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ぼくとしちゃん

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January 28, 2021
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お正月にNHKBSで面白い番組をやっていた。
「邪馬台国サミット2021」!まぁ新型コロナの影響でロケは難しく予算は減っているだろうから、
この手の結論は出ずにみんなが興味があるし、出演者のギャラガ安く製作費が安い番組は、
他のNHKスペシャルと比べて作りやすいからNHK向き何だろうなと思う。
でも、僕ら邪馬台国大好きアマチュアには良い番組。
ワクワクしながら見た。

で、結局たいした情報は無かったのだが、確信を得るには役に立った。
近畿説は無いな。九州説も今一歩だな。じゃぁどこか?現時点では確実な場所は無いな。
番組の結論もそうだった。


近畿説の弱点である「邪馬台国は纏向遺跡を造れるほどの大国で、日本には他に大国が無かった」
と言う理論を主張するのだけど、
主張するだけで何の証明もできないからである。
主張する根拠が「纏向は大きな都の有った遺構で、そこには大きな国が有った」と言うだけでは、
別に邪馬台国である必要は無く、出雲でも尾張でもかまわず、何故邪馬台国なのかの説明は無い。
しかも、そんな大きくて強い国ならば「争った国々が女王を共立する」必要は無く、
その大きな国が他の国を征服すればすむ話なので、それを否定する根拠が必要。
纏向遺跡=ヤマト王権の基礎となった国は考古学的な研究から1つの大きな国と言うよりも、
いくつかの国が集まってできたもので、
それ故に魏志倭人伝にあるような他国からの侵入を防ぐ環濠が無い。
こういった点を突かれても何の根拠も示せない。なので呼ばれた先生が研究が足りないのかも?


以下に先生方の主張や議論した内容を書いてみる。なお矢印以下は僕の意見。

1.先生方は概ね奴国までの経路に関しては一致しているが、
  伊都国、奴国、不彌國からの水行以下の記述により諸説に分かれる。
  最も極端なのはその経路通りなら九州南方の海上になってしまうと言うものだが賛成者無し。
  →そりゃそうだろう。これは番組を盛り上げる為の冗談で、大昔の大先生方が展開した

