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マフラーを手作りしました。 首元だけを保護します。 軽くて暖かいです。 通勤、通学中にコートの内側に巻いて、 首の負担が超~軽い。 私は毎朝使っています。 とにかく軽くて柔らかいです。 色は三種類があります。 オーダー色もお待ちしております。 おすすめします。 入札履歴 首元マフラー 暖かくてスリムなマフラー 通勤、通学に首元を守ってくれる-【楽オク】
2015年12月19日
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留学生の生活費留学生の頃は、とにかくバイトをしなくてはならない。今みたいに家庭から仕送りできるような時代じゃなかった。飲食業、語学の先生、カラオケなどサービス業を中心としたバイトをいろいろとしました。学費と生活費を稼ぐためです。バイトの時給は大体700円。800円は嬉しい時給でした。国立大学に合格したことで、授業料は年間で20万円と非常に助かりました。アパート代は月に3万円、当時携帯なんかまた普及していなかった時代だから、7万円でNTTの電話回線を購入しました。食費を入れて月に10万円あれば、学生生活が送れる。バイト事情辛かったバイト居酒屋のホールでした。大学一年生の時のバイトでした。学生の紹介で始めたバイト先のことでした。日本語はあんまり話せなかったときの話。和食の文化は全く理解していないまま、お客さんの注文を聞きに行かされる。聞き取れない、意味が分からない、言われたことが通じないときもあった、もちろん間違いだらけです。分からないときは分からないと正直に言えず(客に怒られることが恥ずかしいから)、分かったふりで注文を受ける。そしてまた間違える、厨房からさんざん怒られる毎日でした。日本酒の名前がややこしくて、名前は覚えられないが、味は覚えられる。美味しいお酒がいくつかありました。そして、味噌汁の赤みそと白みそは味わったことがないので、みんな同じ味だと勘違いして、確認せずに注文を受ける。客に運んだ料理、鯛の荒炊きがおいしそうに見えて、いつか自分も贅沢の一品を食べてみたい。自慢のバイト大学2年になると、日本語の日常会話がだいぶ流暢になりました。外国語の習得は環境、時間、努力の三要素が必要ですね。市内にある五つ星のリゾートホテルの洋食レストランでウエートレスのバイトが自慢でした。手にリモコンを持ち、流暢な日本語で客のオーダーを取り、そしてパパパとリモコンに入力し、自分が入力した注文データーが厨房に瞬時に転送され、厨房の人が私の転送データによって、動く。これは非常に達成感がありましたね。早く日本語を覚えて、早く上達して、汚い洗い場のバイトとサヨウナラ!^^ 自分の運命は自分で変えるんだ!!トキメキのあるバイト大学4年生のとき、富士通に勤める若い男性の方に中国語を教えるバイトでした。場所は喫茶店で中国語でゆっくり会話の練習をすることです。彼は眼鏡をかけて、まじめで好青年でした。コンピューターエンジニアの仕事をしています。毎回私にコーヒーをごちそうしてくれて、決まった時間に必ずレッスンに来ました。発音が少しお苦手なときは私は丁寧に教えてあげました。素敵な二人の時間でした。そのうちに私は就職活動で忙しくなり、気づいたら、彼とのレッスンはいつの間にかなくなりました。💛トキメキ、ありがとう、富士通さん💛バイトでピアノが習える大学2年生の頃、私はピアノサークルに入りました。小さい時からピアノに憧れて、習う環境に恵まれず、楽譜も当然読めないです。でも、ピアノが大好きで、サークルに入り、先輩の学生から譜読みを習いました。そんな私は偶然バイト先の居酒屋でピアノの先生と出会い、その先生が女の先生で、中国語を勉強したいと言いました。そして、私はピアノの先生に中国語を毎週一回のレッスンで教え、今度ピアノの先生が私にピアノのレッスンをしてくださる。お互いのレッスン料は相殺させる。