決めていく必要があるが、牧師としては必要最小限(司式・説教は牧師、奏楽はヒムプレーヤーなど)に考えている。」 この説明を受けて、出席された方々から様々な質問・意見などが出された。主なところでは、「必ずしも「土曜日」にこだわる必要はないのではないか?」「やるからには途中で出席者がいないから止めるというわけにはいかない。その覚悟が教会に求められる。」「日曜日の救済処置として土曜礼拝が開かれるというだけでは、意味がないのではないか?」「週の初めは日曜日、日曜礼拝を起点と考えてほしい。だから、土曜礼拝の内容(聖書箇所・説教・讃美歌等)は次の日の日曜礼拝のそれではなく、前の日曜日の内容であるべきだ。」 ほんの一部しか紹介できませんでしたが、本当に多くの意見などが出されました。今後2月の全体懇談会に向けて、役員会にてさらに議論を深めて行くことになると思います。
2009.10.11
本当に久しぶりの更新です。 これから、できるだけまじめに更新するようにしますので、また見てください。 ただし、やっぱり教会の週報にある「牧師の机から」を紹介するだけですがね…(^_^) 教会の様子を知りたい方は、「相武台教会」を検索して、ホームページを見てください(^^)/ 「 礼拝当番として確認したいこと 」礼拝当番は、礼拝を整えるという意味で、とても大切な奉仕の一つです。礼拝当番の奉仕によって、多くの方々が礼拝に気持ちよく向き合うことが可能となります。またその奉仕によって、礼拝のその初めから最後までが、充分に整えられたものとなるのです。それだけに、礼拝当番は、短い時間の中で沢山の事柄が要求される奉仕でもあります。 先の役員会にて、礼拝当番として確認したいことをこの週報を通してお知らせすることを決めました。紙面の都合とはいえ、遅れてしまったことをお詫びして、ここに「確認したいこと」をいくつかお知らせいたします。 先ず「聖書朗読中および祈祷中は静かにドアの外で待っているように案内してください」ということです。これは役員会では特に指摘されなかったことですが、この機会に私の方から確認したいことの一つとしてここに記させて頂きました。聖書朗読中・祈祷中に、会堂に入ろうとする方がおられます。いろいろな遠慮の中で、制止しづらいこともあるかも知れません。しかし、礼拝を整える意味でも、大切にしたい決まりです。 次に洗面所のタオルは、新しいタオルと交換してください。使用済みのタオルは、控え室の隣りにある洗濯機に入れておいてください。持ち帰る必要はありません。 次に洗面所のマットは、第3日曜日の婦人会の後、やはり洗濯機に入れておいてください。いずれも後日洗濯します。 以上この2点について、多少の混乱が見られましたので、ここにて確認させて頂きました。また、掃除当番についての確認ですが、玄関マットは、基本的に掃除機をかけてください。また、2階和室は、今月より牧師室となりましたので、掃除する必要はありません。 以上よろしくお願いします。
2009.10.04
最近の話です。ちょっとしたことから、映画学校の生徒さんから「宗教関係者の20分ほどのインタビュー作品を製作したいので、協力してほしい」との依頼がありました。この作品は、カメラは回しますが、あくまでも授業の一環ですから、表には出ませんので、とても気軽に引き受けることができました。 20分ほどのインタビュー作品といっても、編集を含めれば、約4~5倍の量のインタビューをしなければなりません。事実、撮影は午後6時30分より9時近くまでかかりました。 そこでの詳細については、作品が出来上がった時にでも皆さんに改めてご報告するかもしれませんが、とてもすばらしい体験ができたことを、今日ここでご報告したいと思います。 というのは、インタビューを通して「私」がいかに神様に導かれ、また、神様に従うよう道が用意されてきたのかということを改めて見つめ直すことが許されました。神様との出会いや、神様がどのように自分に働きかけ続けてくださっているのかなどということは、なかなか、人に語ることもなければ、自分でも振り返ること少ないものです。また、そうした私の体験が次々と紹介される中で、インタビューをしていた学生たちの心が開かれてきたのです。合間の休憩などで、彼女らは、自分が負っている問題や、また日頃感じていた神に対する疑問などを素直に語り出してくれたのです。「実は、子どものとき教会学校に行っていたので、先生の話を聞いていて、何となく懐かしくなりました」。「神様は信じていないけど、でも神様が必要だということが、よくわかりました」。 どこに神様のご栄光を現す時が隠されているかわかりません。これを機に、この作品に触れる多くの生徒たちが、少しでも神様のみ働きのすばらしさに気付いてくれればと…願う次第です。
