2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全12件 (12件中 1-12件目)
1

明日から10月。早速2日は、スポレク2005で体育指導委員としての初仕事です。滝沢村体育館前で、写真入りしおりコーナーを担当しています。もしこれたら声を掛けてください。滝沢村は年代別バドミントン競技会場です。
Sep 30, 2005
コメント(1)
昨日ラグビーの練習にいった、息子。自転車にノーヘルで行ってしまい2週間自転車禁止。徒歩40分以上かかるのだ。 がっかりしてもしょうがないけど、もっと短くても身にしみるとは思うけどな。規則だからしかたないんだろうか。 とにかく規則は絶対らしい。
Sep 24, 2005
コメント(0)
写真の登録がうまくいかず、やっとできましたが、暗くなってしまいました。
Sep 24, 2005
コメント(0)
>今日は、ブライダルが二つでした。 同じホテルで、担当が同じ、11時半~15時・15時半~20時とてもきびしいので、助手を1給2千円で雇いました。 で、さっきおわり帰宅、もうダウンですがPCの前に座っちゃいました。 疲れたけど、結婚式って夢があって、暖かくていいよね、助手もそう言ってました、あそこには悪意がないよね。 ニューウイングの牧さんありがとう、仕事まわしてくれて、
Sep 17, 2005
コメント(1)
今日は、市内小学校の球技大会の取材で出かけました。 女子はバスケ、男子はサッカー。 今年は2校でした、毎年取材の学校は弱くてあまりいいシーンは撮れなかったのですよ、ところが駅前の桜城小サッカーが3部で優勝しました。 ゴールシーンもバッチリ。その瞬間っていいよね、生徒の感激がとても伝わってきてこちらもとてもうれしかったし、楽しい取材でした。 そのちょっと前の附属小のバスケも勝って、いい感じだったので2倍たのしかったです。 わが息子にはいまのところそんなシーンは来なさそうですが。 しかしよかったね桜城のみんな。
Sep 16, 2005
コメント(0)
>昔の話。 僕はさだまさしのファンです、といっても小学生の頃はグレープ、 その後初期のさだまさし、そしてしばらく忘れてました。高校、大学と、 就職、岩手にきて結婚、この妻がさだファンで、僕も復活。 地方はいいですね、コンサートチケットが手に入りやすい、県民会館によく通ったものです。 しかしファンたるもの究極は、やはり「生さだ」ですね。 数年前までは、毎年来てたんですよ、盛岡に、そして青森や秋田にも。 実は当時さださんは安比タワーに部屋をもってまして、東北のコンサートにはここに泊まってる というある情報があり。 十和田でのコンサートの夜、会えるかもしれないと淡い期待をもちながら泊まったのです、妻と・・・。他はありません。 しかし、でも会えるなんてね、思わないよね。そして万が一見たとしても、声掛けられないよね、普通。 安比グランドにはプールが見えるところにビリヤード台がある、いわゆるプールバーというところがあって、いわゆるスナックです。 夜、暇なんでそこで妻とお酒をのんでたわけね、ところがしばらくして妻が、「あっ、て言うわけ」「何?」「あの人さださんのおにいさんにそっくり」 妻はさださんの兄弟の顔まで知っている、普通ないね。で、僕が後ろをふりむいたのさ、「あっ」後ろのいすに座っているのは、さだまさし本人でした。 「うしろ、本人だよ」僕。「えっ」妻。「あっ」妻。「何?」僕・・・「さだれいこ」妻。 妹のさだれいこも最近売り出していたのです、同じ声で、違う歌。(あたりまえ) なんと、さだ企画の全社員、つまりコンサートスタッフがそこにいたのです。・・・ふたり固まる「どうしよう」。 しばらくして、あんまり後ろをちらちらとみるカップルがいるのにきずいた、ビリヤードをしたいるさだ兄弟。(まさしとれいこ) 「あのー、やりますか?」とまさし様に声をかけられちゃった。「あっいいです」と僕。 しかし、ひるまず僕、「写真いいですか」「はい」さだ氏。 そして4人で「はいポーズ」、あれっだれがシャッターおしたのだっけ、ホテルの従業員でした。 我が家の家宝であり、ご近所に自慢こいたのは「当然の報いです」じゃなく・・・・しゃべりまくりました。 実物が見たいかたは、コメントください。もったいないですが、若き日の僕を公開します。