ありがたい出会いでした。^0^そこから、私は先生にピアノを習い始めて、大学サークルの発表会にも出ることが出来ました。バイトで出会ったチェロの奏者大学3年の時、中国語の生徒の中で、チェロの奏者と出会いました。彼は交響楽団のチェロの奏者ですが、中国語、韓国語が話せます。私に中国語を習うため、喫茶店で中国語で会話をして、上達を目指す。年に一度彼からコンサートの招待券をプレゼントしてくれて、見に行ったら、本当にステージの右側に座って、恰好よくチェロを演奏していました。素敵なコンサートの初体験で、コンサートのある暮らしを教えてくれました。人生って、出会いで刺激を受けるものですね。次回は、新卒就職で首になったことを書きます。どうぞ、ご期待ください。
2015年12月08日
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前回の予告を変更して、日本語能力試験1級合格体験記について書きたいと思います。前回の予告では、阪神大震災を書く予定でしたが、私は被災者でもないのに、リアルな話を書けないと思ったからです。日本語の覚え方2年間日本語学校に通い、毎日必死に寮で日本語を勉強していました。勉強方法はテキストを読む、語彙を書く、接続言葉の例文を読む、理解する、カセットテープで聞き取りトレーニング、記事のテキストの丸暗記、暗記したら、バイトの暇を見つけて洗い場のおばさんに復唱し、聞いてもらって、発音を直してもらう...毎日この繰り返しでした。そして毎日長時間洗い場で汚いバイトをして、こんな生活が2年間続きました。19歳の私は土日はすべて洗い場で過ごしました。もちろん遊びに行きたかったですよ、特にお天気のいい日には洗い場に閉じ込められて働くことは辛かったでした。だって、19歳で一番遊びに行きたい年頃でした。でも、旅館の寮に住み込みして、土日フル出勤は暗黙の約束みたいな雰囲気でした。国にいる両親には辛いことを一度もこぼしていません。辛いことを電話で話したら、両親はもっと辛い思いをすると思うからです。きっと、私を日本へ出したことに後悔するでしょう。そんな心配をかけたくなかった。国立大学の進学日本に来て2年目の12月に、文部省主催の日本語能力検定試験に1級を合格しました。日本の大学に進学するために、本屋さんで高校算数、歴史の本を購入して、独学も同時進行しました。そして、翌年の3月に国立大学の留学生統一試験を受けて、見事に合格しました。これで、授業料の安い国立大学に進学することができて、経済的にかなりの負担が軽減されて、うれしかったです。努力すれば、必ず報うと自信がつきました。しかし、現実は厳しいです。自分で自分を養う上に、学費も自分で稼げないといけないという現実から、常にバイトが頭から離れられなかった。次回はバイトの裏話をします。どうぞ、ご期待ください。【楽天ブックスならいつでも送料無料】これで合格!中国語検定準4級・4級完全マスター [ 林怡州 ]価格:2,052円(税込、送料込)
2015年12月08日
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連日、翻訳の仕事を請け負って、やっと期日までに納品することができました。🎶ブログの更新が気になって、やっとパソコンに向かうことができました。● 初めてのバイト初めてのバイトは旅館の洗い場の仕事と客室の布団敷でした。日本語学校経由で保証人を紹介してくれて、(当時の法律では、留学生に保証人がつくことが法律で義務付けられていました。)その保証人が旅館のバイトと紹介してくれました。旅館に住み込みして、六畳の一部屋を与えてくれました。洗い場の仕事は汚かった。宴会や客室から下げてきた残飯を捨てて、大量の食器を水槽の中に流れ、洗剤をたっぷりつけた水槽の中で何時間も手洗いするのです。しかも、手袋禁止。私は日本に来る前は母に家の手伝いをよくするほうでしたが、こんなに大量な食器洗いはもちろん初めてです。