   魏志倭人伝の帯方郡から狗邪韓國までの7000里が現代の地図から約560kmと分かり、
   それから計算すると1里が80m前後で計算されているのが分かるので、
   よほどバカな先生でなければ賛成するはずはないから。
  古くから東大の白鳥庫吉先生は、陸行1月は1日の間違いだとして北部九州説をとり、
  京大の内藤湖南先生は南に水行が東に水行の誤りであるとして近畿説をとった。
2.(國學院大學の柳田康雄教授)そもそも「邪馬台国」は「やまたいこく」ではなく「やまと
  こく」と読み、纏向が邪馬台国=卑弥呼の居た都であると主張。
  →これは僕も迷っている。
   後漢書に有る「倭面土國」が「やまとこく」と読める可能性を否定できないからである。
   倭面土国が省略されて「倭国」になった?亜米利加(アメリカ)国を「米国」と略する国
   だからなぁ。日本は。
3.(早稲田大学の渡邊義浩教授)が三国志研究の第一人者として紹介された。
4.(まきむく学研究センター寺沢薫所長)九州から関東までの国々の集合体が倭国で、
  その宗主国であり、纏向がその中心だったと主張。
5.(国際日本文化研究センター倉本一宏教授)邪馬台国は三国志に書かれてはいるが日本で
  一番強い政治権力であったとは限らない。もし纏向遺跡が大和王権の元になった国で邪馬台
  国ならば、何らかの伝承が残っているはずだが、古事記や日本書紀には卑弥呼について何も
  書かれていない。邪馬台国がヤマト王権の元になったのなら、国の始まりとなる卑弥呼につ
  いて何らかの記述が有るはずだが何も書かれていないのは卑弥呼と邪馬台国が他の地域のも
  ので、忘れられたか、滅ぼされて消えてしまったからではないかと思うと主張。
  →これは重要な指摘だな。いくら日本書紀が藤原不比等により捏造された藤原氏に都合の良
   い書物だとしても、少しも残っていないのは変だと思う。あるいは例えば蘇我氏は葛城氏
   の子孫で葛城氏が邪馬台国の末裔だとかなら徹底的に消すかもしれないけど。蘇我氏が卑
   弥呼の子孫ならば自分達の正当性が消えるからなぁ。
6.(小郡市埋蔵文化財調査センター片岡宏二所長)纏向遺跡は立派だが、魏志倭人伝に書かれ
  た邪馬台国と関係が有るかと言うと何の根拠もない。国々が卑弥呼を「共立した」と魏志倭
  人伝には書いてあるが、もし強力な国と王が居たのなら、その王が国々をまとめればすむは
  ずである。纏向遺跡は立派過ぎるし大きいので魏志倭人伝の記載(共立)と合わない。
7.(関西外語大学佐古和枝教授)纏向遺跡は大きな遺跡である。だからこそ卑弥呼の都だとは
  いかない。やはり魏志倭人伝との整合性が必要だ。
8.(片岡教授)纏向に一つの大きな政権が有ったことは間違いないけれど、それが魏志倭人伝
  に書かれた邪馬台国なのかと言うのは別の話だと思う。
  卑弥呼を共立したのは北部九州の国々の共同体だと思う。吉野ヶ里遺跡の状況は魏志倭人伝
  の記述とよく一致している。但し時代が違うので邪馬台国とは違う。
  平塚川添遺跡、三船遺跡、女山(ぞやま)遺跡=山門遺跡群を一望できる女山にある遺跡、
  北部九州にはたくさんの遺跡があるが、これらが作った共同体ではないだろうか?
  →近畿説もそうだけど、九州説も「~かもしれない」ばかりで、根拠は何?と聞かれると何
   もないなぁ。風土記とか何かに書いてないのかな?
9.(大阪大学大学院福永伸哉教授)それらの遺跡は規模が小さすぎると思う。魏志倭人伝に書
   かれた邪馬台国の戸数は7万戸であるから、約30万人の都市だったはずである。
  →1戸が5~7人と言うのは律令制で税を取る為に定めたもので延喜式にかかれており、卑弥呼
   の時代の話ではなく後世の換算人員数である。そもそも奈良時代の日本の人口(451万人)
   平安時代(550万人)から考えても弥生時代後期である卑弥呼の時代に30万人の都市が有
   ったはずはなく、陳寿も伝聞記録なのでせいぜい3万人くらいだろう。
10.(片岡教授)その7万人とは誇張された数字では?昔の中国の本に書かれた人数は誇張され
  る場合が多い。
11.(渡邊教授)中国の当時の本は戦いの時の人数はだいたい10倍で書かれているようです。
12.(佐古教授)弥生時代後期の遺跡から出土した鉄器は福岡1746,熊本1891,大阪151、奈
  良63なんですが、魏志倭人伝には倭人は鉄の矢じりを使うと書いてある。
13.(福永教授)畿内では大きな銅鐸を作る勢力が結集して邪馬台国を作ったが、銅鐸の大型化
  は2世紀で、この銅鐸の大型化は政治権力の象徴である。奈良の唐子・鍵遺跡は42haと日本