2007.11.11
「戦責告白」を覚える集会をお知らせするチラシにある文章をここに紹介します。 「1967年3月26日復活主日に、教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(以下「戦責告白」)が公にされて、今年で40周年を迎えました。この大きな節目にあたり、「戦責告白」が教団にとってどのような意義をもっていたのか、またこの40年の間にどのような実を結び、あるいは結び得なかったのか、さらに今日様々な問題をはらむ日本に立てられた教会として、この「戦責告白」がどのような役割を果たそうとしているのか、そのようなことを改めて考える時としたいと思います。 去る6月には教区総会において、戦責告白40周年を覚える決議が可決されました。これを受けて、教区常置委員会は教区主催の「戦責告白」40周年を覚える神奈川教区集会を開催します。私たちの日本基督教団が、預言者的な「見張りの務め」、祭司的な「とりなしの務め」を担うために、いかにして地の塩、世の光として歩むことができるのか、共に考えてまいりましょう。」 私たちの今日的問題として、「戦責告白」について改めて考えたいと思います。
2007.10.28
神様を賛美する行為は、神様と人間との関わりが始まった時からの行為です。まさしく神礼拝の中心的行為として「賛美」は位置づけられています。 そしてその「賛美」のありようは、必ずしも画一化されたものではなく、とても多様なものであります。教会での賛美といえば「讃美歌をオルガンの伴奏でみんなで歌う」という一つの伝統的なスタイルがありますが、これも多様な賛美の中の一つであります。決して「正当」とか「主流」とかというような狭い見方をする必要はありません。司祭による独唱。聖歌隊による賛美。手拍子を利用したリズミカルな伴奏による賛美。様々な楽器を駆使した賛美などなど…。今、それぞれの教会で、それぞれの礼拝で、それぞれに選び取った形での賛美がなされています。 相武台教会は、クリスマス・イブ礼拝において(この礼拝は聖日礼拝の枠の外にあるという理解の元)、聖歌隊を編成し、賛美礼拝をささげていますが、聖日礼拝については、オルガン伴奏による全員参加の賛美をその伝統として継承してます。これも一つの選び取りであり、そしてそれは尊重されるべきことであると思います。しかし、聖日礼拝における賛美のあり方をもう少し拡げることはできないのか?との声も上がっています。 実現するかどうかまだ不明ですが、11月の伝道礼拝の後で、小さなコンサートを開こうという声があります。様々な楽器などを駆使して讃美歌を歌おうというのです。この提案も、相武台教会における賛美を豊かにしていこうという想いから生まれたものであります。これを機に相武台教会における賛美のありようについて、話し合いを重ねることができればと願っています。
2007.10.07
先日、湘北地区牧師会の一泊研修会にて紹介された本に『知って役立つキリスト教大研究』(八木谷凉子著 新潮OH!文庫)という本がありました。内容はというと、キリスト教の諸教派についてその特色や違いなどを紹介している本です。といっても難しいものではなく、初心者向け、初めてキリスト教に触れる人にもわかりやすいものになっています。 私たちは、大きく分けるならば、プロテスタント。その中でも、どちらかというと改革長老系かな?というのも、信濃町教会の流れをくんでいるので、そのようにいうのですが…。でも、改革長老って何?どこがどう違うのか?どのような特色があるのか?と問われると…なかなか一言では言い表せないし、また、わからないことも多くあります。そのような時、便利なのがこのような本なのでしょう。 私たち相武台教会は、その基本綱領の中で「私たちの教会は、創立以来の志を重んじ、党派にとらわれない「教団の教会」を形成する教会です」(基本綱領(7))と私たちの教会のありようを宣言しています。しかし、そこでは常に一つの問が問われ続けなければならないのです。それは「教団の教会」とは何なのか?という問です。私たちは教団の設立時における歴史を学びました。30余派の教会が合同し、かつ沖縄教団との合同を経て、今日に至っていることを学びました。しかし、その歴史の学びだけでは「教団教会」のありようを明確に捉えることはできません。また現状として「教団」自身がそのありように不透明な要素を含んでいるのも事実です。それでもなお、「教団の教会」としてたっていこうと志した私たちは、その責務として、今の教団のありようにも、常に目を向けていく必要があるのではないでしょうか。時々この場を借りて、教団の今日的動きについても触れてみたいと思います。
2007.09.23
