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例えばあなたが、透視結果やら、宇宙人情報やら、天使のメッセージやらにもやもやと迷っていたとします。 どれが本当なのだろうか? とか 自分に来ているメッセージは本当なのか? とか 透視やチャネリングやリーディングができるという人からもらったメッセージは本当なのか? とか 相反する情報や矛盾する情報に、どれが本当なのだろうか? とか。 この疑問に対して、自らもある程度のリーディング能力やチャネリング能力を持ち、地球外生命体のコンタクトも受けたことのあるものとして、出来るだけ誠実に知る限りのこと、体験し尽くしたことをお伝えしておきたいと思います。 もし何か参考になる方があれば、参考にしてみて下さい。 自分の実体験と見聞きしたことふくめて丁寧に書かせていただきます。ですので非常に長くなるおそれがありますので、複数回に分けて連載してみたいと思います。 ですが、もし今回のみしか読まない方のために、簡単に結論らしきものを述べておきますと、宇宙に唯一の真実というものはありません。 宇宙の仕組み的にそういうのはないというのが簡単に述べておける結論です。 では宇宙はなぜそんな構造をしているのか述べていってみたいと思います。 ちなみに私がどの程度の能力者なのか?(能力だけで判断できるものではないと思いますが・・) という疑問を持たれると思います。 こういうものがある程度の証明になるのかどうかわかりませんが、第三者的評価で言うと、宇宙人関係のチャネリングと情報では世界的な定評のあるチャネラーのリサ・ロイヤルさんの(個人セッションによる)チャネリングでは、私はゼータ人、プレアデス人、エササニ人(エササニ人とはチャネラーのダリル・アンカさんのチャネリングするバシャールと同種族の宇宙人)のパラレルソウル(もしくはフューチャーセルフ)を持ち(つまりハイアーセルフは同一でプレアデス人として転生している私やエササニ人として転生している私がいて、この地球人類としての私にコンタククトしてきている)それらの宇宙人種族とコンタクトをして意識の交流があるそうです。 ちなみに同じく、チャネラーのリサ・ロイヤルさんのチャネリングによると、宇宙人的な過去世としては、ベガ人やオリオン人の僧侶だったこともあるとか(僧侶と訳していますけど、宇宙人的な意味での僧侶とはこの地球の僧侶と少し違って、その種族の宇宙とのチャネラーのようなものらしいです)。 あと前述のダリル・アンカさんのチャネリングするエササニ種族のバシャールからは(個人セッションは受けてはいないのですが、公開セッションで質問者として当たったことがあり、当時、私の頭を悩ましていた自分へのコンタクト現象について質問をしてそれに答えてくれたことがあります)バシャールからは例えばゼータ人とのコンタクトは本当であること。それは私のパラレルソウルであること。他の種族ともコンタクトできること。その時に地球人である私の今の心理構造では圧迫感を受けること(恐怖とかも吹き出してくる)等々のことを言われました。 あと、こちらは私が個人的に一番信任を置き、世界観も近いと感じている存在ですが(非常に良質な存在と感じています)、チャネラーのリチャード・ラビンさんのチャネリングするエクトンという存在からは(数年にわたって複数回個人セッションを受けたのですが)同じくコンタクト現象は本物であること。私は細胞や遺伝子レベルまでセラピスト(サイキック・カウンセラーと表現していましたが・・)になる選択をしていること。それだけの実力ももう兼ね備えていること等々も言われました。 こういうものは証明にもならないとは思いますが、私がもしこの文章を読まれる皆様の立場でしたら、書かれている文章そのものと、その書いた人の背景や人生遍歴も参考にして評価すると思いましたので、一応、書かせていただきました。 私の人生は、子供のから憑依現象等々で散々苦しみぬいた人生でした。 だから答えを求め続けました。 (今の科学的には無いとされている)この見えない次元は何なのか? 人間とは何なのか? 世界とは何なのか? 宇宙とは何なのか? 人間の存在価値とは何なのか? 宇宙の始まりと終わりとは? 神はいるのか・いないのか? 真理とは何か? 大人の思考がある程度以上、フィーリングとして読めて、その大人の仮面を被ったような二面性がとても苦しかった子供でした。 何が何だかわからない、人霊も人霊以外の存在も団体様お着きで憑依されていた、生命力そのものすら吸われ続けて、生きているのが奇跡のような幼少・青年時代を過ごして来た私は、切実な切実な疑問とその答えを探し求め続ける旅のような人生をおくってきました。 結果論もふくめて言うなら、段々と自分の力を取り戻していった私が自分の実体験の数々でつかんだ答え(もしくは答えらしきもの)は、想像を絶する、しかしシンプルと言えばシンプルな代物(しろもの)でした。 もし自分の人生を歩んでいくのに参考になる方がいらっしゃれば参考にしてみて下さい。 参考にならない、もしくは眉唾(まゆつば)だと感じられた方は、もちろんご自分の意識や記憶に残していただかなくて結構です。 このテーマで次回に続きます。
