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この時、トゥパク・アマルがしたためたのは、モスコーソ司祭の破門宣告の妥当性を暗に否定し、己の行動や政策の真意を改めて説明した各教区宛ての回状であった。事実、歴史上の資料によれば、彼は、モスコーソ司祭の破門宣告を受けてまもなく、己の統治下に入った区域内の神父たちに堂々たる回状を送っている。そして、己の行動や政策は、決して教会や僧職に逆らうものではない旨を厳かに誓言した。トゥパク・アマルの発した回状の内容は、概ね次のごとくであった。『聖なる洗礼を受けたキリスト者として申し上げますならば、カトリックの深い信仰をもつ教会の子は、崇拝する神の殿堂を汚すことなど、決してできはいたしませぬ。わたしの意図は、キリスト教への信仰、僧院の平和が乱されることではございませぬ。この後も、僧院の聖なる処女童貞の純潔は決して汚れることなく、神父様たちは、わたしの部下から少しも害を蒙ることはありませぬ。わたしの意図は、単に強制配給(レパルト)、強制労働(ミタ)、その他すべての人民を脅かす悪税などの言語道断な習慣や悪政を破棄することにあることを保証いたします。どうかわたしの行動を見て、これらの誓言が決して方便ではなきことをご判断願いたく、深く願い奉ります。』キリストの本質を深く理解する神父たちの中には、そして、多くの敬虔な信者たちの中には、トゥパク・アマルのこの宣言と、そして彼の実際の行動の中に、真のキリスト者としての姿を見て取った者が少なからずあったはずである。しかしながら、一方で、トゥパク・アマルの宣言を打ち崩すがごとくに、この国最高の司祭モスコーソは、執拗に彼をキリスト教への反逆者として激しく非難し、「破門」を叫び続けた。この頃、モスコーソ司祭がペルー副王領の副王ハウレギに書き送った書状の中でも、「トゥパク・アマルはカトリック王カルロス三世(註:本国スペインの国王)に盾突いているのでありますから、まさしくカトリック教に害を与える大いなる反逆者なのであります」と力を込めて罵(ののし)っている。確かに、反乱行為なるものは、当時のスペインにおけるカトリックの頂点に立つカルロス王への反逆であり、それはイコール神への反逆でもあるという、このモスコーソの理論もまた、皮肉なことではあるが、理屈上は一理あるものではあった。かくして、トゥパク・アマルらインカ軍を覆う暗雲は、この後、まもなく首府リマに反乱の情報が伝わることにより、いっそう重く暗澹と垂れ込めていくことになるのである。 ◆◇◆ お知らせ ◆◇◆本日もお読みくださり、誠にありがとうございます。今回にて、「第五話 サンガララの戦」は終了となります。明日から、「第六話 牙城クスコ」に入って参ります。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.08.05
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一方、その頃、かのトゥパク・アマルは南部地域を転戦し、兵力の増強を図っていた。彼はその日の戦闘を終えた野営場に戻ると、義勇兵たちの様子を見渡せる丘の上に立ち、静かな視線を眼下に注いでいた。暮れなずむ夏の夕空に溶け込むように、長い漆黒の髪が舞っている。今、彼の手の中には、あのモスコーソが国中にばらまいた破門宣告の布告状があった。既に義勇兵たちの間にも、トゥパク・アマルらインカ軍幹部がキリスト教から破門されたという噂が広がっていることであろう。トゥパク・アマルの精悍な横顔で、その瞳が鋭く光る。彼は、ついに最大の一手を打ってきたモスコーソの所業を苦々しく、しかし、確かに、それがインカ側に与えるであろう破壊的な打撃を完全に見切っていた。これまで、さんざんなモスコーソの脅しにも関らず、「インカ皇帝」の復活に深く感動し、敬愛の念と共に自らの復権意識に目覚めたインカ族の多くの者たちは、トゥパク・アマルに変わらぬ忠誠を誓い、しかも、この期に至っても、遥か遠方からさえ続々とインカ軍への参戦に勇んで馳せ参じていた。しかしながら、ついに己がキリスト教から「破門」までされるに至った今、インカ族の者たちはともかく、当地生まれのスペイン人たちが、いかに動揺するかは想像に余りある。心の奥底では、まだ密かに本来のインカの神々を信仰しているインカ族の者たちに比して、敬虔なキリスト教徒である場合の多い当地生まれのスペイン人たちは、「破門」という響きに酷く恐れをなすことは必定だった。実際、スペイン本国から渡ってきたスペイン人たちからどれほど虐げられていようとも、当地生まれのスペイン人たちは、「スペイン人」には変わりなく、しかし、インカ族のためのみならず彼らをも解放しようと奮戦するトゥパク・アマルへの敬愛もあり、その両方の思いから深い葛藤状態に陥っていた。そのような彼らの絶対的な精神的支柱であるキリスト教から、インカ側に加担することで己までもが破門されるという非常な恐れは、いかに心の内ではトゥパク・アマルの意向に賛同していようとも、表立った協力的な行動をとることを彼らに躊躇させるはずだ。彼らの置かれた複雑な立場と深い葛藤を理解しているトゥパク・アマルには、それもやむをえぬとの認識があった。(しかし…――!)彼は手の中にある、己の破門を謳いあげた書状を握り締めた。(こうなることは、もともと予測の範囲。だが、人種を超え、一丸となって心を一つにし、強大な敵にも恐れず立ち向かうという、その形が崩れることは、決して看過できぬこと…!このまま、モスコーソ殿の思うがままにさせておくわけにはいかぬ!!)トゥパク・アマルはそのまま踵を返して足早に天幕へ戻ると、決然とした眼差しでペンを走らせはじめた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.08.04
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トゥパク・アマルらの「破門」を唾を飛ばしながら狂ったように叫び続けるモスコーソを、委員会のメンバーたちは完全に気圧された眼で見上げながら、しかし、「もっともなことでございます。モスコーソ司祭様!」と、口々に同意した。しかしながら、真実は、教会を血で汚したのは、決してトゥパク・アマルではなかったはずだ。サンガララの合戦冒頭で、教会の出口で小競り合いを引き起こし、死傷者を出したのは、スペイン側の歩兵が逃げ込んだこと、及び、隊長ランダが叱責したことが引き金であり、原因である。トゥパク・アマルは、むしろ教会を血で汚すことを避けるために、細心の注意を払っていた。だが、トゥパク・アマルら一味を一掃することに憑かれたモスコーソにとって、真実がいかなるものであるかなど、そのようなことはもはや重要ではなかった。トゥパク・アマル、及び、インカ軍をいかに追い詰め、破綻に至らしめるか、その目的のための行動が、今やいかなる真実よりも優先された。モスコーソは「司祭」というその絶大な権限を振るい、トゥパク・アマルとその一党をキリスト教から破門する旨を、国中の信者たちに向けて厳かに謳いあげた。「ティンタ郡のカシーケ(領主)、トゥパク・アマルは、スペイン王陛下に謀反をいたし、王の権利を剥奪し、泰平を乱したかどによって、これをキリスト教から破門することを天下に通告する!!トゥパク・アマルを援助し、同情し、付き従った者が、本布告が出された後、あの者となお連絡を保ち、援助をするならば、同様に破門に付す!!破門を許す権利は、余のみが保有する!!」モスコーソはその旨を書き記した貼り紙を国中の教会に掲げるよう命を発した後、まだ姿の見えぬトゥパク・アマルをあの舐めるような、しかし、今や炯々と血走った眼で見据えるようにしながら、不気味に笑った。さすがのトゥパク・アマルも今回こそは決定的な打撃を受けるに相違ないと、この国の民衆心理を読み抜いているモスコーソは確信していた。「破門」…――実際、その言葉のもつ不吉な響きは、現代の我々には到底、想像の及ばぬほどの強烈なものであったのだ。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.08.03
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一方、この頃、敵方であるスペイン側の情勢はいかなる様相を呈していたであろうか。トゥパク・アマルの釈放した捕虜たちの帰還によって、あの猛将ランダ率いる精鋭の討伐隊さえもサンガララにて壊滅したことを知ったクスコでは、戦時委員会の面々が蒼白の極みに達したのは言うまでもない。しかも、帰還したスペイン兵たちは、「インカ軍を決して侮ってはなりませぬ!!」と、口々に報告した。インカ軍討伐に猛り狂うモスコーソ司祭などは、サンガララの敗戦を聞くに堪えず、ついにはその場で眩暈を起こして失神するほどの有様であった。かくして再び意識を取り戻したモスコーソの眼は、もはやこの世のものとは思えぬほどに爛々と奇態な光を放ち、ひどく歪んだその形相は不気味な笑みさえ湛えている。「サンガララの地にて、あのトゥパク・アマルは、ついに…、ついに教会を血をもって汚しおったのじゃ!!」叫ぶようにそう言うと、僧衣の袖をバサバサと激しく振り回し、集まっていた戦時委員会の面々を狂気の眼で見渡した。委員会のメンバーたちは、皆、恐れ慄いて、思わず椅子を後方にひいた。モスコーソは雷(いかずち)を振り下ろすがごとくの勢いで、その拳をテーブルめがけて叩きつけた。彼の胸元の巨大な十字架が、激しく左右に揺れる。「トゥパク・アマルとその一党をキリスト教から破門するのじゃ!!破門じゃ!!破門するのじゃ!!」 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.08.02
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アンドレスは混乱の極みに達したままに、しかし、その混乱の糸を解こうと、フランシスコの方に身を乗り出して必死に声を絞り出す。「フランシスコ殿…待ってください…。え…?戦場で、あなたは…。あ、今、何と…。」しかし、混乱した頭では、どこから何を聞いていいのかさえわからない。一方、フランシスコは不意に真顔になる。「トゥパク・アマル様に、このことを話すか?アンドレス。」「…!」グッと言葉を呑み込んだまま硬直しているアンドレスを見上げるフランスコの表情は、今、完全に笑みをひそめ、みるみる固く強張っていく。「このようなことをトゥパク・アマル様や他の側近たちに知られたら、わたしの立場も信用も完全になくなる。アンドレス…そなたを見込んで打ち明けたのだ。わかるね…これは、そなたとわたしだけの秘密だ。」「しかし…これからも戦(いくさ)は続くのですよ…。お一人で抱えられるよりも、本当のことを打ち明け、フランシスコ殿のお心の負担が少なくなるよう、トゥパク・アマル様とも相談をされる方がよいのでは…。」混乱から抜けきれぬままの表情で、しかし、アンドレスは精一杯の穏やかな声で諭すように語りかける。しかし、フランシスコは、「だめだ!!絶対に、話さないでくれ。」と鋭く制すると、懇願するような目の色に変わり、「後生だ、アンドレス…。これ以上、生き恥を晒せようか…わたしの気持ちをわかっておくれ。」とすがるように言う。「フランシスコ殿…。」「頼む…アンドレス…。」「…。」ついにアンドレスは、観念したように頷いた。「わかりました…。俺の胸の内にしまいましょう。」フランシスコは大きく息をつくと、深い安堵の表情になった。それから、再び、声をたてずに意味ありげに笑う。「そなたは、本当に、いい子だね…、アンドレス。」息を詰めて身を固めるアンドレスの方に、フランシスコが、その痩せた片腕をゆっくり伸ばす。そして、不意に、その細く長い指でアンドレスの頬を包み、それから、まるで愛撫するようにその手を動かすと、そのまま指でアンドレスの唇に触れた。「…!!」「トゥパク・アマル様の寵愛を受けている秘密兵器が、そなたなのだよ、アンドレス。だが、まだ、あまりに若い…いや、青い、というべきか。」アンドレスは、はじかれたように後方に飛び退った。そして、もはや完全に言葉を失ったまま目を白黒させ、殆ど無意識的に一礼すると、逃れるようにその場を離れた。走るようにして、その天幕を出る。(何だったんだ、今のは…――?!)彼は、あまりに酷い悪夢を見た後のような激しい不穏な念に憑かれ、自分の天幕に急ぎ足で引き返した。「ああ…、今日は、いろいろなことがありすぎた…!!」そして、完全に混乱した額を激しく押さえこんだまま、己の天幕の中に、まるで目に見えぬ何者かから逃れ去るように駆け込んだ。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.08.01
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愕然としているアンドレスに視線を注ぎ続けたまま、まるで囁きかけるようにフランシスコが続ける。「今日、あの戦場で、わたしは、自分が生き残るのに必死だった。そなたが苦悩するようなことは…敵を切るなど、そんな余裕はわたしには無かった。…わたしは、ただひたすら逃げ続けたのだよ。あの酷い戦闘のどさくさに、味方の中に身を潜ませ、敵の刃を逃れて、必死に…。そう…味方さえ、盾にしたさ。そうでもしなければ、わたしは今頃、死んでいた。そして、やっとのことで生き延びた。…本当に怖かったのだ。怖くて、怖くて…その挙句が、このざまだ。」天幕の中に点る蝋燭の灯りに浮き上がるフランシスコの横顔は、今や不気味に歪み、苦悶そのものだった。滲んだ額の無数の油汗が、その粒の一つ一つにまで蝋燭の炎を映し出す。そして、再び、苦々しく自嘲した後、アンドレスを見つめ、ふっと微笑んだ。「アンドレス、そなたは勇敢で、心根も、姿も、美しい。トゥパク・アマル様の覚えもめでたい。実に、羨ましいよ。」「…!!」瞬間、アンドレスは反射的に身を固めた。一方、フランシスコは、完全に表情を失っているアンドレスを斜めに見上げ、再び声をたてずに笑う。今、呆然と見開かれたアンドレスの瞳の中で、フランシスコのその微笑みは何かひどく不可解な色を放って見えた。喉元に何かがつまったようにアンドレスは息苦しさを覚え、やっとのことでゴクリと唾を呑む。辺りの空気が、まるで水底のように冷え冷えと感じられた。己の目と耳を疑うように、アンドレスは瞬きをして、頭を振る。そして、再び、息を殺してフランシスコを見た。しかし、フランシスコの眼差しは、これまで彼が知っているフランシスコとは明らかに異なる、底知れぬ異様な、何か背筋を凍らすような色味を発した微笑みを相変わらず湛えたまま、じっとアンドレスを見つめている。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.31