日本基督教団の教会の中で、比較的歴史の長い教会は、9月第1聖日を「振起日礼拝」または「振起日総員礼拝」として特別な礼拝の一つに数えています。 相武台教会にはそのような伝統がありませんので、このような名称を付けて、特別に礼拝をささげてはいません。しかし、その思いだけはしっかりと受け止めておきたいと願い、ここに「振起日」についての一考察を短く記したいと思います。 「振起日」とは、米国の教会での‘Rally Day’から由来しています。教会員全員で再結集(ラリー)して心機一転新しい出発をしていこうという志がそこにあります。 ごく簡単に申し上げるならば、「牧師も信徒もみんな、夏休みぼけした気持ちを新たに奮い起こして、この伝道の秋を実り多き時を迎えよう!!」というのが「振起日礼拝」なのです。
2007.09.02
あらら!いつの間にか、一週飛ばしてしまいましたね(^_^;) 今週も「牧師の机」がお休みですから、よければ、説教でも聴いてみていただけませんか? 今日の説教は、以下の場所で、聞けます。おおよそ30~35分ほどかかるかと思いますが、もしお聞きいただければ幸いです。 相武台教会のホームページにリンクしています。もしよろしければ、相武台教会のホームページもご覧ください。 2007年8月26日(日)午前10時30分~ 日本基督教団 相武台教会 聖 書 コリントの信徒への手紙(一)1章18節 (新共同訳聖書) 説教題 「十字架にしがみついて」 高塚陽一牧師 http://members2.jcom.home.ne.jp/soubudai-church/reihaisekyou.html
2007.08.26
今週も「牧師の机」がお休みですから、よければ、説教でも聴いてみていただけませんか? 今日の説教は、以下の場所で、聞けます。おおよそ30~35分ほどかかるかと思いますが、もしお聞きいただければ幸いです。 相武台教会のホームページにリンクしています。もしよろしければ、相武台教会のホームページもご覧ください。 2007年8月12日(日)午前10時30分~ 日本基督教団 相武台教会 聖 書 テサロニケの信徒への手紙(一)1章1~10節 (新共同訳聖書) 説教題 「主の来臨に備える」 高塚陽一牧師 http://members2.jcom.home.ne.jp/soubudai-church/reihaisekyou.html
2007.08.12
今週は、「牧師の机」がお休みですから、よければ、説教でも聴いてみていただけませんか? 今日の説教は、以下の場所で、聞けます。おおよそ30~35分ほどかかるかと思いますが、もしお聞きいただければ幸いです。 相武台教会のホームページにリンクしています。もしよろしければ、相武台教会のホームページもご覧ください。 2007年7月29日(日)午前10時30分~ 日本基督教団 相武台教会 聖 書 ペトロの手紙(一)3章13~22節 (新共同訳聖書) 説教題 「苦難の共同体」 高塚陽一牧師 http://members2.jcom.home.ne.jp/soubudai-church/reihaisekyou.html
2007.07.29
以前メディアを通して聴いたことですが、アメリカでの統計調査で、教会に毎週通っている人々ととそうでない人々との比較の中で、一番顕著だった違いは、血圧の低さだったそうです。教会に通っている人々の平均の血圧がそうでない人々のそれよりも著しく低いというのです。ようするに健康であるということです。その原因は何かということについてコメントがありました。それによると、血圧が低い一番の原因と考えられるのが「感謝するこころ」ではないかということでした。日ごろから感謝することを大切にして過ごす人々は、心身ともに健康であるということでしょう。 私たちは、受洗日、誕生日、結婚記念日、その他、日常の細々した事柄の一つ一つに、感謝を表す機会が与えられています。それは、毎週神様の御前に進み出て、礼拝をささげる中で、一人その祈りの中で表すこともあります。また、教会員同士の交わりの中で、今週の感謝を分かち合うこともあるでしょう。人から見れば、それは苦労話でしかないものかもしれません。しかし私たちは、その信仰によって、その苦労話を、神様がいかに私たちに働きかけ、私たちがその働きかけに応えられたのかという、感謝をもって語り合える事柄として受け止めるのであります。また、私たちは、礼拝や語り合いの中だけでなく、形として「感謝献金」を献げ、神様への感謝を具体的に表すこともできます。 いずれにしても、私たちが「感謝するこころ」という賜物が与えられていることを忘れてはならないと思います。キリストが私たちのために、その命をも捨ててくださったとの福音は、「感謝するこころ」の原点であります。この信仰に立つならば、私たちは常に「感謝するこころ」を忘れずに、日々感謝の気持ちを様々な形で表せるのです。
