Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年01月12日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-288
 我々は幼い頃には絵本の童話の森の木が話すとか、サンタクロースのお話にのめり込み、想像を巡らします。
 第二の反対論に対して私は、判断を控える自由な力が我々にあることを否定することをもって答えとする。なぜなら、「ある人が判断を控える」と我々が言う時、それは「彼が物を妥当に知覚しないことに自ら気づいている」と言うのにほかならないからである。ゆえに判断の差控えは実は知覚であって自由意志ではない。このことを明瞭に理解するため、我々は、ここに翼ある馬を表象してそのほか何ものも知覚しない一人の小児を考えよう。この表象は馬の存在を含んでいるし(この部第二部の定理一七の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。により)。また小児は馬の存在を排除する何ものも知覚しないのであるから、彼は必然的にその馬を現在するものとして観想するであろう。そして彼はその馬の存在について確実でないにしてもその存在について疑うことができないであろう。こうしたことを我我は日常夢の中で経験する。しかし夢見ている間自分の夢見ているものについて判断を控えたり自分が夢みているものを夢見ていないようにしたりする自由な力が自分にあると思う人はないであろうと私は信ずる。もっとも夢の中でも我々が判断を控えることは起こる。それはすなわち我々が夢見ていることを夢見る場合である。なおまた私は、何びとも知覚する限りにおいては誤っていないということを容認する、言いかえれば精神の表象はそれ自体で見れば何の誤謬も含まないということを容認する(この部の第二部定理一七の備考 我々は、屡々起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。)。しかし私は、人間が知覚する限りにおいて何ものも肯定していないということはこれを否定する。なぜなら、翼ある馬を知覚するとは馬について翼を肯定するというのと何の異なるところがあろうか。すなわちもし精神が翼ある馬のほか何ものも知覚しないとしたら精神はその馬を現在するものとして観想するであろう。そしてその馬の存在を疑う何の原因も、またそれについて不同意を表明する何の能力も有しないであろう。ただし翼ある馬の表象がその馬の存在を排除する観念と結合しているか、あるいは精神が自らの有する翼ある馬の観念は妥当でないことを知覚する場合はこの限りでない。その場合には精神はその馬の存在を必然的に否定するか、そうでなければその馬について必然的に疑うであろう。
 これでもって私は第三の反対論 一の肯定が他の肯定よりもよりその実在性を含むとは思われない、言いかえれば我々は真なるものを真として肯定するにも、偽なるものを真として肯定するより以上の能力を要するとは思われないにも答えたと信ずる。すなわち意志とはすべての観念に適用されるある一般的なもの、単にすべての観念における共通物、肯定のみを表示するある一般的なものである。ゆえに、意志がこのように抽象的に考えられる限りにおいては、意志の妥当な本質は、すべての観念の中になければならず、且つこの点においてのみ意志の本質はすべての観念において同一である。それはちょうど人間の定義がまったく同様に各個の人間に適用されなければならぬのと同じである。このようにして我々は意志が常にすべての観念において同一であることを認めうるのである。、しかし意志が観念の本質を構成すると見られる限りにおいてはそうでない。なぜならその限りにおいては個々の肯定は観念自身と同様相互に異なっているからである。例えば円の観念が含む肯定と三角形の観念が含む肯定とはあたかも円の観念と三角形の観念とが異なるのと同様に異なっているのである。さらにまた我々が真なるものを真として肯定するのに偽なるものを真として肯定するのと同等の思惟能力を要するということを私は絶対に否定する。なぜならこの二つの肯定は、その言葉をでなくその精神のみを見るならば、相互に、有が非有に対するのと同様の関係にあるからである。というのは観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しないのだから(この部第二部の定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。とその備考 誤謬が認識の欠乏に存する云々。およびこの部第二部の定理四七の備考神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる云々。を見よ)。
 ゆえに、一般的なものと個々のものとを混同したり理性の有ないし抽象的有と実在的有とを混同したりする時に我々はいかに誤謬に陥りやすいかをここで特に注意しておかなければならぬ。
 最後に第四の反対論 もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、彼がブリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうかに関しては、そのような平衡状態に置かれた人間、すなわち餓えと渇き、ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間が餓えと渇きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間よりもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら溢死する人間を何と見るべきか、また小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。
 スピノザは「エチカ(倫理学)」の対象を知性と意志を持つものを前提にしたかのように締めくくります。此れは「エチカ」が慈愛の書ではなく、愛の認識による幸福・喜びの書であることを示します。



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最終更新日  2022年01月12日 06時10分04秒
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