Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年10月14日
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カテゴリ: 霊魂論
「キリスト存在について」Ⅸ
デュッセルドルフ 1909年4月18日夜
 皆さんは、キリスト教の教義、キリスト教の中で教えられることのすべて、キリスト教の教えのすべてを記述することができ、他の宗教体系の中にもそれを見い出すことができます。このことを否定することはできません。確かに、キリスト教の教えの本質はそれ以外の体系の中にも含まれているとい云うことができるのです。けれども、キリスト教が有効であったのは、その教えの内容を通してだけだったでしょうか。キリスト教を広めるために最も多くのことを為した人物は、その教えに頼ったのでしょうか。使徒パウロについて考えてみてください。彼がサウロからパウロへの変容を彼自身に作用させたのは聖書の中に書かれていることことがらによってだったでしょうか。彼は、十字架上で死を遂げた人物が雲の中から彼の前に現れるまで、つまり、パウロが、キリストは「生きている」という事実についての彼自身の個人的な神秘体験を持つまで、キリスト・イエスの追従者たちを迫害していたのです。その死の影響、その行為の効果がパウロにとっての促進的な衝動となったのですが、それが問題なのです。他の宗教体系はその教えを通して働き、その教えはキリスト教の中に見いだされるものと同じです。しかし、キリスト教においては、教えが重要なのではありません。問題は、生じた「行い」なのです。キリストの行為がある人に働きかけることができるのは、その人がそれを有効にしようと決意したとき、つまり、個々の自我の絶対的に自由な本性とその行為とがひとつに結びつけられるときだけなのです。人間のアストラル体の中にキリストが存在するというだけでは不十分なのです。キリストは、真に理解されるためには、自我の中に存在しなければなりません。そして、自我はキリストを受け入れることを自由に決断しなければならないのです。これが重要な点です。けれども、自我が自らをキリストに結びつけることの結果として、この人間の自我は、自らの内に、現実を、つまり、単なる教えではなく、神的な力を、獲得するのです。ですから、キリスト教の教えは既にあちこちで見いだすことができる、しかし、それが問題なのではないのだ、ということを何百回でも示すことができるでしょう。キリスト教の本質的な側面はより高次の世界への自発的な上昇を通してのみ自分のものとすることができるところの行為なのです。人間がキリストの力を自分の中に受け入れるのは、それを喜んで受け取るからであり、それを自発的に受け取らない人は、誰もそれを受け入れることができません。このことが人間にとって可能になったのはキリストが地上で人間となってから、つまり、彼が地上で人間になるように召還されてからです。
 ルシファー的な存在として地上に住むようになった墜ちた天使たちの立場は違います。実際、彼らは「月」の上で人間になるべきだったのです。しかし、彼らはその進化の途上で取り残されました。その結果、彼らはアストラル体に浸透することができるのですが、自我に接近することはできません。彼らは異常な状況にあるのですが、それは、多少学者ぶったものに見えるかもしれませんが、ただ図式的に表現できるだけです。レムリア進化期における人間のアストラル体を、エーテル体と肉体は無視して、この円で表現してみましょう。自我は徐々にアストラル体の中に入っていき、このアストラル体の内部に包み込まれることになります。次に何が起こるでしょうか。レムリア期を通して、ルシファー的な力がアストラル体のあらゆる側から忍び込んで来たのですが、それはその活動を通して人間に浸透することになりました。それらは人間において、低級な熱情として表現されます。人間が間違いや悪を犯す可能性はアストラル体の中に組み込まれました。つまり、ルシファー的な精神がその可能性を私たちに導入したのです。もし、そうでなかったとすれば、私たちは決して間違いを犯すことも、悪を行うこともなかったでしょう。そのかわり、私たちは、妨害的な影響を受けていない自我を受け取ったであろう領域へと引き上げられていたことでしょう。そのようなルシファー的な力がアストラル体のあらゆる側から忍び込んで来た状況において、人類の偉大な指導者たちは、私たちがあまりに深く沈み込んでしまわないように、人間を守りました。
 そして、キリスト事件が起こりました。キリストを自発的に受け入れた人を取り上げてみましょう。勿論のこと、キリスト教の教義は未だ初期の段階にありますが、理想的な状況を取り上げましょう。つまり、人間の自我が完全な自由意志によってキリストの力を自分の中に流れ込ませたと考えてみましょう。自我が進歩してキリストに浸透されるまでになったとき、キリストの力はアストラル体を照らし出し、そこに注入されていたルシファー的な力による行いの中に流れ込みます。そのとき、未来においては何が起こるのでしょうか。キリストの助けによって、そして、彼の助けによってのみ、私たちはルシファーから進み出る私たちの中の「あの性質」をうち消すことができるようになり、同時に、そのルシファー的な力を徐々に解放することができるようになるのです。ルシファー的な力は、人間の自由のために、進化のより低次の段階へと沈んでいかなければなりませんでしたが、そのため、地上ではキリストの力を経験することができませんでした。そのルシファー的な力が、人間を通して、キリストの力を経験し、それによって救済されるときが来ます。人間は、もし、適切な仕方でキリストの力を受け入れるならば、ルシファーを救済することになるのです。その結果、人間は、そうしなかった場合に比べて、より強くなっていることでしょう。もし、人間がルシファー的な力を受け取っていなかったとしたらどうでしょうか。キリストの力は流れ込んでいたでしょうが、ルシファー的な妨害には出会わなかったことでしょう。私たちは、私たちがこれらの相殺的な力を一度は克服しなければならなかったことで、今、可能となった程度にまでは、善、真理、そして叡智において発達することはできなかったでしょう。人間はヒエラルキア存在のひとつですが、他の存在とは異なっています。セラフィーム、ケルビーム、トローネ、主天使、運動霊、形態霊、人格霊、火の霊、そして、天使の一部とも異なっているのです。未来をのぞき見て、人間は次のように言うでしょう。「私は私の行為に向けた衝動を、私自身の内的な存在の最奥の部分において追求するように求められている。例えばセラフィームがそうであるように、神についての思索からではなく、私自身の内的な存在からそうするのだ」と。キリストは、その衝動には従わなければならないというような仕方で働く神ではありません。人がキリストに従うのは、ただ理解と自由からそうするだけです。キリストとはあれこれの方向に発達しようとする自由で個別的な自我を妨げることを決してしない神のことです。キリストは言葉の最も深い意味で次のように言うことでしょう。「お前は真実を知るであろう。そして、真実はお前を自由にするであろう」と。そして、次のヒエラルキアに属する存在たち、悪を行う可能性のあるルシファー的な存在たちは、人間の力によって、再び救済され、自由にされることでしょう。



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最終更新日  2023年10月14日 06時10分07秒
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