  でも大きい遺跡でここで銅鐸の鋳型が見つかった。恐らくここで作った銅鐸を全国に配ったの
  であり、畿内勢力が中心となり卑弥呼を共立した。
  →先生は人口問題を出したのが失敗だったと気づいたのか銅鐸理論を持ち出したが、魏志倭人
   伝にも何の記載も無い銅鐸が、何故それが邪馬台国とつながるかは言わない。大きいからそ
   うだと言うだけではどこの国でも良い話である。)
14.(倉本教授)卑弥呼が死んだらまた国々が乱れて男の王をたててもまとまらなかった。纏向
   の遺跡が王都だったら、その王がいれば国はまとまるのでは?そうならなかったのが近畿で
   はない証拠では?
15.(片岡教授)邪馬台国がどこに有ったかと言う事よりも、その当時の日本の国の形がどうで
   あったかと言うことを議論すると答えが出るのかもしれませんね。
   近畿説=中央集権国家だったか、九州説=集落の連合体だったかで決まるのでは?
16.(渡邊教授)魏志倭人伝の邪馬台国への行程をたどると九州南部の海の中にたどり着くのは
   陳寿の思惑=中国の魏による情報操作なのだと思います。呉へのけん制で、呉の東方に大き
   な国が有ると言う情報を載せれば、呉は魏に対する戦力を東にも配せねばならず、戦略的に
   有利になるから。
   大宰府には中国では既に失われた翰苑と言う今の百科事典にあたる本の遣唐使が写した写
   本があるが、倭人条では倭は会稽の東に有ると書かれている。これに対して魏志倭人伝の
   記述は会稽の「東治の」東となっており、かなり南になっている。
   金印を授けた魏は邪馬台国を魏の味方として重視し、呉への牽制に使おうとしたのだろう。
   なお、魏志倭人伝に書かれた倭の風俗は実際に調べたものではなく礼記を参照しているの
   で、刺青の風習等野蛮人の扱いだし、一夫多妻だとして蔑んでいる(当時の中国の思想で
   は野蛮な辺境の国ほど一夫多妻になると考えられていた)ので注意が必要である。
   →面白い理論だけど、魏志倭人伝は魏の時代に書かれた物ではなく魏の後の西晋の時代に
    書かれたものなので、既に滅んでいる呉に対する牽制理論はちょっと無理があると思う。
    先生が言いたかったのは陳寿が参考にした書物の時代はそうだったと言うことかもしれ
    ないが、陳寿にも西晋の王族にも必要の無い話なので、わざわざ古い知識を書くはずは
    なく理論に無理が有ると思う。
17.(佐古教授)魏志倭人伝には「邪馬台国に女王がいる」と言う記述と、「国々が卑弥呼を女
   王として共立した」と言う記述はあるが、この2つは別々の記述で「卑弥呼が邪馬台国の女
   王である」とは書いていない。邪馬台国の女王とは卑弥呼でなく台与のことではないか?
   卑弥呼の時代には九州にいたが、台与の時代には奈良にいたのではないか?
18.(渡辺教授)魏志倭人伝が何故書かれたのかと言うことを考えなければならない。倭人の為
   に書かれたのではなく中国の皇帝が倭に詔を与えた経緯を書いたもので、どんな国に詔を与
   えたのか、それはどこに伝えられたのかを書いている。
19.(佐古教授)魏志倭人伝は魏と交易の有った国について書かれており、倭には邪馬台国以外
   に(魏と交易の無い)大きな国が他にも有ってもおかしくはないのではないか?
   魏志倭人伝には「女王国の東、海を渡ること千余里また国有り皆倭種なり」と書いてある。
   これが纏向の国では?
   →確かに可能性は有ると思うし、下記の旧唐書の話を知ると信憑性が有る。
20.(倉本教授)旧唐書には倭国と日本国は別の国と書かれている。広輿図(14世紀の中国とそ
   の周囲の島々を書いた地図)には日本と倭奴国は別の島として書かれている。
   当時の日本は中央集権国家ではなく、いくつかの国が有ったと考えてもおかしくは無い。
   →この広輿図を見た時に邪馬台国は宮崎に有ったと考える僕はうれしくなった。
    テレビの地図を見ると「日本」が「大琉球国=沖縄」と「倭奴国=北九州」の間に有る。
    旧唐書では「倭国」と「日本国」は別の国として書かれており、倭国と違い日本国は用明
    天皇の時代に初めて中国と交易をしたと言うことになっている。
    また「日本国が元は小国で倭国の地を併せた」と書いてあり、日本国が邪馬台国で宮崎に
    有ったのならば、神武東征は神話だとしてもそれに近い事が過去に有ったと言えるから。
    せっかくなので、広輿図をネット上からお借りして載せよう。
    でも広輿図と言うのは一般名でいくつかあり、テレビで紹介していたのは下図みたい。