2007.07.22
今日は、台風だぁ~!と思ったら、相模原市は、さほど雨風強くなく、過ごしてしまいました。この台風で被害に遭われた方々に、神様のお慰めをお祈りします。 今日の説教は、以下の場所で、聞けます。おおよそ30~35分ほどかかるかと思いますが、もしお聞きいただければ幸いです。 2007年7月15日(日)午前10時30分~ 日本基督教団 相武台教会 聖 書 ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節 (新共同訳聖書) 説教題 「キリストの心」 高塚陽一牧師 http://members2.jcom.home.ne.jp/soubudai-church/reihaisekyou.html
2007.07.15
少なくとも礼拝5分前には、着座して、礼拝開始に備える。それは、私たち相武台教会にとって伝統として守り続けていることです。しかも私たちの教会は、礼拝に対する姿勢が日曜日の礼拝後から始まっています。まさしく与えられた一週間を礼拝に備える日々として把らえ、日曜日に向かって整えていくことへの重要性が常に確認されている教会です。これも熱心さと謙遜と神様への服従の表れであると思います。しかし、この形は、決して一つではないことを改めて確認したいのです。 先週のこの場に記しました教会の現状は、今の相武台教会にとってあまりにもかけ離れているように感じられるかもしれません。しかし、本質的には、決してそのようなことはありません。神様を求めようとするその熱心さ、謙遜、服従の思いは、何一つ変わりないのです。大切なのは、形ではなく、神様を求め、神様を礼拝しようとする信仰なのです。そこにほころびがあったのでは、たとえ礼拝5分前にきっちりと座っていようとも、それは形だけであって、真実の献げものとなっていないのであります。まさしくカインとアベルの献げものと同じです。カインは顧みられず、アベルは顧みられた。その献げものに込められた思いを、信仰を神様が見られたからであります。 「今日は事情があって…遅くなる。だから礼拝を休みます」。よくあることです。でも、間に合うようならば、息乱しながらでもいい。礼拝堂に入ってきて、神様のみ言葉に触れてほしいと思います。もちろん、あえて遅れる必要はありません。しかし、遅れたからといって、御前に進み出ることを遠慮する。それじゃ、神様は悲しみます。這ってでも来るという思い(信仰)こそ、神様が喜ばれる献げものなのではないでしょうか。
2007.07.08
2007年7月1日(日)週報 「牧師の机から」より 少し、昔話をしたいと思います。 かつて、5年間、とある政令指定都市にあります伝道所に牧師として奉仕していたときの話です。 赴任当初、礼拝出席平均13名ほどでしたが、礼拝を大切に、礼拝説教を、み言葉を大切にしていこうというメンバーが集まっていました。というのも、様々な理由によって、み言葉に集中できない状態で礼拝をささげていたことに、メンバー一人ひとりが猛省し、真実の悔い改めの中で、み言葉に集中しようとしているところへ、私が赴任したのであります。 礼拝は、午前10時30分から。礼拝司会者、オルガニスト、牧師、そして教会学校の教師と、あと若干名で、礼拝が始まります。時には、司会者、オルガニスト、牧師の3名だけで開会されるようなこともありました。しかし、説教が始まるまでには、ほとんどの方が集っていました。 そのような状態が礼拝出席が増えてもつづきました。私がいた5年間で礼拝出席は2倍強まで増えましたが、でも相変わらず、礼拝前の集まりは悪い状態が続いたのです。 しかし、私は、何も語りませんでした。いや、語れなかったのです。なぜならば、彼ら彼女らが、まさしく「熱心さ、謙遜、服従をもって」神様の御前に、がむしゃらに、なりふり構わず進み出ていたからであります。 当時の伝道所には、様々な問題を抱えた方々が多く集っていました。具体的には、生活保護を受けている方。心の病を負って苦しんでいる方。子供のこと家庭のことにものすごく労苦されている方。職が安定しなくて、食べるにも困難を覚えている方など。正直言って、目に見える形での問題を抱えていなかったのは牧師家庭ぐらいでした。 しかし、彼ら彼女らは、どんな状況にあっても、這ってでも礼拝に出ようとしたのです。「どんなに遅れても、どんなに備えなくても、構わない!何とかして神様の前に出よう!!聖書のみ言葉を聴こう!!」そうした彼ら彼女らに私が何を言えるでしょうか。 (つづく)
2007.06.30
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