一番つらいのは、毎晩洗い場の仕事を終えて、掃除するときのごみ捨てです。ごみは生ごみ、つまり、残飯の集まりでしかも重たい、いつも二人で外の決まった場所へバケツごとに捨てに行った。それと、洗い場のプラスチックマットを水洗いするときの臭いもきつかったです。私は日本に来て、こんなことをしに来たのか?時給は600円で?!いいえ、こんなはずじゃなかった!!!私の夢は「東京ラブストーリー」のような環境で仕事をしたいです。でも、留学生の私には無理なことです。だって、日本語はまたろくに話せないし、意思表明さえできない自分はきれいな仕事をする能力はないと分かっています。それは、自分は文盲だからです。中国にいたとき、農村から来た出稼ぎ労働者に対して、優越感を思ったことがありましたが、日本に来て、私は出稼ぎ労働者以下です。出稼ぎ労働者は読む書く聞くことは健全にできるが、私は異国に来て、言葉が通じないから文盲と同じです。だから、人間は知識がないと、いい仕事がない、人の言いなりに生きていくしかないと痛感した。早く日本語を覚えて、汚くない仕事に変えたいと思いました。マックスファクター SK-II SK2 フェイシャルトリートメントエッセンス 215mL SK…価格:13,273円(税込、送料込)● その時の私の一日*朝7時起床、旅館の社員食堂でご飯味噌汁を食べて、快速電車で日本語学校へ行く。*午後1時に下校し、快速電車で旅館の寮に戻る、昼食は社員食堂で頂く。*午後2時から4時30分まで自分の部屋で日本語の勉強。単語の暗記、テキストの朗読、文法の理解など。*夕方5時から2時間ほど旅館客室のお布団を敷きに行く。10人ぐらいで一斉に敷く。終わり次第、夜の11時半頃まで、ずっと洗い場で食器を洗う。土日祭日は旅館の呼び出しで午後2時から夜中12時までのロング出勤。*夜12時から旅館の温泉に入って、一日が終わる。19歳、若かったから、疲れることなく、毎日テキパキ仕事をして、旅館の常務さんから時々励ましの言葉もありました。3か月後に時給630円と30円昇給、また3か月後に680円と、来たときより80円昇給。そのとき、毎日の楽しみは、学校帰り道に100shopで103円のチョコレートを買って、帰り道で食べることです。平成5年、消費税は3%の時代でした。平成27年現在、消費税8%、うち国税6.3%、地方税1.7%、合わせて8%。私は日本に来てもう22年も経ちました。このブログを書いているうちに、来た当初のことをいろいろ思い出して、波乱万丈とまでは言わないが、一生懸命生きてきたと言えます。● 初めての日本語学校日本語学校は市内の3階建てのビルにありました。1階は事務室で、登校初日に、経理の担当から話を聞かされた、話の意味は全部は通じなかったが、恐らく前期の授業料は両親から前払して納付済みだが、後期の授業料は自分でバイトをして、期日通りに収めてねとの話でした。たぶん!それと、入管は出席率に厳しいので、出席率が足りないと、ビザは更新はできないよと初日で注意話を聞かされました。私のクラスには、中国からの留学生が20人ぐらい、ほかにはアメリカ人1人、ネパール人2人、韓国人3人、ロシア人1人という構成でした。先生たちは友好的でしたが、事務室にいる授業料徴収の方は、あまりいい印象はありませんでした。お金お金ばかりな感じです。別に私は滞納したことは一回もないのに、期日到来する前から催促の話がよくありました。ちなみに一か月の授業料はなんと5万円でした。それでも、洗い場のバイトをして、頑張って自分で納めました。今考えたら、平成初期の頃、日本語学校は非常に効率のいいビジネスでした。アジア発展途上国からの若者が日本への憧れを抱え、日本へ留学する需要がたくさんあったからです。5万円は低所得層にとっては、当然取り過ぎだと思います。それでも払ってても、留学に来たい人がたくさんいました。バブルの日本は輝く宝石の時代でした。さて、次回は阪神大震災の話をしたいと思います。ご期待ください。マックスファクター SK-II SK2 フェイシャルトリートメントエッセンス 215mL SK…価格:13,273円(税込、送料込)