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「キスピカンチ郡の代官カブレラを追跡した時も、結局、わたしは捕えることができなかった。その挙句、あの代官がクスコに逃げ込んだがために、クスコに反乱のことが知られてしまったのだ。あれほど、トゥパク・アマル様やミカエラ様が、情報の漏れぬように細心の注意を払っていらしたというのに…。」そう言って、フランシスコは深い溜息を漏らした。寝台に横たわるフランシスコのその横顔は、ひどい苦々しさを湛え、皮相に歪んでいく。(フランシスコ殿…お一人で、そんな思いを抱えていらしたなんて…!!)アンドレスはいたたまれぬ思いに激しく貫かれ、思わず身を乗り出した。「あれは、フランシスコ殿のせいではありません!追いかけても間に合わぬほどに、カブレラは早々に逃走していたのです。トゥパク・アマル様とて、決して、フランシスコ殿を悪くなど思ってはおりません。」アンドレスの眼差しは真剣で、全くの本心からの言葉であることがわかる。フランシスコは静かに微笑み、しかし、すぐに苦しげな眼差しに戻って言う。「トゥパク・アマル様は、表面にお気持ちは表さぬお方だ。ご本心では、何を考えているかなぞ、わかるまい。それに、他の側近の者たちがどう思っていることか…。皆、口には出さぬだけで、きっと心の中では、わたしを責め、苛立っているに違いあるまい。」「フランシスコ殿…!!」アンドレスは言葉に詰まった。他の側近の者とて、あなたを責めるような気持ちなど決してもってはおりません、と言いたかった。しかし、フランシスコのひどく思いつめた、そして、既に壁で隔てられたような目の色に、今、安易な言葉がけは、かえってこの心に傷を負った人物の内面を閉ざさせてしまうように思われた。暫し、重苦しい沈黙が流れた後、地を這うような低い声でフランシスコが言う。「アンドレス、そなたは、インカ族ばかりの側近の中では、唯一、わたしと同じ混血児…。わたしと同様に、半分は、あの憎きスペイン人の血が混ざっている…そなたなら、わたしの気持ちも少しはわかるであろう。我々は、所詮、半端者なのだ。最終的には、インカの民にも、スペイン人にも、なりきれぬ。どっちに転ぼうとも、周囲の者たちとて、結局は、我々を本当には受けいれまいよ。」そう言って、フランシスコはじっとアンドレスを見つめて、また続ける。「一体何のために、戦うのか…こんな思いをしてまで…。」「そんな…フランシスコ殿…。待ってください。何を仰っているのか…。」己は完全にインカの人間だと信じてきたアンドレスにとって、フランシスコの言葉は、ひどい混乱を抱かせた。しかも、フランシスコの、そのあまりに苦しげな目には、何かに憑かれたような、不安定な色が揺れている。アンドレスはやや身を硬めながら、その目の色に圧(お)されるように微かに後退った。一方、ひるみはじめたアンドレスの様子を見抜くように、フランシスコは僅かに笑う。「アンドレス、聞いてくれるか。」「いえ…ちょっと待ってください。」混乱しはじめたアンドレスが、己の指で額を押さえているのを認めると、フランシスコは、さらに意味ありげに声をたてずに笑う。そして、アンドレスの制するのも構わず、むしろ、その混乱を煽るように、低い声で諭すように話しはじめた。「アンドレス、聞いてくれ。わたしは、キスピカンチ郡の代官を逃してしまった汚名を注ぎたくて、今回のサンガララでは力を奮いたかった。だが、実際には、あの恐ろしい戦場でわたしは身がすくんでしまったのだよ。わたしは、あの戦場で逃げ続けた。ふふ…そんなことは、トゥパク・アマル様には言えないが…。」そう言って、フランシスコは皮相に鼻で自嘲する。アンドレスは、額を押さえている指の間から、驚愕の目でフランシスコを見据えた。「え…?な、何を…言い出すのです。」 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.30
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それからどれくらい時間が経っただろうか。アンドレスはゆっくり身を起こし、先ほど放り出したサーベルを苦々しい気分で拾い上げた。そして、心の中で己に毒づいた。自分の為した所業をサーベルのせいにするなどと、何と愚かなこと。すべては己の意志で行ったことだというのに。そう、すべての責任は、自分自身にあるのだ。アンドレスはやや引きつった表情のまま、天幕の方に戻っていった。彼は自分の天幕に戻る前に、フランシスコの天幕に立ち寄った。原因不明の高熱と呼吸困難に苦しんでいるその様子が、とても案じられた。先刻、フランシスコの病状を尋ねたアンドレスに叔父のディエゴは、「精神的なショック状態らしい。」と、怪訝(けげん)そうな表情で応えていた。あの勇猛果敢な猛将ディエゴには、激しい戦闘場面の体験によって精神的に参ってしまうなどとは、全く想像すらつかぬ別世界に違いなかった。しかし、アンドレスは、たまたま己の場合は身体症状には表れていないだけで、その精神的な衝撃は同様であり、フランシスコの心境がとても良くわかる気がした。アンドレスが訪れると、フランシスコは、天幕の周囲をトゥパク・アマルの精兵たちに護られながら、一人、天幕奥で身を横たえていた。まだ大量の油汗を滲ませ、呼吸も不規則ではあったが、意識は戻っているようだ。アンドレスがそっと近づくと、フランシスコもそちらに顔を向けた。ひょろりとして普段から神経質そうでさえある繊細なその面持ちが、今宵はいつにも増して弱々しく悲痛に見える。アンドレスはそんなフランシスコの表情にいっそうの悲愴感を覚えながら、深く頭を下げて礼を払った。フランシスコも力無く、瞳で頷き返す。「フランシスコ殿、お加減はいかがですか?」アンドレスが、慎重に尋ねる。「アンドレス…、このような見苦しいところを見せて、情けなく思うよ。」そう言ってフランシスコは皮相な笑みを微かに浮かべ、「戦闘のショックによるものだなどと…。」と、苦しげに言う。フランシスコの寝台の傍らに跪きながら、アンドレスは首を横に振った。「いいえ、俺とて、同じ思いなのです。むしろ、フランシスコ殿のようにお苦しみになるのは、人として自然な感情であると思います。あれだけの壮絶な戦闘だったのです。まるで…、まるで相手を、襲ってくる化け物か何かのように、切っては捨て、切っては捨て…!人の命をそんなふうに…いくら敵だからって…!あんな酷い所業を為しておいて、何も感じない方がどうかしているってもんです!!」フランシスコを励ましているつもりが、次第に己の方が興奮しはじめ、その声さえ震えてきたのを感じて、アンドレスはハッと口をつぐんだ。フランシスコは、無言で、そんな彼に視線を注いでいる。いきなり本音を吐露してしまった決まり悪さから、アンドレスは思わず視線をそらした。無意識にサーベルの鞘を握り締める。今は魂の抜けたようなそのサーベルは、ただ冷たく、固い感触だけを彼の指に返してくる。フランシスコはそんなアンドレスの様子に静かに目を細め、そっと微笑んだ。「ありがとう、アンドレス。そんなふうに言ってくれるのは、そなただけだ。」「いえ…、そんな…。」フランシスコの、この繊細で静かな雰囲気に、あのトゥパク・アマルも安らぎを覚えるのだろう、とアンドレスは改めて感じる。実際、トゥパク・アマルは、フランシスコが倒れてから、あの重症を負っているビルカパサに対するのと同様の深い案じようを見せていた。「トゥパク・アマル様も、とても心配しておられました。フランシスコ殿の意識が戻られぬ間も、先ほどまで、ずっとこちらの天幕の中にお見舞いにいらしていたのですよ。」そんなアンドレスの言葉に、フランシスコはかえって苦しげな表情になった。気のせいか、油汗がいっそう噴出しはじめ、呼吸も荒くなってきたように見える。アンドレスは心配になって、身を乗り出した。「フランシスコ殿、大丈夫ですか?何か、とてもお辛そうに見えます。お苦しければ、すぐに医者を呼びますが…。」「いや、いいのだ。」と、アンドレスを制し、フランシスコは苦渋に満ちた表情のまま、「トゥパク・アマル様には、全く、ご迷惑ばかりおかけしてしまって、わたしは身の置き所のない心境なのだよ。」と呟くように言う。「え…?!」と、フランシスコの言葉に、アンドレスは息を呑む。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.29
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その夜、アンドレスとコイユールは、野営場のそれぞれ別の場所から、同じ月を見ていた。先ほどまで降りしきっていた雪も、まるで嘘のように、今、空は澄み渡り、初夏の星座が輝いている。標高の高いアンデスの地では、手に届くほどの近さに、無数の星々を感じることができる。コイユールは治療場へ戻る足が止まったまま、震えるような瞳で、白々とした光を地に注ぎ続ける月を、そして、星々を見つめていた。先刻のジェロニモとのやり取り、そして、トゥパク・アマルの側近たちの負傷の姿、次々と治療場へ運び込まれる負傷兵たちの悲惨な状態が、生々しく脳裏に飛来しては、嘔気を伴うほどの激しく不穏な感情を巻き起こした。彼女は、ついに、草の上に小さく胃液を吐いてしまうほどだった。(アンドレス…もし…今日…その身に何か起こっていたとしたら…、あるいは、この先、万一、命を…失うようなことになったら…――!!)コイユールは、再び、草の上にうつ伏して吐いた。(もし、アンドレスがいなくなったら…この世界からいなくなったら…?!)足元の地面が崩れていくような錯覚に襲われる。コイユールはひどく思いつめた目で、朦朧としながらも立ち上がった。すぐさまアンドレスのもとに走り、もう戦うのをやめてほしいと訴えなければいけない!少なくとも、前線で先陣切って戦うなどという危険きわまりない行為は、すぐにもやめさせなければいけない!!彼女は、本気でそう思った。本当に、自分の足に力が入っているのがわかる。しかし、次の瞬間には、彼女は再び草の上に崩れるようにしゃがみこんだ。再び、嘔気が突き上げる。(そんなことできるわけがない…!)アンドレスとて危険を承知の上で、己の意志で、命を懸けてやっていることなのだ。インカの民の復権という、この二百年以上の間、この地の人々がずっと切望してきたその崇高な目的のために、全身全霊を懸けているのだから。(でも、死んでほしくない、アンドレスに死んでほしくない…――!!)コイユールは混乱した頭を両手で抱えこむようにして、震えながら草の上にうずくまった。 そして、アンドレスもまた、人気(ひとけ)の無い、いつもの素振りの練習場所で、粛々と白く輝く月を見上げていた。あの修羅場のような戦闘が数時間前には展開していたなどまるで信じられぬほどに、美しく清らかな初夏の星たちが煌いている。手の中にあるサーベルも、先ほど慎重に血糊を拭き取ったために、今は何事もなかったように月明かりを反射して濡れたように輝いている。しかし、彼には、いつもと変わらぬ風情で清い光を放つそのサーベルが、どこかひどく白々しく思われた。あれほど残虐に次々と人を切り刻み、唯一つの命を奪い去り、獰猛な魔物のごとくに、おびただしい生き血を吸ったくせに…――!!まるで汚れたものを振り払うかのように、アンドレスは思わずサーベルを地に放り出した。そのサーベルを握って素振りをする気になどには到底なれず、彼は皮相な気分で足元の地面に目を落とした。本当に、これで正しい方向に進んでいるのだろうか。己の為していることは、これで正しいのだろうか?思わず両手で頭を押さえこむ。熱くなった頭の中で、戦場の血みどろの情景が渦巻くように甦る。己の刃にかかって死んでいく人々の悲痛なあの表情、あの絶叫、命あるものが息絶えていく瞬間、血の生臭いにおい…己の手で残虐な苦痛を与え、絶命させた無数の命――アンドレスもまた、突き上げる嘔気に苛(さいな)まれて、口元を押さえた。背筋に、ひどい悪寒が走る。急速に体温が下がるのを感じ、彼は思わず両肩を腕で押さえた。「コイユール…。」朦朧とした意識の中で、擦れた声でその名を呼ぶ。俺のやっていることは、正しいか?コイユール…俺のやっていることは正しいか?教えてほしい、コイユール、君に…――。「会いたい…。」殆ど声にならぬ声で小さく呟き、アンドレスもまた、身を震わせるようにして草の上にうずくまった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.28
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言葉に詰まったように固まってしまったコイユールに、ジェロニモは真正面から向き直った。「そうなのか、コイユール?!まさか…本当に、アンドレス様と知り合いなのか?!」「いえ…まさか、そんな…。」「それじゃあ、ナゼ、そんなに気にする?」口ごもるコイユールに、今度は逆にジェロニモが詰めた。「今更、隠し事なんて、水臭いナ。」「それは…。ただ、知りたくて…。」下を向いてしまったコイユールに、ジェロニモはじっと視線を注ぐ。コイユールの握り締めた華奢な指が、明らかに震えている。ジェロニモは一つ深く溜息をつくと、いつもの落ち着いた声に戻って言った。「アンドレス様の敵を倒す腕はスゴイよ。俺には、人間ワザとは思えない。だけど、最前線で、あんなことを続けていたら…命の保障はできないだろう。それだけは、言える。」再び顔を上げて愕然とした表情で喰い入るように己を見据えるコイユールの目の色を確かめると、ジェロニモは真顔で「やっぱり、そうか…知り合いなのか…。」と、独り言のように呟く。そして、さっと視線をそらすと、全てを吹き飛ばすように大きく伸びをした。「ああ~!!それにしても、今日は良く戦ったナぁ。」そう言って己の天幕の方に向き直り、去りかけて、もう一度、ジェロニモが振り返る。「アンドレス様には、立派な馬も、恐ろしく良く切れるサーベルもある。それに比べて、俺たち義勇兵は、斧や棍棒がせいぜいだ。…――こっちだって、死ぬか生きるかの瀬戸際なんだぜ。」その口調は、本人も驚くほどに深刻だった。コイユールは胸を突かれたように、固まったまま、完全に動けなくなっている。一方、そこまで言ってしまってから、ジェロニモは急に我に返ったように慌てた表情になると、コイユールに再び向き直った。そして、今しがたの自分の発言を打ち消すように、いつもの冗談めかした笑顔をつくる。「…ったくぅ、コイユールが、あんまり深刻な顔してるから、俺にまで移ったじゃないかぁ!ホラホラ、コイユール、なんだかよくわかんないけど、元気だせって!!なんなら、また、ここで一緒に踊る?」「ジェロニモ…。」コイユールも懸命に笑顔をつくろうとするが、顔の筋肉が固まってしまったように動かない。そんな彼女から視線をはずしたジェロニモの横顔には、ふと寂しげな色がよぎる。「事情は知らないケドさ、それにしたって…、あ~あ、コイユールも、やっぱアンドレス様かぁ…。ちぇっ、やっぱ、カッコイイもんナ~!!」愕然とした目の色のコイユールに、「ああ!!もう、冗談だって!!そこで突っ込んでくれないと~!」と、ジェロニモは笑顔をつくるが、彼のその表情もどこかいつもと違って無理がある。そして、ついに観念したように、ポツリと言う。「本当はサ、少しは、喜んでほしかったナ…こうして、俺が生きて戻ったこと。」(あ…それは…もちろん…――!!)コイユールが声にならない言葉を必死に搾り出そうとしている間に、ジェロニモはふっと溜息をつくと、「おやすみ。」と小さく笑って自分の寝所に向かって足早に去っていった。後には、さらに胸を突かれたような表情のコイユールだけが残された。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.27
