北海道廃線2000キロ ― 廃線跡を歩く・写真で記録するウォーキングブログ ―

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商品はすぐに届きました。まだ使用していませんがキャンプに行くのが楽しみです。 [ >> ]
2026.03.20
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はじめに:一歩踏み出す、歴史の轍(わだち)へ

群馬県・横川駅から長野県・軽井沢駅まで。かつて信越本線の一部として、多くの旅人と物資を運んだこの区間には、日本の鉄道史において「最も過酷」と呼ばれた峠がありました。

1997年の北陸新幹線開業とともにその役割を終えた線路は、今、自分の足で歩ける遊歩道「アプトの道」として再生されています。見上げるような高い空と、深い緑に飲み込まれそうなレンガの遺構。なぜここに、これほどまでに巨大な鉄道施設が必要だったのか?

今回は連載の幕開けとして、私たちが歩くこの「廃線跡」に刻まれた、104年にわたる闘いと進化の歴史を紐解いていきましょう。

1. 鉄道の限界に挑んだ「最大勾配 66.7‰」

明治時代、東京と北陸を結ぶ大動脈として建設が始まった信越本線。その最大の障壁が、横川〜軽井沢間に横たわる標高差 553m の急斜面でした。

ここに敷かれた線路の勾配は、驚愕の 66.7‰(パーミル)

これは「1,000m進む間に66.7m登る」という計算になります。通常の鉄道が滑り落ちてしまうほどのこの急坂を克服するため、当時の技術者たちはある特殊な仕組みを導入しました。


2. 歯車で登る「アプト式」の時代(1893年〜)

1893年(明治26年)、ドイツから輸入された「アプト式」が採用されました。

仕組み: 2本のレールの真ん中に、歯車のような「ラックレール」を設置。機関車側の歯車をこれに噛み合わせて、力強く坂を登る方式です。

過酷な旅: 当時は蒸気機関車。26ものトンネルが続く区間では、乗客も乗務員も機関車の吐き出す猛烈な煙に包まれ、まさに命がけの越境でした。

現在、遊歩道として歩ける「めがね橋(碓氷第三橋梁)」などは、このアプト式時代の輝かしい遺構です。


3. 日本初の電化と「峠のシェルパ」EF63(1912年〜1997年)

煙害を克服するため、1912年には日本で初めての幹線電化が達成されました。そして1963年、さらに輸送力を高めるため、アプト式を廃止して通常のレールで登る「粘着運転」へと切り替わります。

ここで主役となったのが、伝説の電気機関車「EF63形(通称:ロクサン)」 です。

すべての列車が横川駅で停車し、後ろに2両のEF63を連結。後ろからグイグイと列車を押し上げるその姿から、この機関車は敬意を込めて 「峠のシェルパ」と呼ばれました。また、 この連結作業にかかる「待ち時間」が、あの有名な駅弁「峠の釜めし」を全国区の人気へと押し上げたのです。



4. 1997年、歴史が動いた日

100年以上にわたり、技術の粋を集めて守り抜かれた碓氷峠の鉄路。しかし、1997年10月1日の北陸新幹線開業により、その歴史に終止符が打たれました。

新幹線がトンネルで一気に峠を駆け抜ける裏側で、横川〜軽井沢間の在来線は廃止。しかし、線路が剥がされた後には、私たちが今歩くことができる「道」が残されました。

次回予告:標高940m、軽井沢から始まる「下り」の旅

歴史を知ると、ただの道が「物語の舞台」に見えてきませんか?

次回の記事では、いよいよ軽井沢駅を出発。かつて特急「あさま」がEF63に支えられながら慎重に下った、あの急勾配を自分の足で辿ります。

高原の風を感じながら、深い森の中に突如として姿を現す巨大なレンガ遺構。そして、歩いた後に待っている「最高のご褒美」とは……。

「第2回:軽井沢から霧積の森へ。標高差553mを下る廃線ウォーキング」



EF63 回顧録 [ (鉄道) ]

ビコムベストセレクション::碓氷峠の鉄路よ永遠に... 平成9年秋に廃止となった信越本線・横川ー軽井沢間の記録 [ (鉄道) ]








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最終更新日  2026.03.20 08:09:45
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