2009年11月23日
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今までずいぶんと色々な人達にお世話になったと思います。 色々な人達に支えてもらってきたと思います。 そのことにただ『ありがとう』と言わせて下さい。 そして私もまた、人から本当の意味で『ありがとう』と言われるようなそんな生き方を、色々あった人生の彩(いろど)りを添(そ)えて、果たしてみたいと思います。 『本当にありがとう』
2009年11月23日
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世界の中で一番難しいことは「自分自身を完全に許してやる」ことなのかもしれない。 人は他人を許した時に、自分を許すことができると思っているところがあるようだけれども、どうももっともっと深い意識の仕組みでは、自分自身を完全に許してやれば、すべてがあるべきところに収まるような気がする。 例えば、後悔のある過去も、その時の自分の精一杯の状態であったのならば、それはそれでと許してあげることはできないだろうか? なぜか人は、根深い自分の存在自身への罪悪感(原罪意識のようなもの)や、不完全という意識や、劣っている(逆に優れている)という意識、恥の意識、恐怖や恐れの意識等々にそれはそれは深く深く捕らわれているように思える。 それこそが分離という形で世界を創った根本的なからくりかも知れないけれども。 前に述べた『完璧な世界』の話にも通じるのだけれども、なぜ自分自身を完全に許してあげれば道が開けるのかというと、あの『完璧な世界』または『それ』には、『完全に全面的な自己受容の状態』しか無いからだ。 もし便宜的にそういう言い方ができるなら『神』の状態とは、『絶対』もしくは『完全に全面的な自己受容』の状態と(その現象の片鱗(へんりん)を経験して言えるのだが)表現できると思う。 この世で(あるいはありとあらゆる次元のすべての世界で)「自分自身を完全に許してやる」という行為こそが、あの世界の『完全に全面的な自己受容の状態』につながり、『完璧な世界』または『それ』の状態をこの世で出来るだけ具現化するように思える。 そうなったら、どうなるのか? おそらくそれは『神』そのものが具現化したかのような状態になると思う。 具体的に言うと、すべてが愛に包まれた最終結果がもたらされるのではないだろうか? それは人の狭い意識では計り知れないものかもしれないけれども。 まだ見ぬ、恋いこがれてもまだ来ていない、愛にあふれた理想的な未来の状態も、原理的にはただ自分にそれを許してあげるだけで、絶対的に自分に許してあげるだけでもたらされる気がする。 だからあなたがもし迷路のようなところで迷っているのならば、自分自身のすべてを許してあげて欲しい。 一切の例外なく許してあげて欲しい。 絶対的に許してあげて欲しい。 ただ暖かく大きく優しく許してあげて欲しい。 完全に自分を許しきれば、多分、最終的にはあなたに最も愛にあふれた結末がもたらされるだろう。 人によっては多少の月日がかかることもあるかもしれない。それでもなお、すべてが在るべき所へ収まった結果がもたらされるだろう。 そうなるだろう。
2009年11月22日