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力無く歩むコイユールの足は、結局は向かう場所など無く、いつの間にか自分の属するビルカパサの連隊が天幕を張る界隈へと戻ってきていた。そのまま所在無く歩いていると、5~6名の馴染みの兵たちが天幕の片隅で円陣を組み、笑顔になったり、時に深刻な表情になったりしながら、談笑している様子が目に入る。コイユールも、ふらりと、そちらの集団の方に足が向く。その円陣の中心に陣取っているのは相変わらずあの黒人青年ジェロニモで、彼はやや興奮気味になりながら、周囲の兵たちに何やら夢中で説明している。「それが、ホントに、すごかったのサ!!いや…いつも、全く、驚くばかりなんだけどね。だけど、今日は特に凄まじかった!!馬に乗ったり、下りたりしながらサ、蒼く光るようなサーベルを振り翳し、次々と敵をなぎ倒していくんだ。いや…本当に、人間ワザとは思えない…ちょっと、あれを間近で見たら、ゾッとするくらい…だぜ、全く…!!」恍惚とした表情で身振りを交えて語るジェロニモを、周りの兵たちも顔を輝かせながら、あるいは、やや慄きの眼差しで、固唾を呑んで聞いている。「いやあ、ジェロニモの話を聞くと、俺も見てみたいって、いつも思うんだけどな…。だがなあ…、実際、あの戦場じゃあ、とてもそんな…見てる余裕なんてないねえ、俺には。」周りで聞いていた男たちが、溜息混じりに言う。ジェロニモも頷き、そして、相変わらず興奮を滲ませた声で言う。「ああ、俺もはじめはそうだった。だけど、あの姿を見ると、なんだか勇気が湧くっていうか、やる気になるんだ!!だから、つい、探して見ちまうのサ!!」周囲の男たちが、再び、眩しそうな眼差しで頷き返す。一方、ジェロニモは、やや声のトーンを落として、深刻な表情になった。「だけど…いつも、最前線に立って、あんなに派手に振舞っていちゃあ、幾ら命があっても、足りないっても思うぜ。まあ…余計なお世話には違いないが、心配になる時もある。何でもありの戦場じゃあ、目立つ奴ほど狙われるのが常だ。ましてや、あたりには、鉄砲の弾がガンガン飛んでるんだし、ナ。まだお若いのに、難儀に思えてしまことさえある…。あのおかたが命を落とされるなんてことになったら、それは勿体無いって…、はは…いや、余計なお世話だろうけど、つい、思っちまうんだよナ。」「そ…それって、誰のこと…?」「…――え?!」不意に背後から女性の声がして、ジェロニモや他の兵たちが振り返った先には、いつの間にそこにいたのか、コイユールの立ち竦(すく)む姿があった。「なんだ、驚いた!コイユールか。戻ったの?」と、声をかけるジェロニモの視線の先で、しかし、コイユールは完全に顔色を無くし、強張った表情でこちらを凝視している。そのただならぬ様子は、ジェロニモのみならず、そこにいた他の兵たちにもハッキリとわかるほどで、皆、驚いたように互いに目配せし合う。一方、当のコイユールはそんな周囲の様子など全く目に入らぬ様子で、「今、話していた人って、誰のこと?!まさか…!!」と、殆ど睨みつけるがごとくの険しい目になってジェロニモに詰め寄った。やや訝しげな目になりながらも、ジェロニモがありのままに応える。「ああ、今のは、アンドレス様のことだよ。コイユールは知らないかもしれないが、インカ軍の最年少の連隊長さ。」「アンドレス!!…やっぱり…!!」「『アンドレス』…?!」いきなりコイユールが連隊長の一人を呼び捨てにしたのには、周りの方が驚いて目を見張る。「あ…いえ…アンドレス…様…。」さすがに冷ややかに注がれる周りの空気に我に返ったコイユールが訂正するものの、皆、興ざめした表情になると、「そろそろ寝るか…。」と、その場を立ち去りはじめる。「あ…ああ、おやすみ!」そう皆に返事を送るジェロニモの、そのすぐ脇までコイユールは再び詰め寄った。「もっと詳しく教えて、ジェロニモ。アンドレス様の戦場でのご様子は…?!そんなに危ないことをしているの?!」睨んでいるのか、泣きそうなのか分らぬ表情でしつこく詰めてくるコイユールに、ジェロニモは、ますます不審の表情になる。「今、話した通りサ。俺が見たのは、それだけだ。それより、何なんだ?コイユール、まさか、アンドレス様と知り合いか何か?そういやあ、君はマルセラ様とも知り合いだったし、ナ。」やや皮相なジェロニモの目つきと口調に、コイユールは言葉を呑む。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.26
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従軍医と共に、再び、負傷兵の治療場へと戻ったコイユールではあったが、今しがたの突然のアンドレスとの再会に、その心はすっかりここにあらずの状態になっていた。三年以上前に会って以来、この反乱がはじまってからは、同じ陣営にいながらも彼女の前には全く姿を現さぬアンドレスの真意は、コイユールには推察することしかできなかった。歳月が経ち、もはや自分のことなど忘れてしまったのか、あるいは、彼の立場や責任の重さ故に、安易な行動をとれぬためなのか…。しかし、先ほどの、アンドレスの目の色は、そして、あの時の瞬間に覚えた感覚は、コイユールの心に熱い波紋を投げかけずにはいられなかった。いや、アンドレスの真意は、結局は、今も、わかりはしない。アンドレスの自分に対する感情がどうであるか、ということよりも、むしろ、コイユールは、己のアンドレスに対する感情の強さを、再び、真正面から突きつけられた思いに憑かれていたのだった。アンドレスがインカ軍で重要な位置にあり、彼なりに懸命にその責を果たそうとしていることを認識していた彼女は、彼が存分に力を発揮できるように決して邪魔はすまいと、そして、自分も自分なりにインカのために精一杯のことをしていくのみだと、心を既に整理していたはずだった。だというのに、偶然、アンドレスを間近に目にしただけで、これほどに心が動揺し、胸苦しいのは、どうしたことだろう…――!!(私、本当は、アンドレスのこと…全然、気持ちの整理なんて、ついていないのでは?)自問自答しながら、無意識に深い溜息が漏れる。ふと気付くと、すっかり上の空になっていた自分の手は、全く誤った薬草の配合をしているではないか。(いけない…しっかりしないと!!)すっかり慌てて薬草を配合し直しているコイユールに、やはり負傷兵の看護に当たるインカ族の女性が、心配そうに視線を向けた。「コイユール、少し休んだ方がいいわ。ここは、私が見ているから、ね。」と、優しい笑顔で促してくれる。コイユールは申し訳なさそうに瞳を揺らしたが、しかし、とても仕事が手につく状態でないのは、自分が一番よくわかっていた。「ありがとう…。それじゃ、ちょっと…外の空気でも吸ってこようかしら。」「行ってらっしゃい。」再び相手の優しい笑顔に背中を押され、コイユールも微笑み返し、「それじゃ…。」と、治療場を出ていった。治療場を出ると、既に、雪のやんだ夜の野営場のそこかしこからは、兵たちが炊き出しをしているのだろう、煮炊きされた食物のにおいが漂ってくる。そんな空気の中を歩んでいると、ふと、祖母のいる故郷が無性に懐かしく思い起こされてきた。「お婆ちゃん…どうしているかしら…。」しかし、たちまち故郷の連想の中から祖母の姿は消えゆき、やはり、そこに現われ出(い)でてくるのは、まだ少年だった懐かしくも愛しいアンドレスの姿ばかりであった。いっそう切ない思いで胸が締めつけられる。コイユールは、記憶を吹き飛ばすように、思い切り頭を振った。そして、険しい目で前方を見据えながら、意識的にアンドレスのことは考えまいとしながら、当ても無くただ野営地を歩みはじめた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.25
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「ビルカパサの怪我の様子は、どのようであろうか。」トゥパク・アマルが、深く案ずる眼差しで従軍医に問う。「はい。」と、従軍医はひどくかしこまってトゥパク・アマルに深々と礼を払い、そして、とても緊張の滲む声で、しかし、しっかりと答える。「幸い、ビルカパサ様の傷はそれほど深くはありません。ただ、傷を負ってから時間も経っており、お体へのご負担がかなりきております。今宵は高熱になるやもしれません。」そう言うと、恭しい手つきで、指示をしてコイユールに調合させた薬草を掲げた。「こちらの薬を、お飲みいただいてください。高熱に効きましょう。お怪我の方は、定期的にお薬を塗布しに参ります。時間はかかりますが、徐々に回復いたしましょう。」この有能な従軍医の言葉に、トゥパク・アマルもディエゴも、そして、アンドレスも深い安堵の表情になった。「ご苦労であった。」と、トゥパク・アマルが深く礼を払った声で言う。従軍医が再び深々と頭を下げ、同じく、コイユールも深く頭を下げた。従軍医の後に従い、コイユールはアンドレスの方に大いに気持ちだけ残しながら、しかし、天幕を後にするしかなかった。アンドレスもどうすることもできぬまま、ただその瞳だけで、去っていくコイユールの後ろ姿を必死に追う。緊張感の余韻を滲ませながら、従軍医はもと来た道を戻りはじめ、コイユールもそれに続いた。すると、その後を、ディエゴが急ぎ追ってきた。従軍医が振り返ると、「もう一人診てほしいのだ。」と言って、ディエゴは別の天幕へと二人を連れていった。中に入ると、もう一人のトゥパク・アマルの側近、フランシスコがぐったりと横になっている。どうやら、そこはフランシスコの天幕のようだった。フランシスコは眠っているのか気を失っているのか、いずれにしろ、意識のないまま、額から多量の油汗を流して身を横たえている。呼吸も苦しげで、肩を激しく上下させている。やはり、天幕の中にはトゥパク・アマルが既に来ていて、心配そうにフランシスコの傍に身を屈めていた。従軍医が急いで全身状態を調べるが、はっきりとした外傷が見当たらない。「いつからです?」と問いかける従軍医に、「さきほど、天幕に戻られてから、突然状態がおかしくなられたのだ。」と、ディエゴが答える。「ひどく熱が出て、呼吸も浅くなっておりますが、さしたる外傷も見当たりません。」と、従軍医もやや困惑気味の表情で、改めて、フランシスコを診察する。それから、従軍医は暫し考え深気に目を細めた後、「ある種の精神的なショック状態かもしれません。だとすれば、ゆっくりと心と体を休められれば、徐々に回復いたしましょう。いずれにしろ、経過を診させていただかなければ、何とも言えません。」と、慎重な口調で言う。ディエゴは、「精神的なショック状態?!」と、思わず唖然とした様子で目を見張る。しかし、トゥパク・アマルは静かな眼差しで、「あの戦闘は凄まじかった。そのようなことも有り得よう。」と、いたわるようにフランシスコの方を見た。トゥパク・アマルは改めて従軍医の労をねぎらい、従軍医も恭しく礼を払う。そのまま従軍医はコイユールを伴って、今度こそ本当に側近たちの天幕を後にした。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.24
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突然、アンドレスを目の前にして、コイユールは足から力が抜けていくのを感じた。今は、偶然の再会への驚きよりも、むしろ、アンドレスの無事な姿に、ただもうあまりの安堵で、彼女はその場にしゃがみこみそうなほどだった。一方、アンドレスもまた、天幕の入り口の布を持ち上げたまま、完全に固まっていた。コイユールの姿に釘付けられた目が離せない。「…――コイユール、なぜ…?!」思わず、聞こえないほどの擦れた声でアンドレスが呟く。その時、コイユールもハッと我に返った。そして、アンドレスのすぐ傍にいる自分の状況に気付き、はじかれたように、その瞳を見開く。その瞬間、二人は、呆然と、それから、揺れるような眼差しで、しっかりとお互いを見つめた。かつてと変わらぬ互いのその瞳の色に、二人の時間は完全に歩みを止める。たちまち、二人の意識は、時空を越えて、あの懐かしい日々に二人を引き戻す。そして、敢えて表面には出さずに心に深く沈めていたはずの、あの二人の絆を、今、再び目の前につきつけ、輝かせる。「コイユール、手伝っておくれ!」従軍医の緊迫した声に、コイユールは現実に引き戻された。アンドレスも我に返り、入り口を開き、コイユールを中に通した。震えるような足取りで、コイユールはアンドレスのすぐ直近を通り過ぎる。そして、ともかくも、コイユールは従軍医のすぐ隣に控えた。天幕の中では、意識の朦朧としたビルカパサが、苦痛に顔を歪めながら、右腕を押さえて横たわっていた。それは、あの戦闘開始時に、己の体を張ってトゥパク・アマルを守った時の、あの大砲がかすめた際の傷であった。ビルカパサはこれほどの重傷を負いながらも、あの数時間にも及ぶ激闘の中を、しかも並外れた働きぶりによって敵を討ち取り続けたのだった。さらには、戦闘後の処理の間も、トゥパク・アマルを助けて働き続けた。しかし、日没と共に、ついに力尽きて倒れたのだ。天幕の中には、なんとトゥパク・アマルやディエゴもおり、ビルカパサの様子をひどく心配そうに見守っている。アンドレスは天幕の中に戻ると、集団から少し離れたところに立った。思わず息を詰め、微かに震える指を握り締める。負傷による血生臭いにおいの充満する天幕の中だというのに、コイユールがいるというだけで、その場の空気が優しく柔らかく感じられてしまう。従軍医は、トゥパク・アマルらを前にして、かなり緊張した様子ではあったが、それでもビルカパサの傷口の手当てを慎重に進めていった。彼の指示のもと、コイユールも丁寧に血を拭い、傷口を拭き清めていく。そして、指示通りに、薬草を調合する。アンドレスの存在を近くに感じると手元が狂いそうで、彼女は必死で為すべきことに集中しようと努めた。アンドレスもまた、もはや胸の高鳴りを止められぬまま、しかし、彼もまた精一杯に平静を装っていた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.23
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その時、高貴な身なりをした一人のインカ族の初老の男が、従軍医のもとに急ぎ足で近づいた。コイユールには知る由もなかったが、その人物は、あのトゥパク・アマルの老練の重臣、ベルムデスであった。ベルムデスはやや緊迫した面持ちで従軍医に何か話すと、「かたじけないが、急ぎ、頼む。」と言い残し、また早足で引き返していった。従軍医は診ていた兵士の治療を手早く終えると、素早く自分の治療道具を荷にまとめ、それから、暫し周囲をキョロキョロ見回してからコイユールの方に声をかけた。「コイユール、私と一緒に来てくれないか。」不意のことにコイユールは驚いて、目を見開いたまま、ちょうど兵の包帯を巻き終わったその手を止める。普段のコイユールの働きぶりを知っている従軍医は、まじめな顔で彼女の目を見ながら言う。「トゥパク・アマル様の側近のお方が、お二人も、緊急に治療が必要らしい。すぐに連隊長の天幕まで行かねばならぬ。手伝っておくれ。」トゥパク・アマルの側近と聞いて、コイユールの心臓は本当に止まりそうになった。「誰ですか?!誰が、怪我をされたのですか?!どんな怪我なのです?!」普段はどちらかと言えば控えめなコイユールの尋常ではない様子に、従軍医はやや驚いた様子で、「怪我とも誰とも、そこまではまだ聞いていないが、行けばわかるだろう。とにかく、緊急を要するようだ。」と、既に歩み出しながら答える。コイユールは、ただもう心配で、自分が助手として選ばれたということなど吹き飛んだまま、その眼差しには、もはや鋭いほどの険しさを滲ませて、それこそ従軍医を追い立てんばかりの勢いで歩みはじめた。従軍医は、殆ど急(せ)き立てられるようになりながら、小走りで進む。そんな二人を包み込むように、既に日の暮れた空からは、白い精霊のような雪が再び地に舞い降りはじめた。二人は白い息を吐きながら、トゥパク・アマルら側近たちの天幕が張られている界隈に近づいていく。周辺では、幾多の精鋭のインカ兵たちが、どこにも増して厳しい警護の目を光らせている。従軍医が「治療に来たのですが。」と言うと、兵たちは待ち侘びたとばかりに、「こちらに!」と早足で案内してくれた。まもなく、通されたのは、ビルカパサの天幕だった。天幕が近づくにつれ、あまりの心配と不安のあまり、コイユールの心臓は張り裂けんばかりに、いっそう激しく鳴り響いた。そして、心の中で、祈り続けていた。どうか、どうか、アンドレスでは、ありませんように…――!!もちろん、トゥパク・アマルの側近の誰一人とて、負傷などしてほしくはないはずだったが、今のコイユールは完全にアンドレスへの心配で頭が占められてしまっていた。天幕の入り口に従軍医が近づくと、「さあ、はやく、中へ!!」と、勢いよく天幕が内側から開かれた。そう言いながら天幕の内部から姿を見せたのは、アンドレスだった。「!!」二人の目が完全に合う。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.22
