Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月19日
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カテゴリ: 霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
6:「境域の守護者」と超感覚的意識のいくつかの特徴について
 人間は感覚世界を体験することで、これまでの考察の意味で彼の実体がそこに根ざす霊的な世界の外に立っている。超感覚的な世界に参入する超感覚的な意識にとって、感覚界で得られる魂的諸力の強化が必要であることをよく考えてみるならば、この体験が人としてのあり方にどの程度関係しているかが分かる。もし、この強化がなければ、超感覚的な世界への参入に際して、魂は多少の気おくれを感じる。魂は、この参入を前にして、そのような参入は不可能であるという「証明」を求めることによって、それを避けようとさえする。しかし、もし、魂が参入に向けて十分な力を見出すならば、参入後に、自らの存在を自立したものとして主張するのを魂に許す力、そして、元素的な世界や霊的な世界においてはそうしなければならないように、その意識の領域において、思考を体験するだけではなく、実体をも体験することを許す力を自らの内に認識する。こうして、魂は、これらの力を集めることができるのは感覚世界に生きるときだけであると感じ、感覚世界の中を導かれて行く必要性を洞察するのである。この洞察が生じるのは、超感覚的な意識が特に思考を通して体験するときである。元素的な世界への参入に際して、意識は像の形で知覚される存在たちで満たされる。
この世界の中では、感覚世界における思考生活の中で展開されるような内的な魂的活動をその存在たちに向けて展開するまでに至ることはまずない。にもかかわらず、思考しながらそこに入り込むことなくして、この元素的な世界の中で、人間存在としての方向性を見出すことは不可能である。確かに、人は思考による観察なしでも元素的な世界の存在を見ることはできるかも知れないが、それが実際に何であるかを知ることはできない。そのような人は、何らかの文章を読むことができない人が、それを読むことができる人が見るのと全く同じものを眼前にするのに似ている。ただ、その文章が意味と実体を有するのは、後者にとってだけである。とはいえ、元素的な世界に滞在する間は、超感覚的な意識が感覚世界において遂行するような思考活動を行うことは決してない人間のような思考する存在は、元素的な世界の正しい観察によって、その存在と力の意味を共に知覚し、思考しない存在はその意味と実体を欠いたその像を知覚するだろう、というのが本当のところである。霊的世界に歩み入ったとき、例えば、アーリマン的な存在は、思考存在としての魂によって見られないならば、何か全く異なるものとみなされるだろう。ルツィフェル的な存在やその他の霊的世界の存在たちも同様である。思考によって強化された霊視的な眼差しをもって霊的世界から観察するとき、アーリマン的な存在やルツィフェル的な存在たちは彼らがそうである通りのものとして見られるであろう。魂が十分な思考力で武装していないならば、霊的世界から見たとき、ルツィフェル的な存在たちが霊視的な像の世界を占拠し、観察する魂の中に幻想を呼び起こすことで、魂自身が求める霊的世界にますます深く入り込みながら、実際には、ルツィフェル的な力が自分たちの存在に似たものとして準備しようとしている世界にますます深く沈み込んでいくことになる。確かに魂はますます自立していく自分を感じるが、その実体やその源泉には相応しくない霊的世界に順応しているのであり、見知らぬ霊的環境に入り込んでいるのである。感覚世界はルツィフェルのような存在たちを覆い隠すので、感覚世界の中では、これらの存在たちは意識を惑わすことができない。彼らは意識にとって単にそこにいないので、意識は、彼らに惑わされることなく、十分に思考的に強化される可能性を有している。感覚世界において十分に霊視に向けた強化がなされた分だけ霊的世界に歩み入るということは、健全な意識の本能的な特性に属すものである。意識は感覚世界においていかに体験できるかにかかっているが、それが本領を発揮するのは、それが感覚世界に負っているところの思考、感情、熱情等々によって自分自身を体験できるときである。この体験に意識がいかに強く依存しているかが特に明らかとなるのは、超感覚的な世界への参入が実際に起こった瞬間である。人が人生の特別な瞬間の高められた記憶に強く執着するように、超感覚的な世界への参入に際しても、ひたすら自分が完全にできることだけに向かおうとするあらゆる傾向がまるで魂の奥底からのように必然性をもって現れる。そこで気づくことになるのは、いかに人間が基本的には人を感覚世界に結びつける生活に執着しているかということである。そこでは、この執着が、人が人生の中でこの事実について作り上げるあらゆる幻想なしに、その完全なる真実において明らかとなる。超感覚的な世界への参入に際して、いわば最初の超感覚的な成果として、それまで全く考えられなかったような一片の自己認識がもたらされるのである。そして、実際にはいつもそこにいる世界に、本当に意識的に参入しようとするのであれば、いかにあらゆるものを後に残して行かねばならないかということが明らかとなる。人が人間として意識的に、そして無意識的に、感覚世界の中で自分から行ってきたことが最高度の明晰性をもって魂の視界の中に入ってくる。多くの場合、この経験は人が超感覚的世界に参入しようとするさらなる試みをすべて中止させる結果につながる。したがって、霊的な世界への滞在が成功するためには、いかに別様に感じ、感知することを学ばねばならないかを明確にしておくということが重要となる。以前に有していたものとは全く異なる内的な魂的状態を確立するように決意しなければならない。言い換えれば、これまで成就したものに別のものを付け加えなければならないのである。