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最近、夜寝ている間、『完璧な世界』に行っていることが多い。 静寂な上にも静寂を重ね、ありとあらゆる次元を越えて、さらに突き抜けたところにある世界。 そこにはプロセス(過程)も始まりも終わりもなく、ただ『それ』だけがある世界。 この世に戻ってきた時に、人間としての私個人の意識で、強いて表現するなら『完璧な世界』としかいいようが無い世界。 行っているとは表現しているけれども、実際は宇宙の始まりから終わりまで、すべての次元や時空から、一度も動いたことも消えたことも離れたこともない世界。 世界そのものが『それ』であれり、『それ』そのものが世界そのものである『完璧な世界』。 おそらく「ワンネス(一つなるもの)」とか、「大いなるすべて」とか呼ばれている世界。 (厳密に言うとまずワンネス(ひとつなるもの)が在り、それから「大いなるすべて」が発動したと個人的には感じているけど)。 そこから帰ってきて、しばらくその余韻に(この世に残ったオクターブを死ぬほど落とした共振の波動の欠片(かけら)のようなものに)浸っているといつも二つのことを思う。 ☆ 一つは、この意識をこの世に持って来れないかというもの。 「可能な限り」という枠は付いてしまいそうだとは思うけれども(それこそ物質次元という枠も人間という枠も背負っているので)それでも「できるんじゃないか?」という感慨(かんがい)は抱く。 「できるはずだ」という思いは抱く。 ある女性の友人などは、「えー、無理なんじゃないか。だってそんなもん本当に持って来れたら人間という形でいられるか?それこそこの世から消えてしまうんじゃないか?そんなの意味ないんじゃないか?」と言う。 そうなのかもしれないが、わからない。 ただ、そこは、確かに、あまりにも『完璧な世界』で、分離が一つもなくて、本当に強いて言うなら、静寂とか喜びとか存在とかいう感覚しかない。 正直、これでさえ便宜的(べんぎてき)な言葉で、思いっきりずれていると思う。 『それ』しかないと言うか『それ』そのものであるという究極を表現するということ自体が、あり得ないと言うか、もう分離の思考ゲームだから。 この『完璧な世界』には表現すらない。 これまた強いて言うなら、表現そのものがそれであり、それそのものが表現であるとしかいいようがない。 いくつもの表現とかはまったく存在しない。 たった一つの『それ』そのものという存在の意識しかないし、そもそも「一つ」とすら感じも考えも認識もしない。 『完璧な世界』 私がここにいるのは(私という視点から見ればだけど)強制的にこの世に戻されるからに他ならない。 この世の肉体、この世の人間としての人生、生きている時代と社会に、なぜか毎朝、放り出されるからに他ならない。 私は幽体離脱(体外離脱)とかもするので、いわゆるアストラル界(4次元界、幽界)とかも、出入りする時はするけど(その上と言われているメンタル界(5次元界、霊界)とかも出入りしていると思うけど)そういうのとはまったく根本が違う話をしているつもりだ。 自分で言っても何なんだけど、そんなすべての時空を完全に越えた、根本中の根本の話をしているのだろうと思う。 あの『完璧な世界』の状態でいられ続けるのなら、間違いなく居続けるだろうと思う。 そのくらいすべての言葉と表現を越えて究極の世界だ。 もしそんな表現が許されるならそこは究極の幸せの世界だ。 ありとあらゆる次元のすべての世界は、決して眠らない『それ』の見ている夢のようなものだ。 でも、一方で、日常が始まるとこうも思うのだ。 ☆ 二つ目に思うことは、世界はまんざらすてたものじゃないかもしれないということ。 なぜ、ワンネス(一つなるもの)が、大いなるすべてを創りだしたのか? なぜ、すべての時空次元を創りだしたのか? なぜ、無限にして永遠の様々なゲームを始めたのか? 太古の昔からこの「なぜ?」は問われてきた。 それこそ古代インドのウパニシャッドから、アラビアのイスラムの神秘主義者までが、なんでわざわざ完璧なるものが、完璧をやめて、どんどん次元を落としていってこんな不完全な宇宙の数々を創ったのか?、幻(まぼろし)と幻影と錯覚の中へ入っていったのか?、考えあぐねていた。 それなりの結論を出した人達もいた。 「無限なるがゆえに有限(空間)を求め、永遠であるがために時(時間)を求めた」とか、「二羽の鳥がいた。一羽は果物の実を食べ、一羽はその実をいつまでも眺めていた。どちらがどれだけ世界を知ったのであろうか」とか、「振り出しに戻ってしまった」と結論付けた人もいた。 でも、私は個人的に、この現象の片鱗(へんりん)を味わって、ちょっとわかったような気がした。 このわかったようなことでさえ、フィーリングであって、言葉にするのは難しい。 本当に人の言葉を持ってきたのなら、限界がある。 例えば、「宇宙は寂しかったからだ」とか「冒険をしようと思った」とか「好奇心からだ」とか「愛からだ」とか「すべての可能性を探ってみたかったからだ」とか「拡大する意志を持ったからだ」とか色々言えそうだ。 