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インカ軍本営の一隅では、スペイン軍の攻撃によって負傷した多くの兵たちが、懸命な手当てを受けていた。手当てを担当している者の殆どは女性たちで、戦場には出ずとも、彼女たちもまた、インカ軍を背後で強力に支えていたのである。そして、その中にはコイユールの姿もあった。敵の銃器や鈍器によって負傷した兵たちの怪我の状態は様々で、中には、瀕死の重態の者もいる。コイユールは、他の者たちが目をそむけたくなるような酷い傷でも、決して避けず、丁寧に拭いて清め、薬草を配合して塗布し、優しく布で巻いて仕上げた。必然的に、負傷の状態の重い兵士たちを中心に診る結果になっていた。とはいえ、代替医療としての自然療法は行えても、所詮は一介の農民にすぎぬコイユールには医療行為などはできようはずがなく、治療はしかるべき従軍医が行った。インカ軍では複数の従軍医が働いていたが、ビルカパサの連隊に所属する従軍医は特にその腕が冴えており、トゥパク・アマルの側近たちからの信頼も厚かった。この従軍医は、義勇兵として志願して参戦した者で、もともと村の小さな診療所を開業していたクリオーリョ(当地生まれのスペイン人)の村医者であったが、実際、その腕はなかなか優れていた。年齢的にはそろそろ初老にさしかかり、落ち着いた、温厚な雰囲気の持ち主である。それにしても、このサンガララの戦いでの負傷者の状態は、いつにも増して、ひどく酷いものだった。手当てをしながら、コイユールの中に不安が募ってくる。合戦がインカ軍の勝利に終わったということは聞いていたが、負傷兵の状態を見るにつれ、その戦闘がいかに激しいものであったかは容易に想像できた。コイユールは、義勇兵たちの噂で、常にアンドレスが戦線の最前線で戦っていることを知っていた。それがどれほど危険なことなのか、実際の戦場を知らぬコイユールには推測するしかなかったが、それでも、その身の危険さは手に取るように想像できる。負傷兵が運び込まれる度に、彼女は心臓が止まる思いで、そちらを振り向いた。まさか、アンドレスが…――と、運び込まれる兵たちの治療をしながらも、気が気ではない。せめて命が無事であることだけでもマルセラに確認したかったが、今は正式な隊長補佐でもある彼女は任務で忙しく、コイユールのところに顔を見せにくる暇などなかった。コイユールから、思わず深い溜め息が漏れる。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.21
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インカ軍の本営では、少なくとも表面上は、既に平常通りの様子で振舞うトゥパク・アマルの姿があった。彼は早々に血糊のついた服を新しいものに着替え、手足や顔、髪にまでベッタリとついていた血痕を拭い落としていた。傍目から彼だけを見たら、何事もなかったように人は思うかもしれない。今、トゥパク・アマルの前には、生き残り、捕虜となったスペイン軍の兵たちが30名ほど引っ立てられてきていた。いずれの兵も負傷しており、その目は呆然と宙を漂い、放心状態である。あれだけ多くの兵がいたというのに、生き残った者たちはこれだけなのかと、トゥパク・アマルの心は再び、ひどくざわめく。「全員、治療をさせて、自由に立ち退かせよ。」トゥパク・アマルの指示を受け、部下は恭しく礼を払い、捕虜と共に下がっていった。下がった部下と入れ替わるように、他の部下が、最後の捕虜を連れてきた。それは、討伐隊に所属していたスペイン人の従軍僧であった。従軍僧は、もはや覚悟を決めた表情で、無言でトゥパク・アマルの前に立っている。従軍僧なれば、釈放すれば、すぐさまクスコのモスコーソ司祭らの元に舞い戻るのは必定であった。だが、トゥパク・アマルはやはり、「自由にこの地を立ち退かれよ。」と静かに言って、従軍僧の釈放さえ命じ、自らは広場の教会の方に向かって本営を出た。彼は教会の前まで来ると、入り口でまだ折り重なったままの数体の死体の前に跪き、長い黙礼を払った。それから、部下に命じて、入り口の死体を丁寧に移動させ、血痕を片付けさせ、もと通りの状態に整えた。教会の中では、そんなトゥパク・アマルの行動を呆然と見やりながら、完全に放心しているスペイン人の神父の姿があった。トゥパク・アマルが神父に近づくと、その神父はやっと我に返ったように、しかし、同時に怯えきった眼で、おずおずとトゥパク・アマルを見上げた。トゥパク・アマルは深く頭を下げ、神父に礼を払う。神父は驚き、言葉を失ったまま、しかし、喰い入るようにトゥパク・アマルの方を見ていた。トゥパク・アマルも真っ直ぐに視線を返した。その目は、このスペイン人の神父にさえわかるほどに、ひどく苦渋に満ちている。トゥパク・アマルは丁寧に包んで持参した分厚い紙幣の束を、神父の方に恭しい手つきで差し出した。神父の顔に、大きな戸惑いの色が浮かび上がる。トゥパク・アマルは、再び、神父の方に深く礼を払った。「神父様、何卒、これで教会を修繕し、死者の弔いをお願いいたします。」ひどく驚いている神父に、トゥパク・アマルは「どうか。」と言いながら神父の手にその包みを握らせ、再び、苦しそうに深々と頭を垂れた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.20
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そして、また、心の激しい苦悶に喘いでいたのは、トゥパク・アマルだけではなかった。生き残ったインカ軍の兵たちは、皆、自分の為した所業に、今更のように恐れ慄いていた。殺(や)らねば、殺られるという究極の状況で、しかも、相手が銃を持っているという極度の恐怖感は、彼らを計り知れぬほどに狂暴にさせた。今、我に返って、己の為したことを思うと、自らぞっとせずにはいられない。多くの場合、一人のスペイン兵に対して、多数のインカ兵が鈍器を手に襲いかかり、一斉に殴り殺したのである。そして、かのアンドレスも、頭のてっぺんからつま先まで血みどろになったまま、虚ろな目で屍の中に佇んでいた。常に自ら最前線に立って敵に向かい、味方の指揮を執りながらも自ら剣を振るう己は、今日、まるで殺人マシーンのごとく、果たして何十人の敵を切り殺したのか?!彼は鞘に収めることさえ忘れたサーベルを、ぼんやりと眺めた。血糊にまみれたそのサーベルは、まるで自分の意志を超えて、敵の血をしきりに求める魔物のごとくに今は見える。人を切る時のあの感触、悲鳴、飛び散る血、臭い、倒れる音…――すべてが渦巻くようにアンドレスの脳裏を襲い、そのまま彼は崩れるように地に膝をついた。たとえ敵とはいえ、たった一つしかもたぬその命を、その歴史ある人生を、たかが一人の小さな人間でしかない己のこの手が、幾多にも渡って奪い去ったのだ。アンドレスは、今更のように、己の為した所業の恐れ多さに自ら圧倒され、深く打ちひしがれていた。手足が痙攣するように、震えている。そんなアンドレスの傍に、静かにディエゴが近づいていく。そして、アンドレスの肩に手を置き、その心を察するように、彼もまた苦しげな眼差しで、己の息子にも等しいアンドレスを見つめた。「アンドレス、これが戦(いくさ)というものだ。」ディエゴの太く、深遠な声に、アンドレスは虚ろな視線をゆっくり上げる。その瞳に、ディエゴは頷き返す。これが我々の負った業(ごう)なのだ、と、そんなふうにディエゴの目は言っていたかもしれない。アンドレスは頷くことができぬまま、しかし、それでも何とか立ち上がった。その時、彼の目の中に、遥かに聳えるアンデスの山々の姿がふと飛び込む。山々はいつもと変わらぬ清冽な輝きを放ちながら、しかし、今日は、まるでその懐に全てを包み込もうとしているかのごとくに、その裾野を懸命に広げているかのように見える。 アンドレスは立ち止まり、心を奪われたようにその山々に見入った。(アンデスの山々よ…ありがとう…。)彼は心の中で小さくそう呟くと、山々の気を己の中に取り入れるかのように、一度、深く息を吸い込んだ。そして、一歩一歩、トゥパク・アマルらのいる本営へと戻っていった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.19
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結果は、インカ軍の圧倒的勝利であった。しかしながら、その戦闘後の惨状は、どちらの軍にとっても筆舌に尽くし難いものであった。スペイン側の討伐隊は、ほぼ全滅だった。汚名を注ぐべく参戦していたキキハナの代官カブレラも、一旦はクスコに持ち越したその命を、このサンガララの地でついに落とした。そして、インカ側にも、多数の負傷者や死者が出た。戦場となった広場は、降り積もった雪の上に累々(るいるい)と横たわる死体の流す血で、殆ど白い部分が見えぬほどに真紅に染まっていた。今、雪は既にやんでいる。インカ軍の多くの兵は生き残ってはいたが、皆、その手足に、顔に、髪に、服に、ベッタリと返り血を浴びて、呆然とその惨憺たる情景を見やっていた。次第に日が高くなるにつれ、辺りに生臭い血の臭いが立ち込める。まさしく、そこは地獄絵さながらであった。トゥパク・アマルもまた、返り血で全身を染め上げたまま、その背筋も凍るような情景を眺めやった。愛馬の純白なはずの肢体も、大量の血を浴びて、赤黒く染まっている。トゥパク・アマルは愛馬の傍に立ち、その馬の体にそっと触れた。その指が、微かに震えている。彼は、愛馬の胸元に額を押し当て、じっと瞼を閉じた。このような惨憺たる眺めを創り出したのは、一体、誰だ…――。己自身であろう、と、彼の心の奥から非難めいた声がする。馬はトゥパク・アマルの心の内を察するかのように、その鼻先で、血糊のこびりついた主人の髪に静かに触れた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.18
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今、雪の中に沈みながら、まだ辛うじて息の残る隊長ランダの霞みかけた視界の中を、戦場の中央付近で、まるで蒼い光が走るがごとくに瞬速の動きで大地を馳せる何者かの姿がよぎる。ランダは己の命の火が尽きていこうとしているのを感じながら、だが、その最後の力を振り絞るようにしてそちらに目をこらした。その視界の中に、インカ軍の陣頭に立って銃弾をよけながら、次々とスペイン兵をなぎ倒していく一人の混血の若者の姿が映る。その若者――インカ軍の若き連隊長アンドレス――は、騎上から聖剣のごとくに蒼い光を放つサーベルを天高く振り翳(かざ)す。そして、馬から飛び降りると、次の瞬間、己の体の周囲に大きな弧を描くように、その重厚なサーベルを走らせた。サーベルの放つ蒼い光が、彼の周りに完璧な円形の軌跡を描く。一瞬後には、アンドレスの周囲にいた5~6名のスペイン兵たちの肢体から血飛沫が噴き上がった。その血飛沫が飛翔するよりも速く、アンドレスは、瞬間、宙に跳躍すると、中空で反転し、スペイン兵の密集する場所へとサーベルを振り下ろしながら舞うように着地した。着地しながら一人の兵を真っ二つに切ったかと見えた瞬間、間髪入れずにサーベルを水平に切り返すと、そのサーベルが再び完璧な弧を描いて走る。蒼い残光と共に、彼の周囲にいた複数のスペイン兵たちが血飛沫を飛び散らせながら地に沈む。その若者の表情は、もはや視界の霞みゆくランダには認めることはできなかった。しかし、その全身からは、サーベルの光に呼応するがごとくの蒼い焔が燃え滾(たぎ)っている。(あの者…何者か…――!)だが、ランダは、そのまま雪の中でついに息絶えた。それと時を合わせるように、ほどなく、決戦は終結した。こうして、早朝4時からはじまったこのサンガララの地での決戦は、午前11時には全てを決し、幕を閉じた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.17
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今、インカ兵の放つ、あの大地の神と呼応する情熱的な太鼓の音と、天空の神を呼び覚ます冴え渡る角笛の響きが、渦巻くように戦場を包み、スペイン兵を呑み込んでいく。アンデスに舞い飛ぶ雪は、スペイン軍の火器にも無情なまでに絶え間なく降りしきり、その威力を、まるで命を吸い込むがごとくに萎えさせる。一方、精神的にも、肉体的にも、過酷な自然環境の中での白兵戦にもともと適した素養をもつインカ兵たちは、降りしきる雪の中でますます意気盛んであった。そんなインカ軍の中央では、騎馬のトゥパク・アマルが、自ら銃とサーベルを振るって敵兵を討ち取りながら、炎のような目をして雄叫びを上げては、インカ兵を激しく鼓舞している。その全身からは、黄金色のオーラが煌々と放たれる。かくして、ランダの読みは正しかったのだった。隊長ランダからも、騎兵部隊からも引き離されたスペイン軍の歩兵部隊は、広場の後方左右の地に兵を潜めていた参謀オルティゴーサの連隊及び、フランシスコの連隊によって、両翼から襲撃を受けていた。広場の後方は切り立った山岳部になっており、自然の要害を成していて、窮地に追いやられたスペイン軍の歩兵部隊は後方への撤退はかなわず、かといって、前方では、騎兵部隊に襲いかかるインカ軍の本隊及びその他の強豪部隊が控えており、逃走経路を失ったまま、もはや両翼のインカ軍からの襲撃によって壊滅状態になっていた。そこへ騎兵部隊を打ち破ったインカ軍本隊が怒涛のごとく雪崩れこみ、たちまち歩兵部隊も風前の灯火(ともしび)となった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.16