    うーん。テレビを見た時はうれしくなったけど、本物を見ると迷いが生じてしまった。
    黄色の枠の中だけ見ると倭奴国と大琉球国の間に「日本」があるので、「日本=宮崎」か
    なと思えるのでうれしいのだけど、赤い枠内に平渡(平戸)、肥前、肥後、豊前、豊後、
    太宰府が有るよ。宗家景は宗像のこと?、さらに海(関門海峡?)を渡ると長門(山口)
    があり、修前、修後と有るけれどこれってどこだろう?もしかして周防国?音感がにてい
    るなぁ。確か古代には周州と書かれていたからそうかもしれない。赤関は赤穂かな?その
    先の讃ってどこだろう?さらに海(伊勢湾?)を渡ると遠江がある。これって静岡では?
    すると尾波ってすこし訛っているけど尾張のこと?多少変な所は有るけれど結構正確に日
    本が書かれているじゃん。
    ???もしかすると当時の中国では大宰府が日本の中心だと考えられていた?なので白村
    江の戦いで中国は「日本に勝利して支配下に置いた」と勘違いして大宰府に筑紫都督府を
    置いて 郭務悰と日本占領軍2000名は満足して帰って行った?それで天智天皇は助か
    り、慌てて水城を築いたりして隠れ、その後に新羅が暴れて、さらに唐が弱ったせ
    いで日本は独立を保てたのかもしれない。筑紫君は白村江の戦いの後捕虜になって
    日本へ戻ってくるまで相当に長く中国に囚われていたらしいからなあ。
    でもそうすると倭奴国は北九州ではなく、肥後や豊後の南側として認識されていたのか?
    すると倭奴国が宮崎で「日本国」は鹿児島の可能性が出て来たなぁ。
    倭奴国は太宰府か大和王権に追われて北九州から南九州まで落ち延びていたのか?
    迷いが生じてしまった。
    もっと研究してみよう。徐福相と言う地名が気になるし。徐福は日本にいたのか?
21.(國學院柳田康雄教授)纏向は突然出現した都市で、その前の形跡が無い。もしかすると伊
   都国が遷都してできた都かもしれない。邪馬台国は別として魏志倭人伝には伊都国以外は書
   かれていない。平原遺跡の副葬品は立派な物が多く特に内行花紋鏡は太陽を表現したもので
   ある。王墓は東西に太陽光を受けるように作られており、纏向の建物と同じ思想である。伊
   都国が纏向に遷都したのならつじつまが合う。
22.(寺沢薫所長)吉備や伊都国等の勢力が結集して、彼らが主導して大和で談合して卑弥呼の
   都を築いた。前方後円墳がここから広まった。ホケノ古墳が原型で吉備の影響を受けている
   のだと思う。理由は吉備の楯築墳丘墓の両方向に広がった出っ張りの片方を除くと前方後円
   墳になる。これが原型であり、ホケノ古墳から鏡と刀が出土している。平原古墳からも鏡と
   刀が出土して共通しているからである。一つの決まった政治体系の中で一つの決まった祀り
   方=前方後円墳祭祀の新しい国家体制が始まった証拠だと思う。
   後漢が倒れて伊都国の権力が弱まった。この時に「倭国大乱」があり、伊都国と吉備連合が
   談合して、そのどちらでもない場所=纏向に(戦争に関わらない)女の卑弥呼を共立した。
   そして伊都国や吉備の伝統を受け継ぐ前方後円墳を造り、新たな王国を作った。これが邪馬
   台国?
23.(寺沢所長)古い2世紀の倭国(伊都国)と新しい倭国は別の物かもしれない。
24.(福永教授)あくまでも畿内が中心でまとまってそれに吉備と北部九州が加わったと思う。
   →この先生はどうしても畿内説にこだわって冷静な判断ができない人で、とにかく自己主張
    をするのだが根拠を示さない。学者らしくない人だと思う。学校の先生なので、相手はい
    つも聞くだけの人=学生だから議論になれていないのだろう。教科書を覚えて話すだけの
    人なのでその教科書に書かれていることの正しさを盲信する記憶力優先タイプの人なんだ
    と思う。
    今、議論の元になっているのが「纏向は突然できた都市で新たな王国ができた」と言う話
    なのに畿内勢力が元になったと言うのなら、纏向に新しい都を作る必然性が無く、元にな
    る畿内勢力の根拠地近くにできるはずであるから、その畿内勢力の(纏向の近くの)場所
    を示して、その勢力が纏向を作ったのなら倭国大乱など関係なく卑弥呼を共立する必要も
    なく邪馬台国にまったと言えば良い話だけど、根拠がその反対側(実際は倭国大乱があり
    その際に共立されたのが卑弥呼)になるのでちゃんといえないんだろうな?
25.(寺沢所長)何で卑弥呼を共立したのかを考えないといけないと思う。大きな国だったとは
   思えない。大きな国だったのなら共立などせずに、力により征服すればすむ話だと思う。
26.魏志倭人伝には魏の皇帝が239年に卑弥呼に銅鏡100枚を送ったと書いている。日本では
   約6000枚もの銅鏡が見つかっているが、中国では卑弥呼の時代の少し前に「内行花紋鏡」
   や「神獣鏡」が作られており、伊都国の平原遺跡では「内行花紋鏡」、畿内の黒塚古墳では
   「画文帯神獣鏡」が出土している。三角縁神獣鏡は「景初3年」と記載された物が見つかっ
   てはいるが、近畿を中心に500枚も見つかっている。枚数が多いのは卑弥呼がもらった100
   枚の銅鏡を複製して配ったからではないだろうか?
   →近畿の黒塚古墳では死者の枕元には「画文帯神獣鏡」が飾られており、三角縁神獣鏡は無
    造作に30枚も棺の周囲にばらまかれている。複製とは言え魏の皇帝にもらった大事な鏡を
    そんなに無下に扱うはずはなく、もし使うならば複製ではなく本物を死者の枕元に置くは
    ずであるが、実際は「画文帯神獣鏡」が置かれていた。なので三角縁神獣鏡は国産で(中
    国では1枚も見つかっていない)邪馬台国には関係が無い物だろう。むしろ邪馬台国に対
    抗して他国が作って配ったものだと思う。
27.(国立歴史民俗博物館上野祥史准教授)及び(江南省文物考古学研究所潘偉武研究員)並び
   に(九州国立博物館川村佳男氏)鏡が出土しているのは日本だけで中国や韓国では少ない。
   大分で出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は魏の曹操の墓から出土した鏡と多くの共通点がある。
   大きさはほぼ同じで金銀トルコ石を使い象嵌技術で龍が描かれている。当時の中国でもなか
   なか作れない豪華な鏡で、特別な地位の人(皇帝とか)の為に作られた鏡である。例えば女
   王かも?
   →僕も最初はそう思っていたのだけど、魏志倭人伝を読んでいて卑弥呼ってそんなに偉くな
    かったのでは?と最近思い始めている。魏志倭人伝に卑弥呼が主人公的に記されているの
    は倭国の女王だからではなく、卑弥呼は単なる女王国の女王で倭国の実権は伊都国の一大
    率が握っており、国々は魏志倭人伝に有るように伊都国に従っていたのではないだろうか
    ?そして覇権を伊都国に奪われた女王国の卑弥呼がかっての伝手を求めて魏に使者を送っ
    たが、魏にはまだ女王国も伊都国もまだ同列の支配下で「仲良くしなさい」と言う詔を送
    り、援軍は送らなかったのでがっかりした卑弥呼は死に、伊都国や女王国と対立関係にあ
    った狗奴国は伊都国と手を結び台与を新女王にしたのではないだろうか?なぜならば卑弥
    呼が本当にピンチだったのなら、魏に助けを求める前に同盟国の伊都国に助けを求めるは
    ずなのに、伊都国は何の助けもした気配が無いからである。
28.(佐賀女子短期大学高島忠平名誉教授=吉野ヶ里遺跡の発掘調査・保存整備を指揮してきた
   Mr吉野ヶ里)吉野ヶ里は邪馬台国ではないかもしれないが、吉野ヶ里遺跡が出土して公園と
   して保存整備されたことにより九州説は盛り上がり、一般の人も知るようになった。各地の
   遺跡も同じように保存されるようになり、そこに意義がある。
   (兵庫県立考古博物館石野博信名誉館長=纏向遺跡を発掘してきた人で土器の分析が専門)
   土器は作られた土地や時代で異なっている。纏向遺跡からは吉備、大阪、奈良の土器が出土
   するが出雲とのつながりが分かって来た。吉備、出雲連合が河内大和に作った国が邪馬台国
   だとは思うが各地の有力な勢力が手を携えて作り出した国の形で、別に邪馬台国がどこに有
   っても良いと思う。分からないから面白い。ただ、20年位前から大阪の土器の研究が進んで
   いない。そこは何とかして欲しい。
29.(渡辺教授)天皇陵を調べさせてもらえないので進展しない。