Sep 14, 2005
コメント(2)
昨日寄った奥中山の福田床屋さんで、娘の保母(埼玉県)に滝沢のふじなでしこ幼稚園で昨年沖縄の踊りをやったという情報からそのビデオの入手を頼まれ、各方面にあたっていたところ、今日おやじの会ソフトボールの試合で監督がその幼稚園の事務長であった、なんとこんなそばにいたなんて、不思議なことは多いものです。早速たのみました。
Sep 11, 2005
コメント(1)
今日は県北にある保育所の運動会、幸い天気は曇りで園児にとってもいい環境だったのではないだろうか。暑いとかなりまいるのだ。 ビデオの撮影をたのまれてかなり長い、所長さんはもう4代は変わっているね、それにしても子供たちはかわいい、無邪気な子が多い。 なんといっても田舎の子供は元気で、照れがない、すれていない。大変たのしい撮影だった。 帰りには弁当つき、おいしかったが量がかなり多かった。 また、帰りによった床屋さんで、とうもろこしとおせんべいをいただきまたまた感激でした。GOOD奥中山。 3時からは滝沢村の福祉まつり、私は後片付け専門でテントを4はり片付け、缶ビールとミスト噴霧器を購入、なにごとも協力です。 長かった一日、シャワーをあびて今PCの前。
Sep 10, 2005
コメント(2)
今日は村のラグビー祭、息子と一緒にラグビー場へ行って中学の応援(ビデオ撮影)をしようと思っていたらなんと、試合の相手だって。 なんと40歳で引退してから6年間なまりきっている体。 高校生と7人制で7分ハーフ、さすがに短く少し弱い相手だったのでなんとかできた。 次は中学生と12人制の20分ハーフ、結果は15-12で負けはした、しかしかなり手抜きをしていたのも事実。 それにしてもどうしようもないのがこの心臓、走っていると破裂しそうだった、体はハードさにはだんだん耐えられなくなっている。 BUT、おもしろかった、やみつきになりそう、密かにトレーニングの計画中。 来年の報告は、いいものにいたいね。 息子は1年生の水くみでした。
Sep 4, 2005
コメント(1)
>我が兄弟は4人。 長男は現在仙台で家もち、家族5人で暮らしています。 長女はフランスはパリ、家族3人。だんなさんはユネスコや他2つの道場を持つ空手マン。(沖縄出身)11年会っていない。 次女が、昨日12年ぶりに会った姉。現在は沖縄の那覇市に一人暮らし。 高校の時家出未遂歴あり、卒業後原宿のブティックに勤める(その頃「東京キッドブラザース」に入団)。 まもなく早稲田サッカー出で画商(千葉県)と中野サンプラザで結婚、6ヶ月で破局。姉が1回目の蒸発事件。 後始末は父と長男がする。 2年ほどで連絡がとれ、四国にいることがわかる、その後すぐ京都のちゃんこの民宿で住み込み、私は会いに行く。 1年後東京に舞い戻りなんとか仕事をして暮らす(その頃「夜逃げの一座」に入団)。長女と共に東中野のアパートに住む。 いつのまにか「創価学会」にはまりがんばって唱えていました。 私が岩手に来た20年前に姉も東京を引き払い、「創価」もやめ秋田の実家に帰る。 秋田ではデパガ(ハウスマヌカン)をしていた、その頃陶芸家と付き合い彼が、岩手の浄法寺に釜場を開くのを手伝う。 7年ほどがんばったが、ある日陶芸家の彼が我が家にやってきて、盛岡駅で待ち合わせをしていたのだが現れないと。 そのまま蒸発2回目。 実はもう一人つきあっていた「共同通信社」の記者が外国で亡くなったことのショックもあったらしい。 そして問題は、ローンもたくさんあったらしい。父と長男が対応した、父は退職金の一部を投入。 絶縁しても親子、10年後には沖縄の石垣島にいると連絡あり、仕送りをする。 とにかくふわりふわりとした方、昨日で49歳、いろんな出会いの宝庫でもある。 