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雪煙のあまりの激しさに、思わず、ランダは眼を瞬かせる。その瞬間だった。後方に控えていた義勇軍の辺りまでインカ軍を追い詰めたかと思われた時、突如、トゥパク・アマルの眼が鋭い光を放った。そして、天高く、その右腕を振り上げた。その合図と共に、広場を挟むようにして、スペイン軍の視界から見えぬ広場の左右の空き地に潜んでいたディエゴの連隊、及びアンドレスの連隊が、突如、激しく雪を蹴散らしながらランダ率いる騎兵部隊に左右の両翼から襲いかかった。その時に至って、ランダは無意識に額の血管が引きつるのを感じた。しまった…――!!トゥパク・アマルに謀られたのだ、と悟った時は、既に時は遅かった。右翼からディエゴの軍団に、左翼からアンドレスの軍団に、そして、退却していたその踵を返して、今度は修羅のごとくの形相でこちらに襲いかかってくるトゥパク・アマル率いる本隊、及び、ビルカパサの軍、さらには無数の兵からなる義勇兵の軍に囲まれたランダには、もはや後方を振り返ることは不可能だった。しかし、恐らく、否、確実に、後方の歩兵部隊もインカ軍の残党に襲われているに違いなかった。トゥパク・アマルの「退却」は、退却に見せかけた、偽りの退却、つまりは罠だったのだ…――と、ランダが悟った時には、この隊長にも既にディエゴの放った槍が突き刺さっていた。ランダは口から血を吐きながら、最後の力を振り絞ってその槍を抜こうとした。槍を抜きながら、しかし、ランダの頭は妙に静かに冴えていた。トゥパク・アマルは偽装退却でランダ率いるスペイン軍の騎兵部隊を誘い出し、敢えて、後方の歩兵と騎兵部隊を引き離したのだ。そして、両者が十分に分離したところで反転し、両翼と正面から騎兵部隊の突撃を受け止め、反撃に出て壊滅させ…、同時に、分離させた後方の歩兵部隊へも奇襲を仕掛けて壊滅させる…。次第に薄らいでいく意識の中で、ランダは苦々しげに笑った。ランダの脳裏に、母国スペインの、あの闘牛の場面が甦る。牛を槍で突くことはあろうとも、己がこのような最果ての地で、槍を突きたてられて果てようとは…――。そのまま、おびただしい大量の血で辺りを赤々と染め上げながら、ランダはついには槍を抜くことを果たせぬまま、雪の中に深く沈んでいった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.15
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ランダ率いる騎兵部隊は、馬上から雨嵐のような銃弾を撃ちこみながら、怒涛のごとくトゥパク・アマル及びビルカパサ率いるインカ軍本隊正面に襲いかかってきた。トゥパク・アマルの本隊には、義勇兵たちも多く加わっている。もちろん、こうした事態はトゥパク・アマルには当然予測の範囲内であったため、インカ軍の歩兵及び義勇兵は本隊のはるか後方に控え、この時はまだ戦闘に加わってはいなかった。この時、前線に出ていたのは、よく訓練されたインカ軍の専門兵であり、且つまた、騎馬の者たちだけであった。とはいえ、さすがに鍛え抜かれ気力漲る精鋭のインカ兵とて、銃弾の嵐には、浮き足立たずにはおられない。トゥパク・アマルは、「引け!!後方に引くのだ!!」と、険しい声で号令を発しながら、インカ軍本隊の騎兵部隊に退却を命じた。トゥパク・アマルの号令に煽られるように、インカ軍が脱兎のごとく退却を開始するのを見て、ランダ率いるスペイン軍はますます勢いづいた。隊長ランダは、インカ軍を殲滅(せんめつ)させるのはこの時とばかりに、「撃て!!トゥパク・アマルを捕えよ!!」と、狂った魔人のごとくの形相で馬を駆り立てながら騎兵部隊の先陣を切って、逃走するトゥパク・アマルを追い立てる。互いの軍の馬たちが蹴り上げる雪煙で、前方が霞み、視界が危うくなるほどの激しい追撃が行われた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.14
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「トゥパク様!!」瞬時に、ビルカパサが身を翻して、トゥパク・アマルを砲弾とは逆の方に激しく突き飛ばした。耳を劈(つんざ)く爆音と共に、地を裂くごとくの激しい地響きが足元を大きく揺るがした。突き飛ばされた勢いで、トゥパク・アマルは馬上から、雪の上へと激しく転がり落ちる。しかしながら、ビルカパサの捨て身の対応によって、幸いにもトゥパク・アマルは砲弾を逃れたのだった。一方、砲弾はビルカパサの右肩をかすめ、彼の肩から真紅の血が流れ落ち、彼の跨る馬の背を伝って、その下にある雪を赤く染め上げた。トゥパク・アマルは俊敏な身のこなしで馬上に戻りながらも、ビルカパサをひどく案ずる色の視線を投げる。ビルカパサは「何ということはありませぬ。」と、激痛があるに違いないその腕を、手早く衣服を裂いて縛り上げ止血すると、いつもの精悍な笑顔で応じた。だが、被害にあったのは、ビルカパサだけではなかった。むしろ、実際に犠牲となったのは、別の兵たちであった。トゥパク・アマルが素早く見渡すと、彼のすぐ背後に控えていた精鋭の兵たちのうち十数名にも及ぶ者たちが、雪を延々と赤黒く染めながら地に伏していた。トゥパク・アマルの見開かれた揺れる眼差しを受けて、倒れた兵たちの周辺にいる兵たちが悲痛な表情で首を横に振る。「皆、死んでおります。」トゥパク・アマルの手綱を握る指に、ぐっと激しく力が入る。だが、間髪入れず、ランダは次の指令を発した。それを合図に、スペイン軍の騎兵部隊が、トゥパク・アマルのいるインカ軍正面に向けて、一斉に突撃を開始した。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.13
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だが、確かに、トゥパク・アマルの言う通り、教会に避難した神父や女性たちまで戦闘に巻き込むことは、ランダ自身の道理にも反することではあった。ランダが教会内部の者に教会からの避難を命じようとしたその時、彼の予測に全く反して、インカ軍の放つ威光に恐れをなしたスペイン軍の一部の歩兵たちが、逆に教会の中に逃げ込んだ。「何たることぞ!!歩兵たちは、教会から即刻、出(い)でよ!!」自軍の兵の信じられぬ虚弱な行為に激昂した鬼のようなランダの剣幕に、教会の建物ごと、ビクリと震え上がったかに見えた。怯え切っている者に、それ以上の刺激を与えてはまずい…――と、トゥパク・アマルが直観した瞬間、再び、ランダは雷(いかずち)を振り下ろすがごとくの激しい剣幕で、教会の方向に怒鳴りつけた。「即刻、歩兵たちは教会から出でよ!!さもなくば、おまえたちから砲撃を食らわすぞ!!」「待て、それ以上、言ってはならぬ…――。」と、トゥパク・アマルが思わず馬上から身を乗り出した時は既に遅く、隊長ランダの剣幕にひどく怯えた歩兵たちが、一斉に教会の出口から表に飛び出そうとした。しかし、狭い教会の出口に殺到した歩兵たちは、次の瞬間、将棋倒しのごとく出口から外へと雪崩れるように倒れこみ、不幸にも、数名の負傷者と、そして、死者が出た。双方の軍団が固唾を呑み、トゥパク・アマルもまた、息を呑んだ。雪がいっそう勢いを増して、風に乱れ飛びながら白く降りしきる。他方、教会の門前では、死者の赤い血が白い雪の上にジワジワと広がっていく。神父が驚愕した目で真っ青になり、それから、すがるようにトゥパク・アマルの方を見た。トゥパク・アマルは、思わず、神父の目に引きつけられた。スペイン人の神父であったが、その眼差しはランダではなく、紛れも無くトゥパク・アマルに向けられ、そして、何とかこの混乱を救ってほしい!!…、と必死に訴えている。トゥパク・アマルがその目に釘付けられた瞬間、ランダの目が鋭利な光を放った。ランダの瞬間的な無言の合図によって、突如、教会の天窓に密かに装備されていた大砲から、トゥパク・アマルめがけて砲弾が放たれた。 ◆◇◆お詫びと訂正◆◇◆昨日の文中で、「トゥパク・アマルの軍団は、数万人の規模」と記載いたしましたが、「6千人の規模」の誤りでした。お詫びと共に、訂正させて頂きます。申し訳ありませんでした。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.12
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トゥパク・アマルは、ランダの返答を待ちながらも、スペイン人から成るそれら敵の軍団を鋭く見渡した。ランダ率いる討伐隊は、騎兵部隊と歩兵部隊とを合わせても、せいぜい千人程度と見て取れた。今や、トゥパク・アマルの軍団は、6千人の規模である。数の上では、自軍が圧倒的に勝っている。しかしながら、敵方には無数の銃器があり、且つまた、大砲も備えている。このまま戦闘に入れば、互いにとって著しい流血の惨事は免れまい。トゥパク・アマルの横顔は、これまでになく非常に険しくなった。そして、また、討伐隊のランダも、トゥパク・アマルの軍団の規模の大きさに密かに驚愕していた。これまで反乱軍の実情が知られぬよう、トゥパク・アマル及び彼の妻ミカエラが、厳重に情報の漏洩に目を光らせ統制してきたために、この期に至っても、スペイン側はインカ軍の規模、兵力、戦術など、その細かな実情を掴めてはいなかったのである。だが、ランダの予測通り、インカ軍の武装は、外面的に見る限り、己の討伐隊に比して著しく脆弱なものだった。せいぜい多少の小銃を携えているのみで、多くが斧や棍棒などの原始的な鈍器を手にした「インディオ」たちである。(所詮は、数だけ多い見かけ倒しの暴走しだした「牛」どもだ…――!恐るるには、足りぬ。)ランダの緊迫した横顔に、不遜な笑みが浮かぶ。ランダは、よく通る堂々たる太い声で、トゥパク・アマルに言い放った。「我が軍に、降伏の意志は無い!!」トゥパク・アマルは、すっと目を細めた。流血の道を選択するのかと、その切れ長の目には冷ややかな中にも、深い悲しみが浮かぶ。それと共に、この道は、己自身が開いてきた道でもあるのだと、トゥパク・アマルは思う。「仕方あるまい。」誰にともなく低く言うと、再び、ランダを非常に険しい眼で見据えた。「やむを得まい!だが、そなたが教会に匿(かくま)われた神父殿、そして、女性たちを教会の中から安全な場所へと避難させよ!!」トゥパク・アマルは、ランダの方向に響く声で言い放ちながらも、教会の方を俊敏に横目でうかがう。広場中央にあるその教会が、戦場の一部になる危険を感じていた。そもそも、教会の周辺で戦闘を起こすこと事態、本来は限りなく避けたいことであった。今や、かのモスコーソ司祭の策略によって、キリスト教に対する反逆者と見なされている彼にとって、この上、教会を血で汚すような事態は極めて避けたいことであったのだ。だが、恐らく、隊長ランダは、そんなトゥパク・アマルの心理を見抜いていた。然るに、当地の教会の膝元である、この広場での戦闘を密かに狙っていた。ランダは冷ややかな眼差しで、トゥパク・アマルを見た。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.11
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トゥパク・アマルは騎馬のまま、軍団の中から、前に進み出る。そして、雪の中でも、はっきりと遠くまでよく響く、鋭い声で言った。「わたしは、インカ軍の将、トゥパク・アマルだ。スペイン軍の将に告ぐ。もはや、そなたたちは完全に我が軍に包囲されている。互いに無用な流血は不要。今、このまま、貴軍は我軍のもとに、降伏せよ!!」横風が強まり、トゥパク・アマルの纏う黒い翼のごとくのマントが音を立てて大きく翻り、長い黒髪も吹雪の中に乱れ舞っている。自軍に目配りをしながらも、常にトゥパク・アマルの傍で変わらぬ警護に当たっているビルカパサの目には、トゥパク・アマルの横顔に、これまでないほどの決意に満ちた強い炎が燃え立ち、既に次の一手に頭をめぐらせているのが見て取れる。アンドレスをはじめ、ビルカパサ以外の側近たちもまた、凛として各連隊の先頭に立ち、それぞれに陣を張った位置から、事の成り行きを険しい眼差しで見守っていた。そして、事の推移によっては、次に為すべきことになるであろう、あらかじめトゥパク・アマルと共に練り上げてきた軍事的戦略を心の中で反芻する。一方、雪は、何事もないように淡々と降り続け、静かに、しかし、まるで謀り事のように、確実に両軍の兵たちをその白いベールに包み隠していく。ランダは、部下に命じて連れてこさせた逞しい愛馬に跨った。それに呼応するように、ランダの背後に銃器を携えたスペイン人の騎兵部隊が、整然と連隊を成しはじめる。さらに、その背後には、鈍器と大砲で武装した、同様にスペイン人の歩兵部隊が、一糸乱れぬ動きで連隊を成していく。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.10
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ランダの視界の中で、その中央のインディオ――トゥパク・アマルは、マントの下に革と綿でできた分厚い胸甲を身に纏い、腰からは重厚なサーベルを提げ、ピストルを手に、射抜くような精悍な眼差しで、己の方にじっと視線を注いでいる。そして、彼を中心に、まるで地平線を埋め尽くすがごとくの褐色の騎兵たちが、やはりその身に分厚い胸甲をつけ、鈍器やサーベルで武装し、こちらを険しい眼(まなこ)で見据えている。そのインカ軍全体から、まるで青白いオーラのような激しい気が燃え滾(たぎ)っているかのような、不気味な錯覚に襲われる。ランダはわななく眼でそちらを睨みつけながらも、さすがに戦歴豊富な軍人らしく、その態度はどっしりと落ち着いている。彼は、すぐさま臨戦態勢に入るよう、無言のまま鋭い手つきで部下に指示を送った。ランダ率いる討伐隊の中には、従軍僧や、他にも当地の神父、そして、炊き出しなどの協力を強いられている地元のインカ族の女性などもいた。幾多の修羅場を駆け抜け、将としての器を磨いてきたこのスペイン人の隊長ランダは、さすがに、ひとかどの武人らしい人道的な心をも持ち合わせた人物だった。ともかくも、彼は、広場中央にある教会を守っていた地元の神父と、そして、30名ほどのインカ族の女性たちを、教会の内部に大至急、避難させた。一方、トゥパク・アマルは、馬上からランダのその行動を微動だにせず見つめている。そして、その様子を見守るように、静かに目を細めた。ランダも、トゥパク・アマルを見た。はるかに距離を隔てながらも、互いの目は完全に合っていた。二人の間を、白い雪が、乱れ、舞い飛びながら降りしきる。なるほど、この男が互いの軍団の将か――と、しかしながら、それも頷けようと、二人は言葉を交わさずとも悟ることができた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.09
