Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月15日
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カテゴリ: 霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
2:霊的世界の認識について
 霊的世界の事象や存在に少しずつ近づくべく、自ら拡張し変容する概念が与えるものを日常的な魂的生活の中で観察するならば、精神科学の成果への洞察が容易になる。この道を辛抱強く選ぶことがなければ、霊的な世界を物理的あるいは感覚的な世界にあまりにも似たものとして表象しようとする誘惑に簡単に負けてしまうことになる。確かに、この道を抜きにしては、霊そのものやその人間に対する関係について適切な表象を得るということは決してないだろう。霊的な出来事や存在たちは、人がその魂にそれらの知覚に向けた準備をさせたとき、彼の方に近づいてくる。それらが近づいてくる仕方は、物理的な事実や存在たちの出現とは全く異なるものである。しかし、記憶のプロセスを魂の前に据えてみるならば、この全く異なる種類の出現についてひとつの表象を得ることができる。
 いくらか以前に人が何かを体験したとしよう。それはある特定の瞬間に、あれこれの機会を通じて、魂的な体験の地下から湧き上がってくる。人は、そのようにして湧き上がってくるものがある体験に対応していることを知っており、それをこの体験に結びつける。回想の瞬間に人が有するのは、その体験の「非同時的」な記憶像以外の何ものでもない。今、その人の魂の中にひとつの像が湧き上がってくる。それはひとつの記憶像のようではあるが、この像は以前に経験した何かではなく、その魂には何か未知のものを表現しているというような仕方で湧き上がってくるように思われる。それによって、人は、この「魂」にとってそれに対する準備が十分に整ったとき、いかにその魂の中に霊的な世界が初めて現れるかということについてのひとつの表象を得たことになる。一方、霊的世界の事情にあまり通じていない者は、あらゆる「想像上の」霊的体験は、単に魂がそのようなものだとは気づかず、そのため、それを霊的世界の啓示であると見なしているところの多かれ少なかれ不明瞭な記憶像以上のものではないという異議をいつも唱える。さて、この領域においては、幻想と現実を区別するのは困難なことであるということは決して否定されるべきものではない。確かに、超感覚的な世界からの知覚を有していると信じている人の多くは、本当はそのようなものであるとは知らずに、彼らの記憶像に取り組んでいるに過ぎない。ここで全く明確に見るためには、何が幻想の源泉であり得るかについて、多くのことを知っていなければならない。例えば、その印象が十分に意識の中には浸透しないほど一瞬それを見さえすれば、それが後になって、恐らく全く姿を変えて生き生きとした像として現われるということがあり得る。人は自分がそのできごとに関わる何かを有していたとは全く思わず、本物の霊感を得ていると確信するのである。このことやその他多くのことがらは、精神科学の特性に慣れていない者には、霊視についての報告が最高に疑わしいものに見えるということを完全に理解可能なものとする。私の著作「いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか」の中で霊視の修練について語られたことすべてを注意深く順守する者には、この領域において幻想と現実を見分ける可能性が与えられる。とはいえ、これに関連して、やはり次のことにも触れておく必要があるだろう。霊的な認識はいずれにしてもまず像として現れる。それらは、それに向けて準備が整った魂の奥底から、そのような像として浮かび上がってくるのである。そこで問題となるのは、これらの像に対する正しい関係を獲得することである。それらがどんな現れ方をしたとしても、それら自身のことであると間違っても受け取られないようにするとき初めて、それらは超感覚的な知覚にとって価値あるものとなる。それらがそのように受け取られるやいなや、それらには通常の夢以上の価値はほとんどなくなる。それらは人が文字を眼前にするかのようにして現れるのでなければならない。人はこれらの文字の形を目で追うのではなく、それらの文字によって表現されるものをその中に読み取るのである。何らかの書かれたものが文字の形を記述することを要求するものではないように、霊視の内容を構成する像は、それらをそのようなものとして解釈するのではなく、その像としての存在性から完全に目を逸らし、それによって超感覚的な事象あるいは存在として表現されるものへと魂を導く必要性をもたらす。それによって以前は全く知らなかった何かを知ることになる手紙が以前から知っている文字だけから構成されているといって誰も異議を唱えたりしないように、超感覚的な意識による像に向かって、日常生活から借りてきたものだけを含んでいると言われる所以もない。確かに、それはある程度正しいが、本当の超感覚的な意識にとって重要なのは、そのように日常生活から借りてきたものではなく、像の中で自らを表現するものなのである。いずれにしても、魂はまずそのような像が霊的な眼差しの中に現れるのを見るための準備をしなければならない。しかし、それに加えて、これらの像に留まるのではなく、それらを正しいやり方で超感覚的な世界に関連づけるために、細心の注意を払って感情を訓練しなければならない。真の霊視には、単に像の世界を見る能力だけではなく、感覚の世界における「読む」ことに比肩する別のものもまた属している。超感覚的な世界とは、さしあたり完全に日常的な意識の外に横たわっている何かとして表象すべきものである。この意識は、それによってこの世界に貫き至ることができるようなものを何も持ち合わせていない。瞑想によって強化された魂的生活の力を通して、まず、魂による超感覚的な世界との「接触」が行われる。そのことを通して、魂的生活の流れから特徴的な像が浮かび上がってくるのである。そのようなものとしてのこれらの像は、実際には、完全に魂そのものから織りなされる一幅の絵巻物である。それも、魂自身が感覚の世界の中で獲得した力から、それは織りなされているのである。像の織物として、それは記憶に比肩し得るもの以外には実際何も含んでいない。霊視的な意識を理解するためには、このことをもっと明確にしておく方が良いであろう。そうすれば、像の本性について幻想に陥ることはなくなる。そして、それによってそれらの像を超感覚的な世界に関連づけるべき方法のための正しい感情を修練することになる。人は、それらの像を通して、超感覚的な世界において「読む」ことを学ぶのである。感覚的な世界の印象を通してこの世界の存在や事象の傍らに立つ方が、当然のことながら、超感覚的に観照された超感覚的な世界の像を通してそうするよりも遥かに近いものがある。さしあたり、これらの像は、魂が超感覚的な世界に触れられたと感じるとき、その魂がその世界の前に自らかけたカーテンのようなものであるとさえ言える。重要なのは、人が経験を重ねながら超感覚的な事物に少しずつ精通していくことである。適切な解釈、正しい読解は、経験の中で徐々に生じるものである。意義深い超感覚的な体験には自分自身の観照を通して生じるものがあるが、人はそれをいかなる日常的な経験の記憶像にも関連づけることができない。にもかかわらず、ある種の超感覚的な認識についての確信を得た人たち、あるいは少なくとも得たと信じている人たちについて言えば、この分野において多くの不合理な主張がなされることが確かにある。輪廻転生について確信している何と多くの人たちが、彼らの魂の中に生じる何らかの像を以前の地上生での体験に関係づけることであろうか。これらの像があれこれの点で現在の生に似た先行する地上生を指示しているように見えるとき、あるいは、「知性により」その想像上の前世から容易に現世を把握できるように見えるときには、いつも疑い深くあらねばならない。先行する地上生の真の印象が「実際の」超感覚的な体験の中で生じるときには、大体において、この前世は、人が現世から思いつくものすべてや、現世のための願望や苦闘のすべてをもってしても、決して思い描くことができなかった、あるいは、想像で思い描こうともしなかったようなものである。例えば、現世のある瞬間に前世の印象を感じ取ることがあるが、前世において所有していた能力その他を自分のものにすることは全く不可能である。そのような意義深い霊的体験のために、日常生活の思い出であり得るような像が立ち現れることは決してなく、これらの像の大半は日常的な経験の中では全く思いもよらないようなものである。完全に超感覚的な世界からの真の印象については、遥かに高いレベルでそう云える。したがって、例えば、地上生と地上生の間の存在状態や、以前の地上生における最後の死と現世における誕生との間の生に関連する像を現在の生から構成する可能性は全くないということがよくある。人が地上生の中で人や物に向けて発達させる嗜好とは完全に矛盾する嗜好を霊的な生の中では発達させていた、という経験をすることがある。人が地上生において喜んで取り組むように促される何かを、以前の死と誕生の間の霊的な生の中では嫌がって避けていたということが分かるのである。この事象への思い出として日常的な体験から湧き上がってくる可能性のあるものすべては、霊的な世界からの真の知覚を通して得られる印象とは違ったものとなるはずである。物事が今説明されたような状態であるとしても、精神科学に通じていない者はそれでもやはり異議を唱えるであろう。彼は次のように言うことができるかも知れない。「いいかい、君には好きなものがあるだろう。人間の本性とは複雑なものだ。それぞれの嗜好には、隠された嫌悪感が混じっている。当のものについても、ある特定の瞬間に、それが君にわき起こってくるのだ。君はそれを誕生前の経験だと考えるかも知れないが、恐らく無意識的な魂的事実から全く自然に解明されるよ」と。一般に、そのような異議に対して、確かに彼は大体において正しいだろうとしかほとんど言いようがない超感覚的意識の認識を「疑いの余地なく」得るというのは簡単なことではない。とはいえ、「思い違いした」霊の探求者が思い違いをして、意識下の事実を誕生前の霊的な生の認識に関連づけ得るということが事実であるように、精神科学的な修練によって、意識下の魂的状態をも包含し、その関連で、幻想からも自由であり得るような自己認識へと導かれるということもまた事実なのである。しかし、ここでは、超感覚的な世界に由来するものを、単に自分の表象が形成したものから区別することができる超感覚的な認識のみが「本物」であるということだけを主張しておこう。とはいえ、この区別する能力は、超感覚的な世界に精通する中で、ちょうど、感覚世界の中で、熱い鉄に指で触れるのと単なる想像上の熱い鉄とが区別されるように、この分野においても、知覚が想像からしっかりと区別されるというような仕方で獲得されることになるのである。



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最終更新日  2023年09月15日 06時10分08秒
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