竹富島に写真家「星野道夫」が滞在して本を執筆していたときにいろいろと交流があったらしい、かれの本の裏表紙の彼自身の写真は姉が撮ったものらしい、昨日聞いた。 その後星野氏はアラスカで白くまさんに食べられて亡くなる、そのときも彼が霊となり会いに来たと語っていました。 4年ほど前、姉から「ガイアシンフォニー」のポスターと星野さんからもらったインデイオのアラカパの帽子が贈られてきました。(大切にしてます) その姉が誕生日割引で2万円くらいで往復できるとのこと、仙台間。やってきましたよ、なにせ長男が今12歳だから会ったこともないのでそのギャップをうめるためのビデオ鑑賞は大変なものになったのは言うまでもないでしょう。 今日秋田に帰りました。
Sep 3, 2005
コメント(2)
>まゆみさんの場合 20年前、岩手の北にある障害者施設に転職してきた。 同期に彼女はいました、二つ年上で明るく、勤勉で、思いやりがあるステキな方だった。(密かにあこがれていました) 仕事でのいろんな思い出がありましたが、8年ほどして彼女が退職することになったのです。 姉が病気で面倒をみるため盛岡にある、同法人施設への移動願いがかなわないためでした。残念でした。 その後すぐ私も盛岡市内の新設施設に転職することになり退職したのです。 それから2年がたち、偶然彼女が働く養護施設に出かけることになり、玄関先でばったり会ったのです。 少し化粧が濃いなと、そのとき思いました、そのうち飲みにいこうなと約束をしてわかれたのですが。 それから数ヶ月、養護施設の主任さんとある研修会で一緒になり彼女が病気療養中であると聞かされたのです。 しかしあまり気にすることなく数ヶ月がすぎ、また主任さんの電話で、彼女が亡くなったとこを告げられました。「ガン」でした。 かなり長く病気と闘い、とうとう・・・。 分かっていれば、絶対会いに行ったのに、悔やみました。本人はやつれた姿を見せたくなかったのだろうと、誰かが言っていました。 42歳だったかな。密葬ということで主任さんに言われましたが、元職場の方に連絡して葬式には多数の昔の仲間が一緒に見送ることができました。 忘れないのは、通夜のよる棺おけの中の彼女の顔がきれいだったけど、蝋人形のようだったこと。 彼女のふるさと田老町を通るたび思い出します。
Sep 1, 2005
コメント(2)
>昔、21歳。大学4年生で、卒業単位はあと少しの後半。 東京都武蔵野市に住んでいました、三鷹駅西口付近だったかな。 小さな商店街にあるスナックでバイトしてました、そこに同じ歳くらいのパチンコ店で働く青年が、店長に連れられてよく飲みにきてました。 名前を「竜二」りゅうじって言ってました。偽名でしたが。 訳ありで、同じ秋田の能代出身だったのでプライベートでも時々飲みに行ったりもしたんです。 元旦の夜、店の女の子二人とりゅうじ、の4人で近くの神社に初詣に行ったりもしました、飲酒運転でした。学生時代の楽しい思い出の時期。 春、卒業した私はとある会社に就職し、まもなくスナックの女の子から電話をもらいました。 「りゅうじが自殺した」でした、私は言葉を失いました。 自分の知らないりゅうじのことを、いろいろ聞きました、秋田で交通事故により人を死なせていられなくなって東京に来て、パチンコ屋で住み込みだったとか、スナックの何人かの女の子から結構の額のお金をかりたままだったとか、その他借金があり苦しくなって、中央線の陸橋の下で首をつったのだとか。遺体の引き取りに秋田の親が来たようだとか。(事故が人生を狂わせたエピソードといえば簡単なのだが。) 小説ではないリアルな感覚が今でも忘れられない。本名は聞いたがもう忘れた、しかし彼「竜二」が確かに生きていたことは一生忘れない。 私たちは生きているといろんな死に直面する。仕事は老人介護なのだから、それはこれからも多いだろうが、若くして人生半ばで閉じることの無念はあるのだろう、忘れないで時々語るのも供養かも知れない。
Sep 1, 2005
コメント(1)
全12件 (12件中 1-12件目)
1

![]()