結局石野大先生の仰る通り、どこに有ったか分からない。新しい発見を待つしかないかと言う話で
まとまった。
ただ、この番組で分かったのは、
近畿説の元になっている色々な話は、全て「纏向をはじめとして大きな国が有った。日本には当時
邪馬台国しか大きな国が無かった。なので纏向を作れたのは邪馬台国に違いない。」と言うだけで、
纏向を作れるほど大きな国が有ったのなら、近畿説は根拠が無くなりつぶれるなと言うこと。
近畿説を唱える先生方もそれが分かっているから、根拠は示さずに邪馬台国は大きかったと大声で
主張するしかない。そんな程度なんだなと思った。
纏向は三輪山の麓近くで、三輪山に祀られているのは出雲の神様なんだから、纏向を作ったのは出
雲の王権だと分かってると思うのだけど、現在の出雲大社が島根に有るから言えないんだろうな。
古代の天皇や上皇はみんな失権すると隠岐に流されるじゃん。
どうして大国主命が大きな館を島根の出雲に造り、自分の子(事代主)や部下達の身の安全を保障
する代わりに「出雲に流される」ことを承諾したと考えないんだろう?
出雲は元は島根に有ったのかもしれないけど、この時代には三輪山付近にいて、政権争いに負けて
故郷の島根の出雲に帰ったんだと思うのだけど。
三輪山の出雲が纏向を造ったんだよ。箸墓の主は事代主(大物主神)の奥様の倭迹迹日百襲姫命。
だから彼女の墓は昼間は大和の「人」が、夜は出雲の「神」が造ったと言う伝説が残ってるんだ。

ただ、九州説もちゃんと根拠を示せてないと思うな。そもそも魏志倭人伝の直接根拠は誰も唱えず
状況証拠ばっかりで説明しないから「どこでもいい」で終わっちゃうんだと思うな。





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最終更新日  February 5, 2021 02:46:49 PM
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