上海問屋ブログ

PR

×

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

donya

donya

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

sbomber @ Re:日本語大型液晶搭載 タッチパネル学習リモコン(03/03) こういうのより、EG-LR320を復活させて欲…
mkd5569 @ Re:今日から8月! 8月最初の「今週末のお買得」(08/01) 朝のブログ更新おつかれさまです。 あっ…
mkd5569 @ Re:週半ばですが… 今週のお買い得♪(06/05) ブログ更新おつかれさまです。 今日もが…
上海マニア@ 999円MP3は 以前販売されていた999円MP3プレーヤーの …
ひろし@ メールに偽りあり VIP版のメールで、「A-DATA PD7-200X Silv…

フリーページ

2008.01.09
XML
カテゴリ: その他



鎖国時代の日本に来たドイツ人。オランダ人を名乗っ
ていたがオランダ人ではない。医学会の名門の家に生
まれた、このドイツ人は、探究心と冒険心が旺盛で、
ヨーロッパでは当時未開だった日本という国に興味を
示し、危険を顧みず日本に来る。プロイセン(今のド
イツ)から日本の内情視察を、命じられて来たと言う
説もある。






い。シーボルトはオランダ人としてオランダ政府経由
で、日本に入国している。当然、オランダ人として振
舞うが、オランダ語が話せる日本人もいる。そんな日
本人は、シーボルトのオランダ語が、何か不自然な事
はわかる。それを聞かれて、シーボルトは、山地出身
のオランダ人だからと答えているが、オランダには山
地は無いという事なので、ずいぶん適当な返答だ。





決闘

シーボルトは、ドイツ時代に、数十回「決闘」を
したらしい。この「決闘」というのは、どういう物だ

劇のガンマンみたいに、ピストルで打ち合うという事
らしい。当時頻繁に行われた。お互いに、一発だけ打
つという事だ。





「決闘」についてもう少し考えてみる。「決闘」どう

んな決闘を、そんなしょっちゅう(数十回)、やって
生き延びているとしたら、伝説のガンマンも真っ青な
腕前では、ないだろうか?シーボルトの顔には刀傷も
あったらしいので、「決闘」とは、割といろんな方式
があって、激しい場合は、刀で切ったり、ピストルで
撃ったりする。軽い「決闘」の場合は素手で殴りあっ
たりといろいろな方法があったのではないかと想像し
てみる。それにしても、数十回の「決闘」とは、ずい
ぶんと血の気が多かったという事が分かる。





さて、血気旺盛な青年シーボルトは日本にやって来た。
鎖国状態の日本では、外国人が自由に出歩く訳には、
当然いかない。自然、長崎の出島内で、駐在の医師と
なる。この時まだ、30歳にもならないシーボルトは、
独身で、健康だ。そんな健康なシーボルト青年は、長
崎出島内に出入りのあった遊女、楠本滝さんを見初め
る。来日3ヶ月でシーボルトは、遊女の、楠本滝と結
婚。青年シーボルトは、この辺も早い。





楠本滝遊女であったと言われている。

遊女

古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを
職業とした女。
あそびめ。うかれめ。遊君。遊郭の女。女郎。遊女と
いうのは、辞書で調べると、こんな感じであり、寝所
を舞台とする職業だ。楠本滝は、遊女だったというの
が、一般的な歴史上の見解だが、時として一般的な認
識という物は、間違う。楠本滝は、遊女ではなかった
。という説が最近ある。偶然、歴史的に誤解されただ
け。という話だ。





楠本滝は、遊女ではなかったのか?遊女では無かった
という根拠として、一つ目に考えられるのが、日本に
来て3ヶ月程度のシーボルトが、客として遊郭に通い、
楠本滝を遊女揚げし、妻にするには、期間が短すぎる
という事。二つ目は、もし遊郭から遊女揚げするとし
ても莫大な遊女揚げ代銀を支払わなければならず、
シーボルトがそれを用意する事は、不可能であったと
いう事。この説、どうももっともらしい。しかし疑問
が残る。では、出島に居て自由に出歩く事の出来ない
シーボルトと、楠本滝が如何にして出会ったのか?





