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August 27, 2024
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7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は
単なる神話なのか?」を書いて、
「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、
邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?

8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は
単なる神話なのか?その2」​を書いて、
「天岩戸伝説」も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、
後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書き、
邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その2

8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は
単なる神話なのか?その3」​を書いて、
「物部氏が実は朝廷の租税や財産の管理をしており、天皇家を支えていた」ことを書いて、
蘇我氏と物部氏の争いが表面上は「崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争い」に見えるが、
実は朝廷の権力を背景にした租税や財産の所有権をめぐる争いだったのだと書いた。
邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その3

でも3番目は蘇我氏の時代の話で神話じゃないのではと言われるかもしれないので、
ちょっと付け加えると、僕は物部氏とは出雲の大国主の子孫だと思っている。
実は古事記と日本書紀では、国譲りの後始末が少し違うのである。


まずは日本書紀の方。
<原文>
故、大己貴神、則以其子之辭、白於二神
曰「我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。
如吾防禦者、國內諸神、必當同禦。
今我奉避、誰復敢有不順者。
<意訳>
そこで大己貴神は、その御子(事代主命)の言葉を二柱の神に告げ、
「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。
もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。
今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」
と言われた。

つまり単に「降参」しているだけである。
ところが古事記には、少し違うことが書いてある。
<原文>
唯僕住所者如天神御子之天津日繼所知之登陀流
天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理
於高天原水木多迦斯理
而治賜者僕者於百不足八十坰手隱而侍
亦僕子等百八十神者卽八重事代主神為神之御尾前而仕奉者違神者非也
<意訳>
ただ私の住む所は、
天津神の御子の天津日嗣(天照大御神の子孫)が治める世のご立派な御殿と同じぐらいに、
地の底の岩に宮柱を太くし高天原まで千木が高く達する宮とし、
統治していただけれぼ私は国土の隅々の多くから身を引きお仕え中し上げます。
また私の子ら八十神はそのまま八重事代主が神々の端に加えさせお仕え申し上げさせますので、
​違える神はありません。」

そもそも世間一般に言われているように、大国主は死んではいない。
「(隱而侍)つまり政治の表舞台には出ずお仕えする」と言っている。
しかも「(八重事代主神為神之御尾前)つまり八重事代主が神々の端に加えさせ
お仕え申し上げさせます」と言っている。そうすれば出雲の一族は誰も逆らわないと。
つまり出雲の一族は天皇家に仕えて、支えることにより生き延びて、
以降も天皇家と婚姻関係を結ぶなどして栄えていたのではなかろうか?
大国主命は大和から離れて島根の出雲に隠遁した、それが出雲大社の前身だったのだと思う。
そしてここまで書くと分かるように、
事代主命は三輪山に葬られており、奥さんは箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命である。
つまり出雲は滅んだわけではなく、名前を変えて生き延びているのである。
僕はそれが物部氏だと思っている。

物部氏の祖はニギハヤヒである。
ニギハヤヒが義理の兄のナガスネヒコを殺して神武天皇に仕え、
その娘をもらって神武天皇に可愛がられたと書かれているのに合っている。
古事記や日本書紀は一人の人間の記憶から作られたのではなく、
集められた諸家の記録や言い伝えをまとめられたものである。
大和朝廷の初期の話も色々な家や人により、少しづつ違っていたのだろう。
だから僕は「神武東征」と「国譲り」は一つの争いを2つの側面から見たものと考える。

最初は武力衝突から始まったのだろう。
そして天皇家はナガスネヒコに負ける。
でも宮崎から来た天皇家には味方がいた。
同じ海人族の人々が、宮崎から黒潮に乗り尾張、千葉や茨城に流れて国をつくっていたのだ。
そこで神武天皇は彼等に助けを求めて味方の来る熊野に回る。
お日様を背に受けて戦っても、お日様が助けてくれるわけがない。

まずは高倉下、尾張から来た人である。
でもまだ戦力が足らず、また敵に負けて、みんな気絶してしまう。
その時に千葉から武器が届く。援軍は無理だけれどもと、武器を寄越してくれたのである。
布都御魂(ふつのみたま:神剣)である。
千葉の鹿島神宮に祀られた剣である。
日本書紀等では、国譲りの場面でも鹿島神宮の祭神である「建御雷神」に従って活躍する。
経津主神(フツヌシ:布都御魂の神)が刀に変身したことになっているが、現実的ではない。
恐らく、兵を送るのは困難だからと武器を送ったのだろう。
千葉の香取神宮の祭神である。

いずれ書こうと思っているが、
そして彼らは鹿島氏、千葉氏や三浦氏につながっていくのだろう。
千葉だけではなく三浦半島や横浜市金沢区にも鹿島氏の子孫が残っている。

伊豆から東北にかけては砂鉄の産地が多い。
鎌倉はその砂鉄から作られた鉄製品から付けられた地名だし、
付近には鍛冶ヶ谷とか釜利谷と言う鉄にちなむ地名が多く、金沢区もそうである。
栄区には製鉄遺跡も残っているし、
金沢区の長浜からは昔は「金くそ(製鉄時に出るスラグ」がとれた。
特に金沢区には有名な畠山重忠が秩父から招いた鍛冶職人の話も残っている。
なので付近は鉄製品の供給地帯だったのだろう。
大和で行われた国譲りや神武東征に千葉県の神々が活躍するのは、
ここに天皇家の協力者がいたからである。

鉄剣を入手した天皇家は勢いを盛り返して大和に迫る。
そこでさすがに疲れ果てた天皇家は劣勢を意識したニギハヤヒに講和を持ちかける。​
その結果、
家来にして大事にしてくれるならとニギハヤヒはナガスネヒコを殺して講和に応じた。
それが国譲りなんだと思う。
だって島根でせっかく国を譲ってもらったのに、反対側の宮崎に天孫降臨して、
結局大和に攻め上るのは理論的に変だから。
古事記や日本書紀は、たくさんの資料を集めて編纂したので順序や互いの関係が乱れて、
書かれた順番通りじゃないのだと思う。

僕はこれが古事記が世の中から消されて、日本書紀に出雲の記述が少ない原因だと思っている。
よく藤原不比等が日本書紀に手を加えて、真実の歴史をゆがめたと非難されているが、
実はこの当時まで生き残っていた蘇我氏の傍流(石川氏)が暗躍していたのだと思う。
藤原不比等にしてみれば、その程度のことで石川氏が協力してくれるなら安いものと考えて、
取引の材料にしていたのだろうと思う。
つまり古事記が消されたのは、蘇我氏と敵対していた物部氏に最後の一撃を加える為だった。
僕はそう思うのである。

蘇我蝦夷の館で帝紀と旧辞が焼かれた時に、編纂途中であった古事記には出雲の記述が有った。
この時点までは、物部守屋は居なくなってもまだ物部氏の一部は残って抵抗していたから。
でも壬申の乱で物部日向は大友皇子側につき、捕虜となって天武天皇側につく。
そして物部首は姓を連に改め、社地の名によって布留宿禰姓に改めて、物部氏は消えていく。
こうして古事記は物部氏と共に滅ぼされて、日本書紀では出雲と物部氏は陰に隠れた?
そう思うのである。

違うかなぁ?







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最終更新日  August 27, 2024 06:13:42 PM
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