だからこういう割れたガラスの欠片(かけら)のような表現ではなくて、わかってもらえるかどうか(通じるかどうか)わからないけれども(そして別にわかってもらわなくても良いのだけれども)本当に感じた一つの実感を、もし何かの参考になる人でもいるのなら紹介しておきたい。 あの『完璧な世界』に、例えば「涙」はない。 あの『完璧な世界』に、例えば「笑い」はない。 あの『完璧な世界』に、例えば「他人」はいない。(必然的に恋人も友人も妻も夫も親も子もいない。同時に敵(かたき)も憎むべき者もいない。ついでに飼い犬も飼い猫もいない)。 あの『完璧な世界』に、例えば「自他」すら存在しない。 あの『完璧な世界』に、例えば「世界」すら存在しない。 この世界は、まんざらすてたもんじゃないかもしれない。 他の色々な次元も、これから先、公(おおやけ)に人類が接触するであろう、異星人の世界も、良くも悪くも、まんざらすてたもんじゃないかもしれない。 あの『完璧な世界』に行って戻ってこなくてもいいのなら、間違いなく私はそれを選ぶと思う。 それくらい究極の世界なのだ。 でも、それでも、それでも、帰ってきた私はもう一つのことも思う。 この世界でしか体験できないことがある。 この世界でしか得られないことがある。 この世界にしかない価値がある。 おそらく『それ』もその何かを求めたのだろう。 それは『それ』の絶対性すらすてても(一時的に錯覚の中で見失っても)、同価値と見なす程の何かだったのだろう。 それはちょっとわかる気がする。 だから別に人生を生きていてもいいのだと思う。 人生にはそれだけの価値があるのだと思う。 そう思う。 <番外編> ある日の私と前述の女性の友人との電話での(マニアックな)会話。 「この間さあ、30年ほど前のスピーカーだと思うけど、ヤ○○-NS-1000Mの中古が売っていてさ、ウーハーの白いコーン紙に少しシミが出ちゃってんだけど、それをのぞけば(オーディオ機器の全盛期である30年前ならともかく)現代ではもう作れないようなベリリウム振動板のツイーターとスコーカーで中高音を出すヤツでさ、ちょっと持ち込みのCDで試聴させてもらったんだけど、文句のつけようの無い中高音でさ、欲しい~と思ったんだけど、記憶違いをしていなければ当時の値段で36万円くらいだったと思うけど、中古値段6万円で売っていてさ、でもお値段的に今は手が出なくってさ、シミも気になったんだけど」 『ふーん。私もJALのピンクのリュックで欲しいのがあるんだけど1万円で考えちゃってるのよね~』 「でさ、でさ、この間、また見に行ったらさ、昨日売れましただって。ヒーン、逃しちゃった。あの、あの、あのベリリウム振動板が・・・金色をベースに玉虫色に輝く何とも言えない光り輝くベリリウム振動板が~~~あああっー、すり抜けていっちゃった~。なぜだ~~~」 『そんなに言うなら、黄金虫(コガネムシ)でも眺めていれば~』 「・・・・・・・・・・・・(むっ、むごい)」 <もちろんあの『完璧な世界』にはこんな会話も存在しない>
2009年11月20日
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自分のすべての声を聞いてあげることは、難しいことなのかもしれない。 でもただそれを認めてあげて、身体の中を流れていくのをきちんと感じてあげるだけで、ずいぶんと違うものだ。 自分にとって本当に心地よいことは、本当は人は知っているけれども、なかなかそれを許そうとはしないのかもしれない。 あるいは時には、自分に心地よいつもりで、むしろ(例えば麻薬のような)逃避先に逃げ込んでいるだけの場合もあるだろう。 それでも、人は最終的には自分の道を知っていると思う。 その道に逆らい続けることも可能だけれども、多分、そうするとどんどん歪みが積み重なっていく。 だんだん自分が壊れていく。 そんな風になるかもしれない。 道を目の前にして、色々なものが込み上げてくるかもしれない。 恐れや不安や迷いや戸惑いや・・・数え上げたらきりがない。 それでもなお、自分の道は目の前にある。 さらにややこしいことになっている時などは、道に対して思いこみや制限をかけている人もいるかもしれない。 たどっている道筋自体は間違ってはいないんだけど、方法や必要なパーツが噛み合っていなかったり、こちらも数え上げたらきりがないくらい色々あり得る。 それでもなお、道は続いている。 本当に迷ったら自分の心に聞いてみるが良い。 自分にとって、心ある道は、愛ある道は、本当に行きたい道はどこなのかを。 本当に暖かく感じる道が、(多くの場合)あなたにとっての道となるだろう。 自分を本当の意味で許してあげた道が、あなたの道となるだろう。