2015年12月01日
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初めて日本に来た日は5月6日でした。父は私を上海の空港まで見送り、父はビザがないため、せいぜい空港の出国口までしか見送ることができません。父は首を長くして、私が出国手続きを済ませることをずっと見守っていました。きっと、心配で心配でどうしようもない切ない気持ちだと思います。今考えてみると、父の勇気に敬服します。19歳の娘を知らない国へ送る出す勇気は普通の親はなかなかいないですよ。私は自分の子供にはそんなことはできません。する勇気もないです。出発の日には、運よく前々回のブログで言った西安で留学の仲介を行う日本人が、たまたま五月に一時帰国することになり、父は私と同行するよう、その日本人の先生に頼んだら、快く承諾してくれた。ということで、その日本人の先生と同じ飛行機に乗り、日本に来ました。来日の日は小雨が降っていた。空港を出て、町は雨水に濡れて、きれいな印象がありました。一方、来る前は中国で当時大人気な「東京ラブストーリー」の中国語吹き替えドラマを見たから、日本についての印象はみんなドラマの中の東京の様子と思っていましたが、実際空港を出て、車から見た街並みは屋根が低く、店が小さく、どんな店か分からないが、みんなサイズが小さくてしかも道路も狭い、住宅街に入ったらもっと狭い。中国と比べると町に歩く人は非常に少なくて、寂しい印象がありました。これが日本の第一印象でした。つまり、きれい、静か、建物のサイズが小さい。たまたま通った道の光景でしたが、ドラマの中の日本とは全然違いました。日本人の先生の息子さんが自分の車で私と先生を迎えに来てくれた。背広にネクタイをして、きちんとした方でしたが、どこか冷たいイメージがありました。私とは口を交わさず、黙って運転しました。たぶん、私が日本語がどうぜ言っても分からないと思っているでしょうね。私は来日の一年前から、留学の準備として、西安の留学予備校で日本語を習いました。その予備校というものは、ビルの2階に教室が二つあって、3階は先生たちのプライベートの部屋になっています。先ほど言った日本人の男性の先生(70代)が日本語教師を担当しながら、留学の仲介を行う。もう一人雇いの女性の先生がいて、長野県から来た先生です。噂によると、女性の先生は授業以外はほとんど部屋で寝ているそうです。私も一回目撃したことがありました。そして先生たちの食事は専任の調理師を雇って、毎日三食を作りました。その予備校で、私はひらがな、カタカナ、そして簡単な会話を習いました。例えば、「これはなんですか?」「これは鉛筆です」「あの建物はなんですか?」「あの建物は図書館です」「お名前は何ですか」「私は田中と言います」など、ごくごく簡単な会話でしたが、私は毎日予備校から帰ってきたら、大きな声を出して、日本語を朗読することが日課でした。声を出して読むことが好きでした。朗読は声で口も耳も目も同時にインプットできるから、上達は早いですよ。幸い日本人の先生から習って、ネイティブ日本語を毎日ヒアリングできました。毎回のテストはクラスで上位2以内の良い成績を維持しました。クラスの生徒は20名ほどいました。一年間のレッスン料は2000元、当時の為替でおよそ2万5千円。当時ではかなり高額なレッスン料でした。使用テキストは「標準日本語」という。こうやって、日本奮闘記は本番にスタートしました。次回は初めての日本語学校とアルバイト先のことを書きたいと思います。どうぞ、ご期待ください。本場中国上海蟹の名産、太湖産の上海蟹です!【上海蟹オス大1匹】(190g前後)完全に解凍し、常…価格:3,000円(税込、送料別)
2015年11月28日