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深夜の空気は、しんしんと冷え込みを増していた。「今宵は、雪になりましょうな。」静けさの中、そう言いながら、参謀オルティゴーサが意味ありげな目でトゥパク・アマルを見た。トゥパク・アマルも、意味深げにその目を細めて頷く。「サンガララはこの辺りよりも、いっそう高地。雪も深くなろう。」実際、南半球の11月は晩春ではあるが、この高原地帯はこの時期でも雪に見舞われることがあるのである。側近たちの目つきも鋭さを増す。なお、この時の側近の中には、サンガララでの激戦に備え、分遣隊を率いて戻っていたトゥパク・アマルの従弟ディエゴの勇姿も見ることができた。「運は、我々にある。」地底から湧き上がるがごとくの、あの低く響く声で、トゥパク・アマルが言う。それが合図であったかのように、まもなくインカ軍はサンガララに向けて深夜の行軍を開始した。時を合わせたかのように、夜空を覆う灰色の厚い雲からは、はらはらと雪が舞い降りはじめる。アンデスに降りしきる雪は、インカ軍の進軍を、見守り、庇護するかのように、その大軍団のなす行軍の音をすっと吸い込み、完全な静けさの中に包み込んでいった。 翌11月18日早朝4時、サンガララの中央広場に露営するスペイン軍の哨兵が全員起床の合図を出した。目覚めた隊長ランダは、天幕の垂れ布を少し開けて外を覗き見る。外はまだ薄暗かったが、それでもいつもの午前4時にしては明るい。それは雪明かりのためだった。しきりに雪が降りしきっている。辺りは妙に静まり返っていた。「雪か…。」不意にランダは不穏な直観に憑かれ、天幕を飛び出した。ランダが天幕を出たのと殆ど同じタイミングで、見張りの哨兵が顔面を蒼白にしてランダのもとに馳せ参じた。哨兵の報告を待たずとも、ランダは己の目で、事態のただならぬことを即座に知った。彼は、にわかに目を疑った。スペイン軍が陣を張ったこの広場は、既に、無数の黒い影に取り囲まれているではないか…――!!さらに、中央のランダの天幕の真正面には、数百メートルの距離を隔てて、降りしきる雪の中、白馬に跨り己を真正面から見据える、ひときわ目立つインディオの姿があった。その男の黒いマントが、風に煽られ翻っている。ランダは事態の非常に緊迫していることを知りながらも、ある種の感慨をもってそのインディオを見やった。(あれが、トゥパク・アマルか…!!)そして、その目元をわななかせつつも、にわかに口元をつり上げる。「トゥパク・アマル、なんと愚かな…本当に現われてこようとは。」 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.08
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ランダは、討伐隊の本営の置かれた天幕の方から、今、こちらに歩み来るスペイン人の中年の男に、氷のような冷ややかな眼差しを投げた。己の方に歩み来る男、それは、かのキキハナの代官、カブレラであった。カブレラは、反乱勃発時、自らが治めていたキスピカンチ郡に迫り来るインカ軍の侵攻に恐れをなし、己の任地を放棄してクスコに逃げ込んだあの代官である。今や、その失態の汚名を注ぐべく、カブレラは、この隊長ランダのもとで、討伐隊に参加していたのだった。「ランダ様、インカ軍が付近まで来てはいまいか探るため、斥候を派遣いたしました。」冷たい目で己を見下ろす隊長ランダに、怯え、へつらうようにカブレラが言う。「うむ。」ランダはいっそう冷ややかに細めた目で、ただ短くそれだけ応える。カブレラは、恐れをなしたように一礼すると、そそくさと本営の中に引っ込んだ。苛立ちを押さえられぬように、ランダは筋肉の塊のようなその拳を握り締めた。たかがインディオごときに恐れをなし、己の任地を放棄して遁走するなど、全くもって、信じられぬ。既に逃げるように己の天幕の中に消えたカブレラの後姿を、ランダは侮蔑に満ち満ちた眼で睨みつけていた。むしろ、ランダには、インカ軍がこのサンガララの地に本当に現われるのか、そのことの方が疑問であった。銃器や大砲を備え、しかも、これまでの弱体なスペイン兵とは全く質を異にする、この正式な討伐隊と、本気で一戦を交えるつもりがあるなどと、ランダには、むしろ考えにくかった。もしトゥパク・アマルが、「牛」ではなく「人」であるならば、少し頭で考えてみれば、その勝機の乏しさは容易に計算できるはずである。そして、やがて、カブレラの放った斥候たちが続々と本営に戻ってきては、「付近は全く平穏です。インカ軍の気配は露もありませぬ。」と、口々にランダに報告した。やはり、とランダは思った。さすがに、トゥパク・アマルも、己の身の程をわきまえているらしい。ランダは、斥候たちの報告に、己の予測の正しかろうことの確信をいっそう深めつつ、ともかくも、インカ軍との決戦の時に備えて休息をとるようにと部隊に命じた。 一方、トゥパク・アマルは、サンガララから敢えて十数キロ以上離れた地にて野営の陣を張りながら、己の放った斥候の報告を待っていた。まもなく丑の刻を回ろうとした頃、緊迫感を滲ませた側近たちが見守る中、トゥパク・アマルの元に、はるばるサンガララまで深夜の偵察に参じていた斥候たちが戻ってきた。トゥパク・アマルは斥候たちの労をねぎらい、その報告を聞く。「討伐隊は、サンガララの中央広場に露営し、既に就寝したもようです。」思慮深い目をすっと細めて、トゥパク・アマルは呟くように言う。「ずいぶん甘く見られたものだ。」だが、そこまで敵が油断できるには、やはり、それ相応の軍備なり、戦術なり、かなりの自信があるが故に相違ない。天幕の中は、暫し、静けさに包まれる。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.07
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それから間もなくの11月17日、クスコへの進軍途上、サンガララの地にて、トゥパク・アマル率いるインカ軍と、スペイン側のクスコ戦時委員会が送り込んだ精鋭の討伐軍とが、ついに対峙する時が迫っていた。サンガララはアンデス山脈の高所にある高原地帯で、冬季は豪雪にうずもれる極寒の地である。南半球の11月は既に初夏近い晩春であるが、当地の夜間の冷え込みはまだまだ厳しい。スペイン側の隊長ランダ率いる討伐隊の軍団は、サンガララの集落の中央広場で露営をしていた。 ランダは天幕を出ると、まだ見ぬインカ軍を睨みつけるがごとく、険しい目で上空を見据えた。見上げる夜空には、厚い灰色の雲が垂れこめている。冷え切った空気の中で、ランダの吐く息が白く浮かび上がった。その白い息の広がりの大きさから、この男の肺活量の不気味な多さがうかがえる。クスコの戦時委員会によって、今回、インカ軍討伐隊の将として白羽の矢を立てられたこの男は、幾多の戦果を上げてきたベテランの現役軍人であった。軍隊の中で鍛え抜かれ引き締った逞しい身体に、スペイン人らしい彫りの深い顔立ち、そして、黒々とした髪と鋭利な眼差しは、まるで、闘牛士を思わせる。ちなみに、闘牛の発祥をスペインの地とする見解には幾つかの異論もあるが、イベリア半島において、古くから闘牛に類するものが行われきたことは事実である。もともとは、騎馬で野生の牛を槍で突くという、貴族の狩猟の風習が闘牛の前身である。時代の推移と共に、馬術に優れた社会の指導者層が、己の力を、そして社会的地位を民衆に誇示するため、華やかに正装し、牛に槍を突き立てる行為となり、それがやがて闘牛としての現在の形態に変遷してきた。18世紀前半には一時低迷期にあった闘牛も、この時代には、騎馬ではなく徒歩闘牛士の出現によって、スペイン本国では再び隆盛を誇っていた。いずれにしろ、この闘牛に象徴されるように、イベリア半島の民族たちであるスペイン人たちは、古来より、非常に闘争心の強い者たちであったのだ。ランダは夜の暗雲を見上げたまま、その鋭利な目元を冷ややかに細めた。今、突如、狂ったように暴れ出したインディオどもは、ランダには、まるで暴走をはじめた獰猛な雄牛に等しく思われた。だが、どんなに荒れ狂おうとも、相手は、人ではない。たかが、「牛」にすぎぬのだ。今は狂暴になっている野蛮な雄牛ども…――武器とて火器はせいぜい奪った小銃程度しか持ち合わせぬ、ただ数だけ多い原始的な烏合の軍団にすぎぬ。全く、そのような者どもを相手にしながら、敗走し、敵の手に落ちるなどとは、既にインカ側の統治下に置かれた地の代官お抱え部隊やスペイン側の援軍は、一体、何をしてきたのだろうか。何という醜態、何という情けなきことか…――!!ランダには、むしろ、インカ軍の戦果よりも、反乱勃発以来、各地で敗退をきたしてきたスペイン兵の失態を非常に苦々しく、いや、彼には全く信じられぬ思いで、噛み締めていた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.06
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アンドレスは込み上げる懐かしさを噛みしめながら、今、再び身近に接することのできた友の、その存在を確かめるように、眩しげな視線を注ぎ続ける。学生時代から、ロレンソはもともと理知的な大人びた雰囲気の少年だったが、今、こうして数年ぶりに会う彼は、見違えるように立派な一人の大人の風貌を備えている。同じ18歳の青年のはずなのだが、自分よりも軽く2~3歳は年上に見えるのだ。少し茶色がかった柔らかな自然なウェーブのかかる髪をもつ混血のアンドレスとは対照的に、ロレンソの髪はインカ族らしい漆黒の直毛で、そして、二人共同じように、それらの髪を肩より少し下のあたりで切りそろえている。それは、かのクスコの神学校時代とあまり変わらぬ姿であった。その髪型は、アンドレスにおいては、少年の面影を彷彿とさせるものであったが、他方、既に大人の風貌を備えたロレンソにおいては、少年時代と殆ど変わらぬその髪型さえも、飾らぬ鋭利な大人の雰囲気をいっそう高める要素となっている。その褐色の彫りの深い顔立ちには知的な雰囲気と精悍さが以前にも増してうかがえ、その一方で、洞察の鋭そうな、あの懐かしい瞳の色は今も変わらない。実際、少年の頃から、ロレンソには物事の本質を見抜く直観力の鋭さと、そして勘の良さがあった。生い立ち的には、インカ皇族の彼は、代々インカ皇帝の片腕として皇帝を助けてきた腹心の家臣の末裔でもあった。神学校時代、アンドレスは己の身の上について表立って語ることを控えていたが、勘のいいロレンソは、二人の会話の中でアンドレスの身の上を直観的に悟ってもいた。「あの頃から、こんな日が必ずや訪れると思っていたよ。ロレンソ、本当に、よく来てくれた!」天幕を出て松明の揺れる夜の野営場を二人で歩みながら、アンドレスが感動を滲ませた声で言う。ロレンソも同様に懐かしさを隠せぬような、それでいて、とても落ち着いた眼差しでアンドレスを見る。「アンドレス様、わたしも、いずれはこのような時が来ると確信しておりました。」アンドレスは、少し目を瞬かせた。「ロレンソ、そんな話し方をしなくていいんだ。以前と同じように、接してほしい。」アンドレスの言葉に、ロレンソは穏やかな笑顔を返した。「しかし、もともとあなた様は、インカ皇帝にも等しきトゥパク・アマル様のお血筋。そして、今や千人を超す連隊の将ではないですか。わたしの方こそ、神学校時代には、身分もわきまえずにあのように無礼な接し方をしてしまい、心苦しく思っているのですよ。」ロレンソの瞳は真っ直ぐで、誠意に溢れている。本気でそんなふうに思っているのだと、アンドレスには分かった。アンドレスはやや困惑した表情でロレンソを見る。それから、彼もまた、誠意をこめた声で言った。「ロレンソ、身分のことよりも、俺たちはかつて寝食を共にした友であったし、今も俺は君の友でありたいと思っている。これからも、かつての通り、友として接してほしい。態度も、言葉づかいも。」アンドレスの真っ直ぐな瞳を、暫し、真顔で見つめた後、ロレンソはフッとはにかんだ。「本当に、よいのか?…アンドレス。」ロレンソが、慎重に言う。アンドレスは明るい笑顔をつくって、深く頷いた。周囲を瞬時に華やかせてしまうアンドレスのその笑顔を、ロレンソは懐かしそうに目を細めて見つめた。再び、月明かりの注ぐ野営場の草地を歩みながら、ロレンソが力のこもった声で言う。「アンドレス、そなたの噂を、ほうぼうで耳にしたぞ。インカ軍の最前線に立って、軍神のごとくに鮮やかに戦う若い武将がいる、とね。」アンドレスは、驚いたように目を瞬かせる。まさか、そんなふうに言う者たちがあるなど、夢にも思ったことはなかったのだ。言葉に詰まっているアンドレスを、ロレンソは誇らしげな目で見返した。「アンドレス、そなたと共に、皇帝陛下のもとでインカ軍のために働けることを、身に余る光栄と思うぞ!」ロレンソの先ほどの話にまだ驚きを抱きながらも、アンドレスもまた、その澄んだ瞳に力を宿して頷いた。「ロレンソ!!俺も、君と共に、インカのために働けることを、この上ない誇りと感じる!」そして、二人はどちらからともなく、がっちりと両手を結び合った。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.05
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一方、ますます勢力を増し、黒人奴隷解放令なるものまで発したトゥパク・アマルに対して、かのクスコの戦時委員会では、いっそう気色ばんだスペイン人有力者たちが、血走った眼で顔をつき合わせていた。しかも、敵はこのインカ帝国の旧都クスコ奪還を目指して、その勢力を増幅させながらジワジワと軍を進めてきているのである。大軍を率いたトゥパク・アマルが当地を襲撃してくるのも、もはや時間の問題と思われた。この期に及んでは、クスコのスペイン側にとって、事態は考えられ得る限りの最も深刻、且つ、身の毛のよだつ空恐ろしきものであったのだ。クスコの名士たちが赤くなったり青くなったりしている間も、かのモスコーソ司祭は、それこそ頭から湯気を立てぬばかりの勢いで憤怒にわなないていた。モスコーソは額によせた血管がはち切れぬばかりの憎悪と怒りに満ちた形相で、毒づくように言う。「トゥパク・アマルにこれ以上、勝手なことをさせてはならぬ!!反乱がこれ以上広がらぬよう、さっさと手を打つのじゃ!!」己のしたためた教区宛の回状の効果がさして上がっていないことも、この司祭をいっそう苛立たせ、逆上させていた。握り締めたその拳は、傍から見てもわかるほどに、わななき震えている。常日頃の、あの不自然なまでに慈愛深気で懐柔的な態度のその人とは別人のような司祭の豹変ぶりに、クスコの名士たちでさえ恐れをなして、身を縮めた。「首府リマに使者が到着するまでには何日もかかるのじゃ。その上、援軍を待っていては、トゥパク・アマルの思うままにされてしまおうぞ。これ以上、反乱の規模が広がる前に、もっと強靭な討伐軍を差し向けるのじゃ!!」鬼のような形相でまくしたてるモスコーソ司祭の剣幕に押されながら、しかし、他の戦時委員たちも、「このままクスコに攻め込まれる前に、もはや早急に精鋭の討伐隊を差し向け、インカ軍を殲滅(せんめつ)させるしかあるまい。」と、意を決した険しい表情で同意した。 こうして、いよいよ本格的なスペイン側との戦闘の時が、確実に迫りつつあった。そのような中、インカ軍の野営場では、その夜、アンドレスに嬉しい来訪者があった。かのクスコ神学校時代の懐かしき朋友ロレンソが、インカ軍に参戦すべく援軍を引き連れて合流してきたのだった。自分の天幕を訪れたロレンソを前にして、あまりにも懐かしいその姿に、アンドレスは大いに瞳を輝かせた。ロレンソは、亡きインカ皇帝または貴族の血をひくインカ族の子弟たちが学ぶ特別な、あのクスコの神学校で、アンドレスと同期の学生だった。神学校時代、二人は、ラテン語、スペイン語、ケチュア語、キリスト教、あるいは身体的競技も含めたあらゆる学科において、その成績を互いに競い合うライバル同士であった。それと共に、スペイン人教師たちの目をかすめて、二人はこの国の将来に向ける思いと決意を熱く語り合う同志のような存在でもあった。「ロレンソ、本当によく来てくれた!!」アンドレスは眩しそうな視線で、ほぼ二年ぶりに会う朋友を見つめた。ロレンソも懐かしさを隠せぬ瞳ではにかみながら、今や一人の将として成長しつつある眼前の友を、真っ直ぐに見つめ返した。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.04
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思いがけぬ誘いに、コイユールが、「えっ?!」とビックリして目を瞬かせている間に、周囲からも和やかに囃(はや)し立てる歓声が上がり、一枚の彩り美しいハンカチが一人の黒人兵から投げられた。「お嬢さん、俺らの踊りは、それを持って、だよ!!」コイユールが呆気に取られつつもハンカチを拾っている間に、ジェロニモは自分の靴を投げ捨てるように裸足になると、「それから、俺たちは、裸足で踊る!靴、脱いで!はやく!!」と笑顔で急(せ)かす。「えっ?えっ…。」と目を丸くして驚き、戸惑いながらも、観念したようにコイユールが靴を脱ぐ。すると、アフリカ的な、そして、躍動的ながらも低音が深く心に響く打楽器のリズムが、黒人兵たちの手によって奏でられはじめる。さらに、それに呼応するように、歌声が湧き上がる。その歌は、強制労働を強いられた黒人奴隷たちが想いを込めて歌い続けてきた、自由と解放の悲願の詩…――。彼らの奏でるそのリズムは次第にスピード感を高めながらも、時に哀愁を帯び、時に優雅に、時にゆったりと、そのテンポを自在に変えていく。マルセラはといえば、相変わらず初めての楽器を抱えながら、しかし、さすがに運動神経の良い彼女は、他の黒人たちの演奏に混ざりながら、既にそれなりにリズムを取れている。そして、「ほら、コイユール!!私の演奏じゃ、踊れないってワケ?」と、ふざけて軽く睨んでくる。いつの間にか、周囲に座っていた黒人兵たちも立ち上がると靴を脱ぎ捨て、男同士ながらペアになり、ハンカチを片手に、あるいは、ハンカチに加えて水瓶やひょうたんも頭上に乗せて、リズミカルに、器用に、踊りはじめる。「ほら、あんなふうに!!」明るい笑顔を向けるジェロニモを、コイユールは、まだ躊躇(ためら)う表情で見上げた。そんな彼女の耳元に、ふいに顔を寄せてジェロニモが言う。「俺たちの祖先は故郷のアフリカから引き離され、無理矢理ここに連れてこられて、終わりなき強制労働だった。心の支えは、ずっとこの歌とリズムだけだった…のサ!この響きは、死にかけた俺たちの魂を生き返らせてくれる。だから、今でも生きているこのリズム、これを守って、ずっと伝えていく!さあ、踊ろう!!」コイユールもやっと頷くと、笑顔を返し、見よう見まねで踊りはじめる。(そういえば私たちにも、インカの時代からずっと愛されてきた優しい音色を奏でる楽器たちが、旋律が、生きているっけ…。)コイユールは己の心にあたたかなものが満ちてくるのを感じながら、今だけは戦乱の中にあることを忘れて、大地から放たれる、躍動的で、それでいて、どこか哀愁を誘うリズムに、その身を委ねていった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.03
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コイユールの姿を認めると、ジェロニモが近くの黒人男性へ「これ、代わってくれ!」と素早く楽器をバトンタッチして、コイユールの傍に寄ってきた。かたやマルセラは、「わ!何それ!手製の楽器?!私にもちょっと叩かせて!」と、ジェロニモが交替した男性の方に、興味津々の顔で近づいていく。そんなマルセラの屈託ない様子に、むしろ感心しながら見守るコイユールに、ジェロニモが水の入ったカップを持ってきて、「祝杯だ!」と笑顔で言う。コイユールが「ありがとう。」と受け取ると、「トゥパク様に乾杯!!」とジェロニモが朗らかな声を上げ、彼女のカップに自分のそれを勢いよく当てた。それに合わせるように、二人の周りでも、「乾杯!!」の歓声が再び高らかに上がる。コイユールは、そんな人々の恍惚とした表情を、眩しそうに見つめた。カップを口からはずすと、ジェロニモは少しまじめな顔になって、コイユールの顔を見る。「君の両親も、確か、ポトシの鉱山で亡くなったんだったよね。」「ええ。」「あそこには、たくさんの黒人奴隷もいたってこと、知ってる?」「あ…、聞いたことはあるけれど。」ジェロニモは頷くと、足元にカップを置き、焚き火の方に視線を向けた。その眼差しの鋭さに、コイユールは息を呑む。今までの、どこかふざけた様子の彼とは、まるで別人のようにさえ見える。「君の両親も大変だったろうけど、黒人奴隷は、インカ族の者たちよりも、もっと、ずっと過酷な条件で働かされているんだ。全くの使い捨てサ。働けなくなったら、殺されるんだぜ。ひでぇ話だろ。ま、それもそうだよな。黒人奴隷は、『金で買われた労働力』、モノと一緒なんだから。」コイユールが絶句していると、ジェロニモはゆっくりと視線を彼女の方に戻した。そして、微かにその瞳を震わせて、「俺の両親も、ポトシの鉱山に買われて行って、あそこで殺された。」と、呟くように言う。胸を突かれたような思いに駆られ、コイユールは殆ど無意識のうちにジェロニモの手に自分の手を添えていた。「スペイン人を…恨んでいるの?」自分の手に添えられたコイユールの手の方が震えているのを感じながら、ジェロニモは「恨んでない…なんて言えば、嘘になるが。」と、感情を抑えた低い声で応える。しかし、すぐに、落ち着いた、いつもの張りのある声に戻って言う。「だけど、俺が戦いに参加したのは、奴らを恨んでるからってわけじゃあ、ないのサ。奴らに壊された俺ら先祖や親たちの人生を…奪われた自由を、俺たち子孫の力で取り戻したいってだけだ。あのアフリカの大地の民の誇りにかけて、ね!それに、トゥパク・アマル様が、黒人奴隷解放令を出してくださった。トゥパク様の統治下にある領地では、既に、解放がはじまっている。国中の俺たち黒人の苦しみが終わる日も近いサ!!」そう言って、「君だって参戦したのは、ただ恨みからってわけじゃあ、ないんだろ?」と、コイユールにあの出会いの日と同じ茶目っ気のあるウィンクを投げると、突然、自分の手に添えられていたコイユールの手を握り、「踊ろう!!」と立ち上がった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.02
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涼やかな夜風を共に浴びながら、ベルムデスはトゥパク・アマルの横顔をそっとうかがう。(あなた様は、昔から、他の者の苦しみを、どのような末端な者のそれまでをも真に己の苦しみとし、まるっきり己のことなど忘れてしまったように、常に、この国全体のことばかりを考えていらした。いつもそればかりで、あなた様自身の幸福を置き去りにされているのではないかと、案ずる気持ちもあったが…。)そんな思いを抱きながら改めてトゥパク・アマルを見るベルムデスの瞳の中に、恍惚たる表情のまま、瞳を輝かせ、祝杯を上げる黒人たちを見下ろすトゥパク・アマルの包み込むような眼差しが映る。(あなた様は、歴代のインカ皇帝の、まさに生まれ変わりなのかもしれませんな。生まれながらに、王なのか…――。)ベルムデスは、思わず、ふっと微笑む。と、トゥパク・アマルが不意にこちらを向いた。「何か?」少々訝しげに問うトゥパク・アマルに、「いやいや。」と、軽く手を上げてベルムデスが老練な穏やかな笑顔を返す。「何です?」と、神妙な顔になって詰めてくるトゥパク・アマルに、「いや、本当になんでもないのです。では、私はこれで。」と、笑顔で頭を下げると、ベルムデスはさっと立ち去った。トゥパク・アマルはそんなベルムデスの後姿を見送ると、暫し、眼下に視線を戻し、流れ来るリズミカルな打楽器の音と、微かに響いてくる笑い声に、再び耳を傾けた。 一方、ビルカパサの連隊の野営地の片隅では、かの黒人青年ジェロニモが円陣の中央に座り、素焼きの筒に皮を張った手製の打楽器を勢い良く打ち鳴らしていた。大地の奏でるような「タンタンタン」と響く野趣溢れる乾いた音は、深く、熱く、魂に染み渡る。彼の周りには、やはり、ビルカパサの連隊に参加している黒人男性たちが、老いも若きも、おおよそ30人ほどが集(つど)っている。ジェロニモの傍には焚き木の炎が赤々と燃え、額に汗しながら陶酔したように楽器を打ち鳴らし続ける彼の姿を、夜闇の中に浮き上がらせていた。その周りでは、数名の黒人兵たちがジェロニモのリズムに合わせ、ひょうたんを手に楽器のごとくに打ち鳴らしている。彼らの周りでは、それらのリズムに合わせて地を踏み鳴らして踊る者、歌う者、談笑する者がおり、そんな彼らの間から、幾度も「トゥパク様、万歳!!」の祝声が上がっては、酒よろしく水を酌み交わす姿が見られた。その集団の方に、コイユールを引っ張るようにしながら手を引いて、マルセラが元気な足取りで近づいていく。「ほらほら、はやく!!私たちも一緒に祝杯を上げなきゃ!!」マルセラの勢いにやや気圧さたような表情のコイユールに、マルセラがずいっと顔を寄せた。「あんた、最近、なんだか元気ないんだもん。たまには、パーッと騒がなきゃ!!ね、さ、いくよ!!」そう言い終るか否かの間に、マルセラは集団の中に勢いよく乗り込んでいく。「私たちも、入れてくれない?!」他方、今や連隊長補佐官でもあるマルセラのいきなりの乱入に、黒人兵たちの方が肝を抜かれたように、一瞬、緊張の空気が走る。しかし、すかさずジェロニモが人懐こい笑顔を向けると、「マルセラ様、入った!!入った!!」と、明るく呼び入れた。「そのかわり、今日は、無礼講ですから!!」と、全く物怖じしない調子で、楽器を鳴らしながら言う。そんなジェロニモに、「そういうセリフは、普通、こっちが言うんだけど。」と切り返しながら、マルセラも闊達に笑うと、円陣の中に入って座った。その後に続くように、「こんばんは。私も、ご一緒に…。」と、ややはにかんだ表情で、しかし、澄んだはっきりした声で挨拶しながら、コイユールも集団の中に加わった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.07.01
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再び、黄昏時の冷気を深くその身に吸い込むと、トゥパク・アマルはモスコーソのことを考えていた頭を切り替えた。彼には、今、まだ確実に勢いのあるうちに果たしておきたいことが、もう一つあった。トゥパク・アマルは、整然と隊列を成し、誇りを漲らせ、凛々しく歩みゆく義勇兵たちの方に視線を向けた。そして、インカ軍のために勇敢にも馳せ参じてくれた多くの黒人の者たちを、熱を帯びた眼差しで見渡した。黒人たちは、奴隷としてアフリカからはるばる南米の当地まで連れてこられ、スペイン人のもとで過酷な労働に従事させられてきた者たちである。且つまた、彼らは、この軍に加わるために、主人の目をかすめていかに危険な逃亡を試みてきたことか。トゥパク・アマルの心に、熱いものがこみあげる。この父祖の地に住むインカ族の者さえ保護する者の殆どなかったこの国で、はるか母国から引き離され、物のごとくに扱われながらも、これまで彼らを保護する者はインカ族の者たち以上に存在しなかったはずである。その苦難は、察するに余りあるものであった。トゥパク・アマルは再び、その包み込むような眼差しで、今や混成の軍団の一部をしかと成している黒人の者たちを見つめた。そう、トゥパク・アマルがもう一つ果たしておきたかったこと、それは、まさしく黒人奴隷の解放であった。事実、歴史上の資料によれば、1780年11月16日、彼は黒人奴隷解放令を布告している。トゥパク・アマルのこの解放令によって、彼及び同盟者たちの統治下に置かれた各地で、この日、すべての黒人奴隷が解放され、ついに己の身の、そして、心の自由を手にしたのだった。 かくして、解放令が布告された日の晩、高原の要所に陣を敷いたインカ軍本隊の広い野営場のそこかしこからは、打楽器のリズムと明るい歌声が上がり、高所に張ったトゥパク・アマルの天幕までそれらの音が流れ込むように届いていた。天幕を抜けて、高台から義勇兵たちの野営地を見下ろすトゥパク・アマルの傍に、老練の側近ベルムデスが近づく。ベルムデスは、トゥパク・アマルが幼き頃から、両親をはやくに亡くした彼の父親のごとく、近しく彼に接し、見守り、また、時に養育してきた壮年の重臣である。二人の見下ろす視線の先では、眼下の野営地のあちらこちらで焚き火を囲み、複数の義勇兵たちがそれぞれに円陣を組むようにして座り、何やら賑やかに談笑している様子が見える。よく見ると、そこに集っている兵たちは、多くが黒人の者たちのようであった。ベルムデスはトゥパク・アマルの方に軽く目配せしながら、温和な笑顔をつくって言う。「どうやら、黒人の兵たちが、祝杯を上げているようですな。」トゥパク・アマルも合点がいって、「祝杯…なるほど、そうでしたか。」と静かに微笑む。「皆、トゥパク・アマル様の出された黒人奴隷解放令を喜んでいるのでしょう。とはいえ、もう夜も遅い。そろそろ控えさせましょうか。」問いかけるベルムデスに対して、トゥパク・アマルは野営地を見下ろしたまま、「いや、まだよいでしょう。」と、変わらず静かに応える。「あの者たちは、永きに渡り、我々インカ族の者たちよりもさらに過酷な運命を侵略者たちによって強いられて参りました。今宵は、存分に、羽を伸ばすがよいでありましょう。」そう言って、眼下にゆるやかな視線を注ぎながら目を細めるトゥパク・アマルの横顔に、「それもそうですな。」と、ベルムデスもその目元に皺を寄せて微笑んだ。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ
2006.06.30
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トゥパク・アマルは、暗雲迫り来る近い将来を睨みつけるがごとくの険しい眼差しで、前方を見据えた。だが、彼の目は、決して光を弱めてはいない。その日の進軍を終え、夕暮れ時の荒野を野営場へ引き返す軍団を率いながら、彼は愛馬の手綱を握る手に力をこめた。たとえ、モスコーソ司祭が、いかように己(おのれ)を悪し様に宣伝して回ろうとも、キリスト教に反旗を翻していないという事実こそが、真実だ。トゥパク・アマルの毅然とした端正な横顔で、その美しい切れ長の目がいっそう鋭い光を放つ。実際、彼は、民衆のキリスト教崇拝を否定することなど一切してはいなかったし、むしろ、統治下に治めた各地の教会を厳重に保護し、スペイン人の神父たちにも危害を加えることは決してなかった。戦闘時にさえ、教会が血で汚されることのないよう、細心の配慮を払ってもいた。トゥパク・アマルは己の頭を冷やすように、すっと冷たい夕刻の風を吸い込んだ。吹き抜ける夕暮れ時の風は、既に初夏の気配がする。正面では、コルディエラ山脈に沈みゆく太陽が、その日最後の透明なオレンジ色の閃光を放っている。トゥパク・アマルを、そして、彼の跨る逞しい白馬を朱色に染めゆく陽光を、彼は真っ直ぐな目で見つめた。神への反逆を行っているのは、あなたの方であろう、モスコーソ司祭よ。永きに渡り、かの極道な代官たちが、非道な搾取や不法な税の取立てによって臣民の惨めな戸口から悉(ことごと)く金を搾り取り、かくして第二のピサロもかくやとばかりの暴虐の限りを尽くしていたのを、あなたは知りながらも放置し、否、それを利用して圧政を敷き続けてきた。カトリック教会の頂点に立つ者として、あるまじき行いに加担し続けてきたのは、あなたであろう…――神を恐れぬ真の反逆者、それは、モスコーソ、あなたの方だ!!そうである以上、あなたがどのような仕儀を行ってこようとも、決してそれに屈するわけにはいかぬ。今や殆ど山の端に姿を消しつつある太陽は、しかし、その光は長大な山脈の輪郭をくっきりと浮き立たせ、荘厳で鋭利な美しさを描き出している。トゥパク・アマルはその自然美を己の心に写し取るかのように、暫し、息を詰めて見守った。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.29