2009年11月19日
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見るものと見られるものとの間に世界はある。 人であることも大事だけど、神であることも大事かも知れない。 神であることも大事だけど、人であることも大事かも知れない。 (これがすべての人にとって言えることだと言ったら笑われるだろうか?) 落としどころはどこだろう? 折り合う点はどこだろう? 人それぞれ違うだろう。 人、一人一人が神の自己表現なのだから。 私にとって最も素晴らしいところに至りますように。 あなたにとって最も素晴らしいところに至りますように。 心のあるところへ、愛と共(とも)に。
2009年11月18日
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静かに静かに大事なものは育まれる。 どんなに苦しかったことがあっても、どんなに悲しかったことがあっても、どんなに辛かったことがあっても、人生にどんなに呪縛されたかのような状況があっても、それでも自分の奥で、なにかが大事に大事に育まれていく。 それは最初から宇宙にあったもの、そして今、さらに様々な経験を経て、さらに豊(ゆたか)に優しく精錬(せいれん)されていったもの。 それを愛と呼ぶ人もいるだろう。 それを光と呼ぶ人もいるだろう。 それを英知と呼ぶ人もいるだろう。 それを意志と呼ぶ人もいるだろう。 それを神と呼ぶ人もいるだろう。 それをただ単にそれと呼ぶ人もいるだろう。 どう呼ばれようとも、それは育まれていく。 静かに静かに。 やがて時が満ちたある日、突然、それが堰(せき)を切ったようにあふれ出す。 愛の奔流(ほんりゅう)が、光の奔流(ほんりゅう)が、存在そのものの奔流(ほんりゅう)が、その人から、そのすべてを味わいつくした人生から、豊(ゆたか)にあまりに豊(ゆたか)に、幸(さち)に満ちてあふれ出す。 すべては尊(とおと)く、すべては貴(とおと)い。 あなたはそこにいる。 私はここにいる。 すべてはそこにある。 それで良い。 その時、人はそれを知り、それになる。 それそのものであったことを思い出す。 豊(ゆたか)に、あまりに豊(ゆたか)に、幸(さち)にあふれて。 優しく、あまりにも優しく、心あふれて。 おかえりなさい。 あなたがあなたであったものへ。 「ありがとう」のたった一つの思いと共(とも)に。
2009年11月17日
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心の奥に今まで感じることができなかったひとひらの雪の結晶があった。 それは今までそこに存在が無かったものではなく、あまりにもの冷たさにあることを感じることすらできなかったものらしかった。 本来、自分らしい人生を歩むことをはばんでいる側であろうそのひとひらの雪の結晶を、それでも私は『美しい』と感じた。 その悲しみや痛みの塊(かたまり)のような、流すことすらできなかった涙が凍りついたかのような、そのひとひらの雪の結晶を、それでも『美しい』と感じた。 これもまた私の一部、私の生きてきた歩みの証(あかし)、私の創りだした美しさの結晶なのだから。 それもまたそこにあることを受け入れて生きていこう。 このひとひらの雪の結晶を胸に抱きながら生きていこう。 すると何かの扉が開いた気がした。 私の胸の奥で何かがほっとしている気がした。やっと認めてくれたと喜んでいる気がした。 扉の向こうには私のものとも宇宙のものとも区別のつかない「大きなやさしさ」があふれている気がした。 多分、いつかはこの雪の結晶も溶ける日が来るのだろう。 雪の結晶は水となり、水蒸気となり、消え去る日が来るのだろう。 でもそれまではこの『美しさ』を抱えて生きていこう。 多分、生きるとはそういうことだから。
2009年11月14日
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光も闇も本当の意味で受け入れて。 世界をありのままに抱いて。 何より自分自身をあるがままに抱いて。 他人がそのままであることを許して。 そして今ここにあれば・・・それが愛なのではないかと思います。 語れることは語っていこうと思っています。 今までありがとう。 これからもよろしく。 (セラピストMASA)
2009年11月11日
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