August 26, 2006
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カテゴリ: 未来社会の構造
ユートピアとフレームワーク


●トマス・モアの 『ユートピア』 、カンパレルラの 『太陽の都』 、ウィリアム・モリスの 『ユートピアだより』 に描かれた社会は、何れも単一の価値観に基づく社会である。

●しかし、単一の価値観や人間のあるべき姿にそって造られるユートピアは、選択の自由の少ない社会であるに違いない。あるべき姿から程遠い人達にとっては、きっと肩身の狭い社会であることだろう。

●あるべき姿から程遠いかもしれないが、人に迷惑を掛けるのでなければ、どのような宗教、思想、ライフスタイルも許されるのが本物のユートピアではないかと思う。ユートピアとは理想的な人間達の社会ではなく、理想から程遠い人間でもハッピーに暮らせる社会なのではなかろうか?
●思想・信条の違いによってユートピアの姿も異なる。未来社会は、選択の自由に基づき、様々なユートピアの存在を許容するものでなければならない。

●単一のユートピアは、人によっては牢獄と感じるかもしれない。多種多様なユートピアが許容されなければならないとすれば、ロバート・ノージックが 「アナーキー・国家・ユートピア」
●ノージックは、このフレームワークは彼自身の唱える最小国家であると言っている。

未来社会では様々なユートピアが生まれる

●現代世界の国には、多種多様な考えを持つ人間が混在していて、これを国という枠で有無を言わせず括ってきた。「民主的な選挙」が行われる国では、最大公約数的な考えで政治が行われることになる。
●しかし、シルビオ・ゲゼルが提案するような自由土地の世界では、国が無くなり、移動の自由が保障されるので、人種や民族よりも宗教、思想や生活スタイルを同じくする人達を地域別に集めることになるかもしれない。

●自由土地と同様に未来社会では、宗教、思想やライフスタイルを同じくする人達が集まって地域が形成され、自治が行われるようになる。勿論、雑居状態が好みの人達も大勢いることであろう。
●もしも、外部地域からの干渉が無い場合、カルトや排他性の強い人々を結集した地域自治が行われ可能性も高くなる。アドルフ・ヒトラー、サダム・フセインや麻原彰晃のような人間が登場し、独裁国家や宗教国家もどきの政治が行われるようになるかもしれない。

●ノージックは、「自身を奴隷に売る自由もある」という。ここまでいかなくても、宗教に見られるような(自分の意志での)教祖への絶対的服従のようなものもある。リバタリアン的な自由尊重主義の社会であったとしても、(権威を求める自由意志による)中央集権的な政治が行われる可能性を否定できない。

フレームワークの条件

●ところが、未来社会は選択の自由に基づく社会であるので、いずれのユートピア(地域)に入ることも、そこから出ることも自由でなければならず、 無境界選挙 の実施も条件づけられる。
●更に、全てのユートピアは、投資配当システム、無相続制度など世界共通のインフラを共有している。どのようなユートピアを建設するかは地域の人々の自由であるが、このインフラの枠を踏み外すのでない限りでのことである…ということなので、ヒトラーやフセインのような人物が政権を取るようなことにはならない。

●無境界選挙では、通常、地域外の人々は疎遠な地域の選挙を棄権し、暗黙のうちに「地域内自治」に同意する。外部地域の人々が、危険な「自治」が行われるているのではと認識するや否や、内政干渉的な投票を行うようになる。

●無境界選挙は内政干渉であろうか? 自由の侵害、多数者による少数者の封じ込めであろうか?


●ノージックのフレームワークは暴力、盗み、詐欺からの保護、契約の履行などに限定される最小国家である。政治権力は必要最小限の機能しか持つべきではないとの考えには同意できる。
●私の考えるフレームワークは、上記のような機能も勿論含まれるが、機会の平等、無相続制度、配当システム、選択の自由をベースとしたものである。

●ユートピア社会とは、愛や理性に満ち溢れた神や仏のような人間だけの社会ではない。人に迷惑を掛けなければどのようなライフスタイルも可能でなければならない社会である。
●移動の自由により価値観を同じくする人達が集合した様々なユートピアができ、人は好みの「ユートピア」を比較秤量して、自らの居住地を定めるようになるかもしれない。人気の高いユートピアは人口が多くなり、偏狭なユートピアは少数精鋭になるのだろうか。

理想的社会は理想的人間の社会ではない

●未来社会は、配当システムによって人に役立つような活動をすべく動機づけられてはいるが、「人に役立つこと」が最高の理念であってはならない。


●平等とは機会の平等である。自由とは言葉としての「自由」や意味不明な「精神の自由」でもはなく、「選択の自由」である。
●愛や神に関して言えば、その抽象的定義とは別に、政治の具体的な場面ではどんなことでも「愛」や「神」の下に正当化されてしまう。
●愛という言葉ほど重宝なものはない。性欲は性愛として語られ、戦争も愛国心の名によって行われる。愛という言葉ほど主観的・抽象的なものは無い。「押し付けがましい愛」や「独りよがりの愛」もご免こうむりたい。ということで、私は不必要に「愛」という言葉は使わないようにしている。
●愛と比べて、「人に感謝されること」や「人に迷惑を掛けないこと」は、それよりもずっと客観的・具体的である。
●どのような言葉が使用されるかよりも、行為そのもので良し悪しを判断すべきではなかろうか。

●宗教心の強い人や特定の思想を信奉する人は、自らの思いによってユートピアの姿を描く。ユートピアではなく、様々ななユートピアのフレームワークを考える人は、全ての宗教や思想から距離を置く必要がある。

●十分な愛や理性を持っている人も持っていない人も、それどころか様々な欲望や情動をもっている人達が、互いに迷惑を掛けずに地域的な棲み分けを行い、時に競い、時に協力して、自らの望む人生を送れるような社会…以上の「理想という型に嵌められた社会」は、少なからぬ人達にとって、選択の自由とトレードオフになるのではなかろうか。

●理想的世界とは、理想的な人間達が形成する世界ではなく、フレームワーク(仕組み)が理想的な世界のことであり、その仕組みが人間を人間的にするのである。





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最終更新日  August 26, 2006 04:01:22 PM
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