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1993年5月、いよいよ日本へ飛び立つ日がやってきました。高校の仲のいい友達の家に行って、お別れをしてきました。日本に行ったら、必ず手紙しようねって。当時の通信手段は手紙だけです。中国の一般家庭はまた電話は普及していません。もちろんFAXもありません。出発の日です。スケジュールは、まず、父と一緒に上海行きの汽車(日本の寝台列車に相当する)に乗り、一旦上海に行って、上海から日本行の飛行機で日本に行く。5月3日、私と父を見送るため、母は西安駅の汽車のホームまで入ることが出来ました。母はずっと泣いて、声が震えるため、言葉が少なかった。私は父と汽車に乗り、座席を確認して発車まで車窓の外にいる母と別れ話をしました。いよいよ、列車が発車して動き始めたが、車窓の外に立つ母は列車と一緒に走りだした、車輪がだんだん加速し、母は列車のすぐ横に走りながら私たちに手を振って泣きました、母はずっとホームから列車を追っていました。母は走りながら、私の名前を呼んでいました。とうとう母の姿が見えなくなって、私はその時初めて母との別れを痛感して、泣き出した。寂しさが一気に私を襲った。そばにいる父は「もう留学に行くんだ、また戻ってきたらお母さんと会える」など、慰めてくれました。列車の中で一晩過ごし、次の日上海に到着した。父の務めていた大学の姉妹校の方が私たちを駅まで迎えに来てくれました。その方は、大学の乗用車を運転してきて、父と私を上海姉妹校の来賓用旅館まで手配してくれました。車の中で、その方は父と株の雑談をしました。当時株の売買取引はまた一部の人しかできない、儲かる人は早く儲かった、株のノウハウも早く身に付く。旅館に着いて、荷物を部屋に預け、父の姉妹校の同僚たちは私たちのために学校の食堂内で宴会を開いてくれました。私が日本に行くことを知り、大人みんなが乾杯してくれて、日本で元気に勉強するよう祝福してくれました。宴会のムードで私を母との別れの悲しい気持ちから少し解放しました。この日の母の姿は永遠に忘れません。過去の記憶はどんなに薄れても、母が列車を追う姿はいつまでも鮮明に覚えています。これって、運命ですよ。きっと前世は私は日本と何らかの縁があって、生まれ変わって日本に来たような気がします。次回は、初めて日本に上陸した思い出を書きたいと思います。私はこのブログを書いているうちに、NHKの朝の連続ドラマのような気分になりました。毎回続きで違う物語が登場し、次回の予告を出して、次回投稿のモチベーションとなります。読んでいて、面白いと思ったら、コメントを書いていただけると、もっとモチベーションが出ます。どうぞ、ご期待ください。
2015年11月27日
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平成5年、私は留学生として、日本に来ました。なぜ、日本を選んだか?当時1993年頃の中国では、海外留学の仲介をするところが少なく、留学に行くためには、専門のルートを探すのがなかなか大変でした。父の勤め先の部下の親戚が西安師範大学の外国交流窓口の責任者だった。彼を通して、西安で留学生の募集をしていたある日本人を紹介してもらい、父がその日本人に日本へ留学するときの諸手続きの申請方法を尋ねた。まずは、西安にある日本人の仲介を通して、日本にある日本語学校に入学の申し込みをする。↓しばらくして、学校から入学許可書を郵送してくる、その許可書と必要な添付書類を持って、10時間以上の汽車に乗り、北京にある日本大使館に自ら提出しに行く。↓1週間から10日ほど待ち、日本大使館へ再び出向い、「在留資格認定証明書」つまりビザの許可が出たかどうかの通知書を取りに行く。結果が出るまでは一緒に手続きに行った友達の親戚のおばさんのお家に泊まり、結果を待つ。仮にビザが下りなかったら、留学に行けないということです。↓運よくビザが無事に降りたら、今度は初めてパスポートを地元の行政から発行してもらう。パスポートの発行には、審査が必要でした。