シーボルトと楠本滝の出会い。どうやらシーボルトは、
来日して、すぐに長崎奉行の依頼で、出島より出て、
日本人の患者を診察したらしい。この時に、楠本滝と
出会ったと言うのが定説のようだ。診察しに来た外国
の青年シーボルトと、17歳の楠本滝は、一目ぼれをし
たという事になる。その後、出島に戻ったシーボルト
を追って楠本滝は、出島に向かう。しかし、出島には
一般の日本人は入る事が許されていない、入る事が許
されているのは、丸山の遊女のみ。そこで、楠本滝は、
遊女に扮装し紛れ込み、愛しのシーボルトに会いに行
った。これが後に楠本滝は、遊女である。という誤解
の原因になった。





シーボルトは、楠本滝と結婚した後、故郷の伯父に宛
てて、このような手紙を送っている。「小生もまた古
いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日
本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロ
ッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」





シーボルトは、楠本滝を余程愛していたらしく、日本
で見つけたアジサイの花に、「オタクサ」と名付けた。
これは、楠本滝を、お滝さんと発音できずに「オタク
サ」になったもので、アジサイにお滝さんという名前
を付けたという事。シーボルトは、オランダに戻った
後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、
先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、
別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなって
いない。





シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、
「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデ
ンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表
していた為に、正式な学名とはなっていない。しかし
正式な学名として誤解している人もいる様で、未だに
オランダでは、アジサイを「オタクサ」と呼んでいる
人もいるという話がある。ある学者は、遊女の名前を、
この美しい花に付けたと言う事で、非難しているらし
いが、そもそも楠本滝は、遊女ではないようなので、
そうなれば的外れだ。





シーボルトは、鳴滝塾という塾を開設する。この塾で
シーボルトは西洋医学を講義し日本の医学会に大きく
貢献した。後に深くシーボルト一家と関わる事になる
二宮敬作も、この中にいた。鳴滝塾シーボルトは鳴滝
塾という私塾を開講した。鳴滝はシーボルト自身が長
崎一の健康地といっただけの事はあり、渓谷と木立に
囲まれた美しい場所だった。シーボルトはこの鳴滝に
日本人名義にて家と土地を購入週に1回ないしは2回
この家で病人を診察したりしていた。また日本全国か
ら集まってきた学生に西洋医学を教えたりもした。
シーボルトは日本に関する様々な著述を残しているが、
この私塾の門下生たちの協力に負う所が多かったとい
う。





シーボルト・イネ1827年、この時期シーボルト夫婦に
子供が生まれる。イネと名づけた。その後このシーボ
ルトイネは日本初の女医になるのだが、それはまだ先
の話。イネをもうけ幸せなシーボルト一家だがシーボ
ルトには任期がありオランダに帰ることになる。帰国
は1828年。イネ誕生の一年後だった。





シーボルトは、日本人になろうと思った。思っただけ
ではなく実際に方法をさがした。妻の滝と娘のイネを
オランダに連れて帰りたかった。しかし当時の法律で
は日本人を海外に連れ出す事は出来ない。日本人にな
って、妻と娘と一生日本で暮らしたい。シーボルトは
そう思い、その為に日本人になりかった。本来ドイツ
人であるシーボルトは、ドイツに年老いた母をただ1
人残している。それでもシーボルトは日本に残ろうと
思った。が、結局これは叶わなかった。





シーボルトはオランダに帰国する。この時に多少事件
が起こる。これが後に伝わるシーボルト事件で、事の
発端がどこか特定するのが難しい。この当時、日本は
鎖国中で日本国内の品を海外に持ち出す事に非常に厳
しい規制があった。それがシーボルトの帰国の荷物の
中から見つかった。具体的には日本地図、徳川葵の羽
織などいろいろと出てきたらしい。





