顕正会脱会のススメ!

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2013.01.26
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宗祖の御書に書かれた供養のうち、銭(ぜに)に関しては、二十数人から「百六十数貫」にのぼっており、昭和51年当時で一千万円を超える莫大な金額となっている。(聖教新書32『御書に見る鎌倉時代・167頁』)

真書が滅した御書も相当数あるからおそらくこの倍近い金額が具わっていたと考えられる。当時のカネは日本で鋳造されたものではなく「宋銭」、つまり中国の貨幣が信用され、使用されていた。

昭和三十二年、大石寺の大講堂を新築するさい、木箱に詰められた古銭が二千枚ほど発掘された。明治初年まで「遠信坊」のあったところだが、この場所こそ、日興上人が大石ヶ原に建立した大坊(六壺)が建立された場所であったと推定されている。

古銭の種類としては、大聖人の時代に使用された「北宋銭」や足利時代に流通した「唐銭」が混入しており、大聖人・日興上人の御遺物に歴代の上人が広布の日に備えて蓄えられたものが、大事にされすぎて手つかずになったものと推察される。


分量の基準を云えば、日本酒の標準的な容器(一升瓶)が約1800ミリリットル。その10分の1が1合、10倍が一斗、さらに10斗を「一石」である。つまり、よく御書にある米一石とは、一升瓶に米を入れて百本分という分量となる。米一石が銭一貫文で、現在に換算すると約10万円くらいである。 宗祖の信者はけっこうな量の御供養をしていたものです。(笑)、

しかし、この時代(鎌倉時代)から江戸時代にかけて米は主食ではないことをしっかり覚えておくべきである。ましてや宗祖のような出家が米の飯を食するということは特別な行事や法要のめでたい時くらいで、米はハレの食事だったのである。(網野善彦『日本史の虚像のゆくえ』大和書房)


江戸時代もそうだが、米は主に貨幣の替わりに流通していたもので、よほど豊作で余剰米が出ないかぎり一般庶民には特別な行事(法事・祭事)のさいに食するものであった。故に御書に書かれた「米」の量は他の雑穀に替えられたと考えてよく、食料そのものの蓄えはけっこうな量にのぼると思われる。

米に限らず、宗祖は集積していた「塩」を銭や必需品に交換している。『上野殿御返事』に、「七月なんどはしほ(塩)一升を銭百、しほ五合を麦一斗にかへ候しが、今はぜんたい(全体)しほ(塩)なし」とある。宗祖は精進料理なので調味料は使用しないので寄進された塩などは他の物品に交換していたものである。

以前この内容を出したのだが、自称俳優hideは、この内容を皮肉っている。

御書に存在しない人物に授与された御本尊が多数ある事 をまさか?知らないと言うのであろうか?

また、真筆御書の大半が失われている事くらい、いくら習ひそこないでも知ってる事であろう。

つまり、今現存する御書のみを見て、大聖人は貧乏だと決めつけるのは、ただの習ひそこないの学者である。

>身延に庵室が造られたのは、文永11年の6月で、この建物は3間4面、高さ7尺の小さなものであった(『日蓮と本尊伝承』92頁)

>右の如き状況の中に、5尺弱の厚板に漆・金箔の施された巨大な板本尊が、台座に据えられて安置されたことを想像するのははなはだ困難である。(同94頁)

こういう事を出すだろう。

たしかに『庵室修復書』等の記述によれば、大聖人の住まわれた建物は、さほど大きいとは感じられない。しかし、

●人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば(弘安元年11月29日御作『兵衛志殿御返事』御書1295、全集1099頁)

●抑(そもそも)貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目(がもく)其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ(弘安2年8月11日御作『曽谷殿御返事』御書1386、全集1065頁)

このように、多くの人々を身延の地に収容しえた状況を勘案すれば、庵室はともあれ、身延の建物のすべてが、戒壇の大御本尊を安置できないほど狭隘(きょうあい)・狭小なものでなかったことは明らかである。(森岡雄樹 御尊師『大日蓮』H20.5)

御書から見ると、多くの信者が当時の身延に参詣されていた事が分かる。



ちょとした常識があれば、言う事無い邪義である。

小氷河期説は、簡単に破折できる。

そもそも小氷河期とは、太陽の黒点が消滅して起こる説と、火山活動の大噴火による説とがあり、14世紀半ばから19世紀半ばまで続いたという説と、太陽の黒点が消失した17世紀から18世紀までとの二説があるのである。もし、脳乱して痴論を吐くが如き 鎌倉時代が小氷河期で温暖性の樹木が枯渇したのであれば、同じく温暖系の植物である米が生育するのは大矛盾であり、他の温暖系の植物が枯渇した記録は、吾妻鏡にも無い。
小氷河期とは、「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と定義されている。 平均気温が1°C下がって温暖系の樹木がすべて枯渇するのであれば、鎌倉時代に温暖系の植物は壊滅的事態に遭遇しているわけである。そのような史実は無いのである。


無知徒輩に云っておく。・・・もちっと、 平均的な史学を学んでから論じろ!!





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Last updated  2013.01.26 18:49:06


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