記憶の記録

2009.06.17
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カテゴリ: 住宅革命
田村京子は、報告書を前にして頭をかきむしっている僕の前に、

落としたてのコーヒーの香りが一瞬の安堵を運んでくれる。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます。」僕はそういいながら、コーヒーを一口すすり、(今夜は徹夜になりそうだな)と頭の中で呟いた。
調査対象の現場で一夜をすごす事が出来るのは、住宅調査のプロとして幸運と思うべきだろう。たとえそれが不健康な居室であったとしても・・ 勿論、キッチンの換気扇が稼動していなければ浮遊粉塵量がそれほど多くは無いはずだ。外気でさえ、かなりの浮遊粉塵が含まれているのだから。そもそも人間は、あのねずみサイズの哺乳類だった頃から、粉塵混じりの大気を呼吸してきたのだ。もっとも、そのせいで、寿命は4~5年であったろうけれど・・・。

 その部屋は、意外に快適だった。網戸から流れ込む夏の夜風が気持ち良い。遠くで虫の声が聞こえる。きっと裏を流れる藤沢川のほとりで一夏の命を燃やしているのだ。
 生物は自分の種を存続するために大自然の一部として自然の中で生きる。しかしその自然は厳しく、必ず生命の終わりを準備している。ひとつの生命が終わるとき、その亡骸を受け取る次の生命が待ち構え、あらゆる物質の循環に貢献する。生物は与えられた生命を生きることも死ぬことも、甘受するべき仕事であり、使命とも言える。生命を喜び、死を、待ち受ける存在の中に新たな蛋白質として存在できることに感謝する。否、感謝など無用か、大自然の循環こそ、地球という生命そのものなのだから。
 僕は、赤い十字架の手がかりを、なんとか見つけ出そうと、何度も何度もメモとデジカメの映像を行き来した。しかし、屋根の結露と赤い十字架を関連付けることは出来ず、いつの間にか眠ってしまった。ついさっきまで徹夜で調査するつもりだったのに・・・



遺品からのメッセージ

 鳥たちのさえずりが爽快な朝を運んでくれた。
いつもそうだけれど、僕が眠ると一瞬で次のステージが始まる。どんな環境でも熟睡できるというのは優れた特技だと思う。

 洗面所で顔を洗っていると、背中越しに田村京子の声がした。
「おはようございます。シードさん、ツナギここに置きますね。」と、脱衣籠の上に綺麗にたたまれたツナギを置き、僕の、「ありがとうございます。」の声を待たずに洗面所から出て行った。
 彼女は昨夜のうちにツナギを洗濯し、アイロンまでかけてくれていた。アイロンのかかったツナギなんて見るのも着るのも初めてだ。なんだか嬉しくて涙が出てしまう。

 田村次郎氏の部屋に戻りバリッとよく乾燥したツナギに手足を挿入しながらこれまでの流れを頭の中で整理し、情報不足をあらためて確認したのだった。(もう一度屋根裏を見てみよう。それから床下も・・・)と、今日の計画を立てた。

 田村家の朝食は感動的だった。質素だけれど、これこそ日本の朝食!と言うべきものだった。なにしろ、味噌汁は自家製のもので、3年に一度、味噌職人がこの家に仕込みに来るらしい。例の蔵にはその自家製味噌が蓄えられているのだ。漬物はおばあちゃん特製!カブとキュウリとナス。ご飯は、川場村のこしひかり(これが田村家御用達)、田村夫人お手製の玉子焼きと焼き魚。最高の贅沢!美味しいのは当たり前だ。僕は、また涙が出て競うになって、ツナギの袖で顔をぬぐった。

 朝の涼しいうちに屋根裏の調査をしてしまおうと、天井点検口から屋根裏に入りこむ。(暗い!)明るい屋根裏と言う印象があったのでヘッドライトを着けてこなかった。ダウンライトのスイッチがオフだから暗くて当然なのだ。わずかに軒天換気口から漏れる白い光が点在するのみだ。これらの光が見えるということは、外気に含まれる浮遊粉塵は、間違いなく天井裏に蓄積しているはずなのだ。
 ヘッドライトを取りに戻り、再度、屋根裏に入った。

 あの、赤い十字架は結露によるものではないのかもしれないと、僕は、別の可能性も考える必要に迫られ、ますます迷宮に入り込んでいくような恐怖と喜びを感じたのだった。難しければ難しいほど楽しい!これがあるからこの仕事をしているのだ。

つづく





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Last updated  2009.06.17 09:14:39
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