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このようにして占拠した地で、トゥパク・アマルは、かつてのティンタ郡の広場における時のように、インカの魂を呼び覚ますべく各地の民衆に高らかな演説を続けて回った。この頃から、彼の訴えの中では、この反乱が決して教会や僧職に逆らうものではないことを伝える色合いが強まっていた。彼は、「我々の行動は、強制配給、その他すべての人民を脅かす悪税などの、言語道断な習慣、悪政を破棄するためのものであって、決してキリスト教の道に逆らうものではなく、信仰を変える必要もない。」ことを、縷々(るる)説明した。それは、怒りの極みに達したモスコーソ司祭の発した回状――あのトゥパク・アマルをキリスト教の反逆者とみなし、徹底抗戦を激しく訴えた回状――を意識してのことである。彼は、モスコーソの回状に、苦々しい思いを噛み締めずにはいられなかった。反乱幕開け時から、キリスト教に反旗を翻すことは決してなかったトゥパク・アマルだったにもかかわらず、モスコーソの手によって、今やキリスト教へ楯突く呪うべき反逆者として仕立て上げられ、国中に広く宣伝されていた。もとより予測していたことではあったが、やはり、このことによる打撃は看過できるものではない。確かに、今、まだこの勢いのある時期は、その痛手も目立たない。実際、インカ皇帝の化身のごとくのトゥパク・アマルの進軍によって、深く感動した各地の多くの民衆たちは、モスコーソ司祭のあれほどの強烈な脅しにもかかわらず、インカ軍への参戦を否まなかった。だが…――と、トゥパク・アマルは、その事態を決して楽観はしていなかった。大量の銃や大砲などの火器を携えたクスコ及びリマのスペイン軍本隊との直接対決が行われた暁には、その勝機は必ずしも保証できるものではない。インカ軍の勢力に翳(かげ)りが出てきた暁にこそ、あのモスコーソの恐るべき影響力が多くの民の心に滑り込んでいくであろう。その時こそ、自らに押された「キリスト教への反逆者」という烙印の痛手は、はかりしれぬものになるやもしれぬ。特に、敬虔なキリスト教徒であることの多い、当地生まれのスペイン人たちの心が離れていく可能性は大きかった。トゥパク・アマルも形の上では洗礼を受けており、キリスト者の一人とみなされているが故に、敬虔な信者たちである当地生まれのスペイン人たちも、安心して彼を信頼できている側面があることは否定できなかった。いずれの方向から考えても、モスコーソの打ってくる手は、トゥパク・アマルには手痛いものであった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.28
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やがて、早朝、インカ軍討伐に向けてクシパタ郡の代官率いる部隊及び、クスコからの援軍が、つまりは、スペイン兵が、この山と川に挟まれた街道を進軍してくるのが見えはじめる。突如、街道沿いに出現した巨大な障害物に目を見張ったスペイン兵の前衛部隊が除去作業をはじめた時、山上に潜むインカ兵から一斉にオンダ(投石器)による無数の石が放たれ、スペインの前衛部隊を混乱に陥れた。トゥパク・アマルの号令と共に、機を逸せず、参謀オルティゴーサの連隊が小銃を中空に連発して敵の混乱を煽りながら、怒涛のごとく前衛部隊に突撃していった。混乱の極みに達したスペインの前衛部隊はまともに戦うことのできぬままビルカマユ川に落ち、あるいは、後衛部隊であるスペイン本隊の方へ一斉に逃走しはじめる。突如、前衛部隊が脱兎のごとく一斉に逃げ込んできたために、スペイン兵の本隊自体が混乱の渦中に陥った。その機をとらえ、そのまま混乱したスペイン兵本隊めがけ、アンドレス率いる連隊がサーベルや鈍器を手に、側面から一斉に切り込んでいく。アンドレスは黒馬に跨り自らが先陣を切って前線に立つと、その鮮やかな剣さばきで華麗に敵をなぎ倒しながら、同時に、軍団の兵たちを右に左にと指揮をして、いっそう敵を混乱に貶(おとし)めた。一方、味方の将であるアンドレスの、自ら敵の真正面切ってのまるで軍神のごとくな勇ましくも美しい戦いぶりに、インカ軍の兵たちは魅了され、高揚し、その士気は大いに高まった。さらに、インカ兵たちの打ち鳴らす激しい太鼓の音がアンデスの大地の神を目覚めさせ、角笛の高らかな響きが天空の神々を引き寄せる。そこへトゥパク・アマルの指揮のもと、義勇兵も含む残りのインカ軍が雪崩れ込むがごとくの勢いで、一斉にスペイン兵本隊に突撃を加える。戦闘が決するまで、殆ど時間はかからなかった。あえなくスペイン側の兵たちは、殆ど全く何もできぬまま敗走したのだった。今ここに、トゥパク・アマル率いるインカの民は、その武力と戦術によって、かつてこのラテンアメリカの地に広大なるインカ帝国を築き上げた、かの武勇に秀でた誇り高き民族たちの、まさしく、その末裔たちだったのである。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.27
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だが、既にこの頃には、トゥパク・アマルの数年間に渡る周到な反乱準備によって手を結んできた各地の同盟者たちが、一斉に立ち上がりはじめていた。さらに、トゥパク・アマルの派遣した側近ディエゴの分遣隊はそれらの一斉蜂起をよく援護し、反乱の火の手はますます勢いを増しつつあった。一方、トゥパク・アマル率いるインカ軍本隊は、各地に転戦してその勢力を拡大しながら、植民地支配を瓦解せしむためには必ずや奪還せねばならぬ、かつてのインカ帝国の旧都クスコ目指して軍団を進めていた。そして、その道程にある各郡を統治下へ治めるべく、対抗勢力との闘争を重ねていた。流血の事態は、トゥパク・アマルとて決して望むものではない。しかしながら、牙城クスコ奪還に向けて、クスコ周辺の主要な郡を統治下に治め、代官の職能を廃絶し、民衆を解放し、且つまた、兵力を増強するために、各郡の抵抗部隊――それは、スペイン側の抵抗部隊であるが――との戦闘は避けられぬものであった。そして、その日も、クスコへの道程にあるクシパタ郡への進軍を予定していた。クシパタ郡はコルディエラ山脈の谷間にある山岳地帯の郡で、長大なビルカマユ川がその郡の輪郭に沿うように悠然と流れている。かくして、この郡には既にクスコの戦時委員会から派遣されたスペイン人から成る援軍が銃器を携え、厳しい警護の目を光らせていた。また、当地の代官お抱えの部隊も、小銃を携え、且つ、よく訓練されていた。まともに正面から戦闘をしかけても、勝機は無い。トゥパク・アマル及び参謀オルティゴーサを中心に、アンドレスを含む各連隊長たちは、事前に慎重な戦略を練っていた。まずはその地形を詳細に吟味し、戦闘場所を絞り込む。そして、クシパタ郡の入り口付近にある街道沿いの低地にその場を定めた。そこは、コルディエラ山脈とビルカマユ川とにちょうど挟まれた山岳部の街道の一部で、敵がインカ軍の侵攻を食い止めるための進軍途上で、必ずや通るはずの場所だった。クシパタ郡の哨兵の目を逃れるため、深夜、その街道に密かに侵入したインカ軍の兵たちは、敵方の進路にあたるその街道の一角に、その進路を塞ぐがごとく石や木で巨大な障害物を構築した。土地勘に優れたビルカパサ率いる連隊が、主にこの障害物建造を担当した。この時は、武器を持たずとも参戦できたため、コイユールも障害物造りに参加した。そして、オルティゴーサやアンドレスら率いる複数の連隊からなるインカ軍本隊は、総指揮官トゥパク・アマルのもと街道に面した山の上に身を潜めた。街道の向こう側は、ビルカマユの川が流れ、自然の要害を成している。オルティゴーザ率いる連隊は、これまでの戦果として入手した小銃で武装し、アンドレス率いる連隊は主にサーベル、棍棒、斧などで武装していた。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.26
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書斎の豪奢な机に伏すようにしながら、モスコーソ司祭は地底から湧きだすごとくの低いしわがれた声で呻く。「トゥパク・アマル、目にもの見せてくれるわ…!」もはや、怒りの極みに歪むその顔には、青白い不気味な炎が炯炯と燃え上がる。モスコーソは、わななく手でペンを握ると、その「司祭」という絶大な名望と権力の名において、国中の司教区の神父たちへ回状を書きはじめた。歴史上の資料に残るその内容は、概ね、下記のごとくである。『トゥパク・アマルの反乱に徹底的に抵抗せよ。各地の司教は、決して、己の任地を放棄し、去ってはならぬ。司教がその教区に住まうことは、教区民の災難、生命の危機、疫病のときに、ひときわ重要である。イエス・キリストが言われたように、よき神父とはその子羊のために生命を犠牲にするものである。逆に、牧者の名に値しない神父とは、狼が子羊を食べにやってくるのを見ながら、彼らを危機に置き去りにするものである。トゥパク・アマルはティンタ郡で代官殺しという残忍な罪を犯した後、多数の人々を扇動して集落を襲い、災害と恐怖を与えている。これは考えられる限りにおける危急重大な事態であり、いってみれば狼が子羊を喰おうとしている場合に他ならぬ。もし、神父がトゥパク・アマルの襲撃を恐れて己の教区を見捨てるならば、その教区の子羊たちは、無学文盲であり、将来を見通す力も皆無な上に、自己への尊重も責任も持たぬ故に、反乱の暴徒に与(くみ)し、神と宗教と王に叛(そむ)くであろう。そのような事態を決して招いてはならぬ。従って、余はこの回状を緊急に発送することが必要と考えた。よって、教区の神父ならびにその代理は、いかなる口実、動機があろうとも、己の任地を決して離れてはならぬ。そして、それぞれの教区の信者たちには、スペイン王とその配下の役人たちに、忠誠・愛・服従を捧げ、決して反逆者トゥパク・アマルの悪事に加担せぬよう、うまく、また終始、説得するのだ。』モスコーソは、鬼のような形相で一気にそこまで書き上げると、ひと通り全文を見渡した。そして、決して書き忘れてはならぬことを、最後に、力をこめて書き足した。『なお、それぞれの教区の信者たちに次の点をよく言い含め、この反乱に与(くみ)することの、その罪の重大性を強く認識させよ。万一にも、この反乱に加担する者は、全財産を失い、その一族は末代までの恥となり、神にも人にも忌み嫌われるであろう。そのことを、よくよく言い聞かせるのだ。特に、各教区内のインカ族の者には、重ねて言い含めよ。そして、万一にも、以上の命に反する神父やその代理は、破門、その他、余の保有する権限で厳罰に処するであろう。最後に、この書面を受け取り筆写したしるしに署名をせよ。クスコにて。1780年11月14日司教フワン・モスコーソ』こうして、モスコーソ司祭を筆頭として、これらクスコのスペイン人有力者たちの反乱への対抗行動が、堰切ったように開始されたのだった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.25
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トゥパク・アマルの直観は正しかった。彼の側近フランシスコの追跡も虚しく、キスピカンチ郡の代官カブレラは、この時、這う這うの体(てい)で、しかしながら、ついにクスコに逃げ込むことに成功したのだった。真夜中の来訪者のもたらした、そのただならぬ知らせに、このクスコ市に多く在住していたスペイン人大物役人たちは顔面を蒼白にした。翌朝には、トゥパク・アマルの反乱の噂はクスコ市全土にたちまち広がった。人口2万5千の、このかつてのインカの旧都は、上を下への大騒ぎになった。クスコ市の代官バルデスは大至急、戦時委員会を組織した。本営を旧イエズス会の教会に置き、そこに集めうる限りの武器を集め、クスコ市内外のトゥパク・アマルの仲間が急襲をかけてくるのに備えた。さらに、至急、哨兵をクスコ市内や近郊のインカ族の多い集落に配備し、武力蜂起の勃発に険しい眼を光らせた。そして、すぐさま、副王ハウレギの膝元であり、且つまた、植民地支配の中枢、インディアス枢機会議本部の置かれている首府リマに向けて密使を走らせた。戦時委員会によって使者に持たされた書面には、概ね下記のようにしたためられていた。『ティンタ郡のカシーケ(領主)たるトゥパク・アマルが、当地の代官アリアガを殺害し、民衆を扇動して武装蜂起。これより、トゥパク・アマル一味の討伐に向け、クスコ市の戦時委員会ならびにスペイン王の全臣民は、国王のためにいかなる犠牲をも惜しむものではありませぬ。しかしながら、トゥパク・アマル率いる暴動は既に幾つかの郡に渡っているため、大至急、援軍をお送りください。』つまるところ、その内容は、早急なる援軍要請であった。その重大なる情報をもって、スペイン側の密使は、今、ついに首府リマに向けて走りはじめたのである。そして、クスコの僧侶たちもこれに呼応して行動を開始した。このクスコには、当植民地におけるカトリック教会の頂点に君臨する最高位の司祭、かのモスコーソがいた。トゥパク・アマルが反乱決行前に、この人物との目通りを試みたことをご記憶の読者もおられるかもしれない。モスコーソ司祭の豪邸で開かれた僧侶たちの会議では、多額の軍資金の援助が定められ、市民からも莫大な現金を集めることが可決された。また、僧侶たちは、多数の鉄棒を至急作り、武器として供出することを誓約し、さらに、100頭の牛を軍に貸与することを決議した。しかし、この時、スペイン人の誰よりも、いかなる行為よりも、その影響力を振るったのは、さすがにモスコーソ司祭、その人だった。トゥパク・アマルの反乱を知ったモスコーソは、普段は不自然なまでに慈愛深気に細めているあの目さえ、もはや周囲のスペイン人が見てもその変貌ぶりに恐れをなすほど、あからさまにギラギラと血走らせ、その貫禄づいた体を怒りに震わせた。「トゥパク・アマルめ…!!余の忠告を聞き入れずに、このようなことをしでかしおって…――!!」モスコーソは憤怒に燃える眼で歯軋りしながら、窓外に垂れ込める灰色の空を激しく睨みつけた。「この国でカトリックの頂点に立つ副王陛下に盾つく反乱行為は、神への反乱行為ぞ!!」そして、「たかがインディオの分際で…!!たかが、インディオごときが…余が司祭であるこの時に…!!」と唸りながら、呪いに満ちた形相で、次なる一手を打つべく這うように書斎へと向かっていった。 ◆◇◆はじめて、または、久々の読者様へ◆◇◆ 現在のストーリーの流れ(概略)は、こちらをどうぞ。
2006.06.24
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