 それでは、超感覚的世界への参入といったような瞬間には、一体何が起こるのだろうか。人がいつでもそうであったところの存在を見るのである。とはいえ、今まで絶えずそこからそれを見ていたところの感覚世界からではなく、霊的な世界から、幻想なしで、その真実の姿を見るのである。人はそれを見ることによって、自分の霊的な価値を評価することができるだけの認識能力によって自分が完全に浸透されているのを感じるそのような観察によって明らかとなるのは、何故、人は超感覚的世界に躊躇なく意識的に参入しようとしないのかということである。この参入のために人が有する強さの程度が明らかとなるのである。人は意識的な存在としての自分自身がいかにそこから遠く離れているかを見る。そして、より正確に見通せば見通すほど、その意識を持って感覚世界の中にとどまろうとする傾向もまたそれだけ余計に強く生じる。高められた認識はこれらの傾向をまるで魂の深みにある隠れ家からのように誘い出す。人はそれらを認識しなければならない。何故なら、そのことによってのみ、それらは克服されるのだから。とはいえ、それらは認識においてやはり全く特別な力を有していることを証明する。それらは魂を圧倒し、魂はそれらによって自分が奈落の底に引きずり降ろされるかのように感じる。自己認識の瞬間というのは厳粛なものである。巷では、あまりにも多くの哲学や理論が自己認識について云々しているが、魂の眼差しは、それらによって自己認識に直結するその厳粛さに導かれるというよりも、むしろそれから気を逸らされる。そして、この厳粛さにもかかわらず、人間の本性が自分自身を自己体験することによってその成熟度を発展させることができるまでは、本能的に霊的世界に入り込むことがないように秩序づけられていることをよく考えてみるならば、どれほどの慰めとなることであろうか。超感覚的世界の存在との最初の最も意義深い出会いが人間としての発展過程の中で追及すべき真の自分との出会いであるということは何という慰めであろう。人間の中には超感覚的な世界への参入に際して越えられなければならない境界を注意深く見守る存在が潜んでいると言える。この人間の中に潜む霊的な存在とはその人自身であるにもかかわらず、目がそれ自体を見ることができないように、日常的な意識にとってはほとんど認識できない存在であり、それが霊的世界への「入口を守る者」である。彼を認識できるようになるのは、人が実際に彼自身であるというだけではなく、まるで彼の外に立っているかのように、まるで別の人に相対しているかのように彼に直面する瞬間である。超感覚的世界の他の体験と同様、「入口を守る者」もまた内的に強化された魂的能力によって可視的になるのである。さて、霊視的な眼差しにとっては、「守る者」との出会いが認識へと高められるとしても、それとは別に、この出会いは決して単に霊視的になった人にとってだけ起こるような出来事ではない。この出会いが生じるのと全く同じことが眠りに落ちるすべての人に生じるのである。そして、その眠りが続く限り、「自分自身に相対すること」、「入口を守る者」の前に立つのと全く同じことが継続する。眠りの中で、魂は自らを超感覚的な存在へと高めるのである。しかし、そのとき、その内的な力はそれ自身の意識を呼び起こす程には強くない。超感覚的な体験を理解するという意味では、特に、その微妙な始まりにおいては、超感覚的なものについてのそれなりの知識を形成することができなとしても、それを体験する準備を開始することができたということに魂的な注意を向けることもやはり大事である。当初、霊視は非常に微妙な仕方で生じる。そのため、人は大体においてほとんど手に取るように見えるだろうと期待しているので、掠めて行くような霊視的な諸印象に注意を払うことはない。彼らはそれらがそのようなものだとは全く認めようとはしないのである。それらが生じるときには「忘れ去られること」を前提として生じる。それらはあまりにも微かに意識の中に入って来るだけなので、魂の中の薄い雲のように全く注意を払われないままに留まる。こうして、大方の人は見霊というものをさしあたりそうであるのとは全く別様に期待しているので、多くの熱心な霊的世界の探求者にとってもそれが見つからないのである。この関連においても、「入口を守る者」との出会いは重要である。たとえ、人がその魂を正に自己認識に向けて強化していたとしても、この出会い自体は単に最初の見霊の微かに掠め去るようなものかも知れない。しかし、人は他の存在に比べて自分自身の存在にはより強い関心を持っているので、他の超感覚的な印象のように簡単に忘れ去られることはないだろう。とはいえ、「守る者」との出会いが最初の超感覚的な体験である必然性は全くない。魂の強化は様々な方向性を取り得る。魂が取る最初の方向性が、この出会いの前に、他の存在やプロセスをその霊的な視界へともたらす可能性はあるが、この遭遇は、超感覚的世界への参入後、比較的早期に生じることになるだろう。



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最終更新日  2023年09月19日 06時10分08秒
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