過去には不良行為がなかったこと、且つ健康であること、義務教育を修了すること、三か月以内の写真と健康診断書の添付などなど。↓パスポートの発行は一定の日数を要する。しばらく待つと、初めてパスポートが発行され、なくさないように、飛行機に乗るまでは両親は私に持たせませんでした。↓次はいよいよ荷物の準備、航空券の予約、そして、一番しんどいのは、私が一人で日本に行く場合は、いったいお金をいくらを持たせたらいいか、両親はずいぶん悩んだ。日本の物価は知らないし、情報もない、物価が高いことだけは聞いたことがあるぐらいでした。↓結局、父は私に7万円を持たせて、出発させました。私の留学のために、入学費用など、両親は長年の貯金をほぼ全部出した。今考えると、父はきっと悩んで悩んで勝負の決断をしたと思います。だって、日本に行って、将来がどうなるか分からないし、貯金も全部崩す、当時は両親が不安がいっぱいあったはず。1993年、7万円は父の精一杯の金額だったと思います。母にとっては残酷な別れです。出発に行くまでの日々は、父は大学の教授たちの家を訪ね、日本に行ったことのある教授たちに会いに行って、日本の情報収集をしていました。主に治安、物価、大学の制度などの情報を聞きに行った。1993年、父は47歳、母は45歳、私は19歳、家族で暮らした日々は、留学に伴い、ストップされました。家族との別れは早すぎた。次回は、日本上陸の思い出を書きたいと思います。
2015年11月26日
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私は中学校、高校時代は地味な学生でした。特に目立った存在ではなく、素朴な女の子でした。成績は国語が一番得意で、数学理科の成績はさんざんでした。むしろ、理科の勉強は大嫌いでどうしようもなかった。しかし、言葉に関するものはいつも楽しく身についた記憶があります。例えば、当時流行の山口百恵さんと三浦友和さん共演の赤いシリーズの中国語吹き替え版をテレビの放送を見て、中のセリフに夢中ですぐに覚えちゃって、次の日学校での中休みの時に、クラスの百恵ファンたちに私が声優をしてドラマのセリフを話した。一応みんなを魅了した。 話がはずれましたが、で、私はなぜ日本へ来たかというと、これはお父さんに起因があります。当時、父は西安市内の大学に勤務していました。教授ではなく、大学学生課の職員としてです。しかし、大学の教授たちはしょっちゅう外国に行くチャンスを与えられ、名目は学識の交流でした。外国から戻ってきた教授たちは父に先進国アメリカやドイツや日本の情報を話してくれた。そんな父は私に脱西安で先進国で教育を受けさせることを考えていた。 当時は今見たいに情報溢れの社会ではなく、日本についての印象は新聞、限りあるドラマ、雑誌の表紙ぐらいでした。私は日本についての印象はぼんやりでした。 父から日本へ留学の話を聞いた私は新しい世界へ飛び込むワクワクの好奇心が湧いた、異国で一人暮らしの厳しさも想像しましたが、実際経験したこともないことを想像してもその厳しさはまたまた実感できません。いいことばかり想像していました。 例えば留学生として、日本の大学で日本人の学生と同じ教室で勉強したり、異国の町を歩いたり、日本でバイトをしてかわいい洋服を買ったり、2,3年後帰国したら、ペラペラな日本語を話して、友達が羨ましかったりして、留学についてはいいことばかり想像していました。 ということで、私は父親の勧めで、高校卒業後日本に留学に来ました。今振り返ってみると、お父さんはよ~く娘を異国に送り出した決心をしたなぁを思います。私は飛び立ったあと、西安にいる父と母にはどんなに心配をかけたか、いつも考えるだけで涙が出ます。いつか父と母は要介護になったら、私が介護に行く覚悟です。今まで寂しい思いをさせてきた娘に頼ってほしい。 次回はなぜ、留学先は日本を選んだかを話したいと思います。
2015年11月25日
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