シーボルト事件国外持ち出し禁制品をどこから手に入
れたのか、当然追求される。しかしシーボルトはその
出所を一切言わなかった。この持ち出し禁制品は、そ
のほとんどはシーボルトに親しかった日本人の友人達
の協力により集めており、友人に害が及ぶ事をシーボ
ルトは怖れた。国外持ち出し品を渡した日本人も当然
罪に問われる事になる。結局この事によりシーボルト
は国外永久追放となり日本への入国を禁止される事と
なる。当然、鳴滝塾の塾生達や自身の妻と娘にも二度
と会う事が出来ないという事である。





十数名が処分された。シーボルトは、誰に禁制品を渡
されたか言わなかったに違いないが結局のところ調べ
て分かった。高橋景保をはじめ十数名が処分された。
景保は獄死した後に死罪判決まで与えられている。禁
制品の持ち出しという事が余程大きな事件として扱わ
れていた事がわかる。鎖国を300年続けてきた江戸
徳川幕府の特殊性と言えるだろう。





オランダに帰ったシーボルトは当時35歳。当時ヨー
ロッパでは日本対する知識がほとんどなく、日本は未
知の国家と言える程の存在であった。シーボルトは日
本からオランダに対して植物などの調査結果を送り続
けていた為ヨーロッパの日本研究に大きな貢献をして
いた。そのシーボルトが帰国する。という事でその筋
の学会では大騒ぎだったらしい。





シーボルトはオランダ帰国後「日本」を刊行する。日
本研究の集大成としてのこの本は全7巻で非常に詳し
く、これによりヨーロッパでの日本の理解は飛躍的に
進んだ。日本から持ち帰った植物を栽培し「ニッポ
ン」という別荘も建てている。この日本研究が評価さ
れシーボルトはヨーロッパ各国から勲章を受けた。こ
の当時のヨーロッパでは日本研究と言えばシーボルト
という方程式が成り立っていたようだ。





シーボルトは1844年日本開国の為の親書をオランダ国
王に提示した。世界情勢に明るいシーボルトは、日本
が鎖国状態のままでは、いつか西欧列強に植民地にさ
れてしまう、と思っていた。シーボルトは、日本は進
んで開国を行い、対等な貿易条件をヨーロッパ諸国と
結び、貿易をして、西欧の技術力を取り込み、国防の
力を付ける事以外に占領を避ける方法は無いと考えた。
この考え方は、後に歴史の表舞台に現れる坂本龍馬や
勝海舟も同じだった。世界を総括して見れば結果この
考えに行き着くのかもしれない。この日本開国の為に
シーボルトは、オランダ国王に親書を提示した。





シーボルトの熱意に突き動かされたオランダ国王は、
徳川幕府に対して、シーボルトの考えである「日本は
積極的に開国すべきである」。という内容を伝えた。
それが、日本の国益になる。そう伝えた。
この時のオランダの立場から考えてみる。日本に開国
を進めるオランダというのは、非常に親切なように感
じる。オランダは鎖国する日本と唯一貿易を許されて
いるヨーロッパの国家であり、対日本貿易の利益を独
占している状態であった。それが開国をして他国と貿
易をしろと薦める。この自国の利益を明らかに減らす
行為というのが、純粋な親切心からの発露と考えるの
は国家という共同体の性質を前提に考える場合に無理
があるかもしれない。もし日本が開国しない場合を考
えてみると現実との誤差が少ないかもしれない。シー
ボルトの理論で言えば、日本が開国しなければ西欧列
強の植民地となる。植民地競争に参加していないオラ
ンダは、日本の利権の一切を失う事になる。一切を失
う。それよりは、日本を開国させ、その恩人として優
遇されるほうが、まだマシである。そういう事なのか
も知れない。








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008.01.09 11:22:38 コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: