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December 15, 2024
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YOUTUBEを見ていて「消された九州王朝」と言う動画を見ていてひらめいてしまった。
今まで何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?と言うことを考えて、
世間一般的に言われている、
1.古事記は国内向けで日本書紀は対外的な国書をめざした。
2.古事記は皇室内の私的な文書で日本書紀は正史来な歴史書である。
3.古事記は「序」を見ると古事記成立時と色々な面で合わないので偽書である。
等と言われているのは、論理的におかしいと考えていた。

例えば1.や2.は古事記と日本書紀の内容が微妙に違うことを説明できない。
古事記と日本書紀が大きく違うのは、

もし1.や2.が正しいならば、
ちゃんとした日本書紀を作って、
それを翻訳した日本書紀日本語版や簡略して皇室内向けの日本書紀概略を作れば済む話である。
内容を変える必要はない。
いや皇室内でしか話せない秘密の部分が有るので、古事記を別に作ったと言う話が有れば、
それは有り得るかもしれないが、それほど秘密な話は古事記には書いていない。

でもYOUTUBEを見ていて突然分かった。
これって倭と言う国名が日本に変わったのと関係があるのではないだろうか?

通説では天武天皇が国名を「倭」から「日本」に変えたらしい。
その理由は、旧唐書に書いている。
<原文>

これを従来は次のように解釈してきた。
「倭国は自分の国名は優美でないことを嫌い、日本国と改称した」
これが全ての間違いの始まりだと思う。
これが理由ならば名前を変えるチャンスはその前にも何回も有った。
例えば継体天皇の時である。

あるいは雄略天皇の時である。
倭王武として中国に称号を求めて「倭王武の上奏文」を出す際に、
心機一転国名を変えましたと言えば良かったと思う。
でも変えなかった。
では何故 天武天皇は買えたのか?

もちろん乙巳の変を経て、中大兄皇子が体制を一新し、
壬申の乱でさらに天智天皇一派を滅ぼしたので心機一転国名を変えた。
そう言う見方も有るだろう。
でも、今まで倭を大倭に変える程度にしか変えなかったのに何故?

実は答えは旧唐書に有ると思う。
「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。
「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は 648年の記事で終っている。

飛鳥・奈良時代の大和政権のことであることがあきらかである。
つまり中国(唐)には倭国と日本は別の国として認識されているのである。

これに対して九州王朝論者の古田氏は、
中国からは「倭」と呼ばれていた九州王朝が、「日本」と称するようになった。
しかし中国は以前からの「倭」という国名で呼び続けた。
のち九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ。
と解釈している。
でもこれは誤りだと思っていた。
何故なら同じ旧唐書の中に次のように書かれているからである。
<原文>
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
一般的には次のように読まれている。
日本国は倭国の別種なり。
その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
つまり九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「倭」という国号を受けついだのなら、
話は分かるけれども、(受け継ぐと言う意味から考えて分かるが)
ちょっと日本語的に変では?
むしろ元々「日本」を名乗っていた大和政権が九州王朝を併合したので「日本」に統一した?
そう考えるのが合理的では?
そうすると、旧唐書の「日本国は倭国の別種なり」の部分も意味が通じる。
また、より意味不明だった旧唐書の次の部分も読めるようになる。
<原文>
日本舊小国、併倭国之地
これも一般的には次のように読まれている。
日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり
つまり日本は倭よりも小さな国として認識されていたが、
倭国が滅んだので日本に併合されたのだと読める。

何でそうなったのか。
全ては白村江で倭国のうちの九州王朝が負けて滅んだからだと思う。
日本書紀持統紀4年10月22日に次のように書かれている。
持統天皇は次のように言われた。
「斉明天皇の七年、百済救援の役で、おまえは唐の捕虜とされた。
 天智天皇の三年になって、土師連富抒、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、
 唐人の計画を朝に奏上しようと思ったが、衣食も無いために京師まで行けないことを憂えた。
 その時、博麻は土師富抒らに語って、
 『私は皆と一緒に朝のもとに行きたいが、衣食もない身で叶わないので、
 どうか私を奴隷に売り、その金を衣食にあててくれ』
 と言った。
 富抒らは博麻の計に従って、日本へ帰ることができた。
 おまえは一人他国に三十年も留まった。
 私は、おまえが朝廷を尊び国を思い、己を売ってまで、忠誠を示したことを喜ぶ。
 それゆえ、務大肆の位に合わせて、絶五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。
 その水田は曽孫まで引き継げ。
 課役は三代まで免じて、その功を顕彰する」
実は白村江の敗戦時に筑紫の君薩夜麻以下は捕虜となり、唐に連れていかれた。
そして唐人が悪いことを考えているので、日本に知らせようとしたが、
お金も無いのでどうしようも無かった。
その時に博麻は自らを奴隷にして、そのお金で富抒や筑紫の君は日本に帰ることができた。
だから持統天皇は博麻を称えて、褒美を与えて(曾孫まで続く)、課役を3代まで免じた。

この時に九州王朝は滅びたのである。
それまでは近畿の王朝は九州王朝よりも小さく、
恐らくは斉明天皇と中大兄皇子は九州王朝の出身であった。
なので、無謀で明らかに負けるのが分かっている唐との戦いに臨み白村江で敗れたのである。

そしてその時に日本は未曽有の危機に瀕した。
唐が日本に攻めてきたらどうしよう。
そこで中大兄皇子=後の天智天皇は策を考えた。
唐と戦って負けたのは「倭」で、近畿に有る「日本」は関係ないと言うことにすれば、
唐は辺境の近畿まで攻めてこないのでは?
その策は見事にあたり、唐は九州まで2000の兵を寄越して駐留したが、
近畿までは攻めてこなかった。
天智天皇は一応念のために、水城を造ったり、近江に遷都して色々と対策をしたが、
唐としても費用対効果が薄い辺境の日本に兵を進めるのは大変なので、
まぁ平和的に解決するなら良いかと、矛先をおさめている。
それは日本書紀天智天皇紀3年5月17日以下に書かれている。
夏五月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官)の劉仁願は、朝散大夫郭務惊らを遣わして、
表函(上奏文を収めた函)と献物を奉った。
つまり唐は倭(九州王朝)を滅ぼしたあと、敵なのか味方なのかを探りに郭務惊を寄越している。
冬十月一日、郭務惊らを送り出す勅をお出しになった。
この日、鎌足は沙門智祥を遣わして、品物を郭務惊に贈られた。
四日、郭務惊らに饗 応された。
つまり天智天皇は戦争なんかするつもりはありませんよと、上手くいなしている。
恐らくは(想像だけれども)天智天皇はこう言ったのだろう。
「唐と戦争をしたのは倭国です。我が国日本は唐と仲良くやっていくつもりです。
 よろしくお願いいたします。」
九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣わしてきた。
等というのは右 戎衛郎将上柱国百済禰軍、朝散大夫柱国である郭務惊のことをいう。
郭務惊は天智天皇が敵ではないことを確認させる為に、上司の劉徳高を連れて来た。
十一月十三日、劉徳高らに饗応をされた。
十二月十四日、劉徳高らに物を賜わった。
この月、劉徳高らは帰途についた。
劉徳高は安心して、唐に「日本」は敵ではありませんよと報告しに帰って行った。
6年十一月九日、百済の鎮 将である劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、
大山下の境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。
ここで注意が必要なのは、筑紫都督府とは大宰府のことではない。
近年の発掘調査で、大宰府の遺構は7世紀後半以降に築かれており、
まだこの時大宰府ははない。
ここで言う筑紫都督府とは、唐の占領軍事務所である。

ここまで書くと、僕が何を言いたいのかが分かると思う。
そう、日本は天智天皇の上手な外交戦略により救われたのである。
天智天皇は「倭」国と「日本」は別の国で、
倭は百済と協力して唐と戦ったが、日本はそれに関与しておらず、
倭が滅びたこれ以降は、日本がその地も含めて平和に治めていきますから、
これからも仲良くしましょうねとごまかしたのである。

なので、旧唐書には、倭国の条と日本国の条が独立して別々に有り、
1.日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
2.日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり
と書かれているのだと思う。
天智天皇の策略が見事にあたっているのである。

天武天皇も(日本の安全を考えて)この政策を継続した。
なので、この時に「倭」を「日本」に変えたのだと思う。
そして、これが古事記と日本書紀が有る理由だと思う。
古事記には倭=出雲+九州王朝に関する記述が多く、
(島根の出雲はあくまでも大国主の死んだ所であり、島根の出雲は九州王朝の属国だった。)
 それ故に出雲大社の大国主命は今でも正面を向かずに故郷の福岡の方を向いている。)
唐など他の国に知られると、天智天皇は嘘(倭と日本の関係)を疑われ、
日本侵攻の口実にされる恐れが有るから、無きものにしよう。
日本書紀は、「倭国の歴史書」ではなく「日本の歴史書」としてつくろう。
どうしても倭に関わる部分は神話にして、
神話だからとごまかしてしまおう。

こうして古事記は作ったのだけれども廃棄して、(でも唐が滅びたら出てしまった)
日本書紀は倭の部分はうまくごまかして、「日本」の歴史書としてつくられた。
これが古事記と日本書紀がほぼ同じ時期に違う内容で2つ存在する理由だと思う。

なんかうまく解決したような気がする。
本当にそうかも?
だって、何故唐と新羅が日本に攻めてこなかったか理由が分からないから。
天智天皇が(うまく外交政策を行って)日本を救ったのだと思う。

<後日追記>
やまさんに、
「何故大化の改新以前の歴史を記した文書が少ない(と言うか古事記と日本書紀以外に無い)
のか」と聞かれて、
このブログを紹介したが、
その時にふと気がついてしまった。
それって異常では?本当に無かったの?
もちろん帝紀や旧辞の話は知っている。
でも天皇家に帝紀や旧辞が有るのならば、
他家(諸家)にも同じような自分の家の歴史的な文書が有ったのではないのか?
天武天皇も「諸家に伝わる帝紀、本辞(旧辞)は既に真実とは違ってきている」と言っている。
つまり諸家にも帝紀や旧辞が有ったと言うこと。
それが何故どこにも残っていないのか?

すぐに思いつくのは、このブログに書いた天智天皇が日本を守る為に唐に対してウソをつき、
天武天皇もそれを引き継いで、唐を始めとした諸外国に知られないように、
徹底して文書を焼き捨てたと言うこと。
違うかなぁ。
そのせいで、実は先代旧辞本紀なんかも、本当は正しい文書が有ったのに、
原書は無くなって、聞き伝えた物を文書化し、それを学の無い後世の人間が書き伝えたせいで、
もう偽物同然になってしまった。
そう言うことじゃないだろうか?
(この天武天皇の言葉は今まで我が天皇家に伝わる話が本当だから他家の物は無くしてしまえと
 そんな意味だと思っていた。
 天武天皇ごめんなさい。そんな人じゃァなかったんですね。
 そうか、諸家に残っている文書の中には倭と日本の関係を書いてある物があるから、
 日本を守る為には、そう言う文書は無くさないといけないと言う意味だったんですね。)

つまり古事記や日本書紀が日本最初の文書ではなく、
その前にも有ったのだけれども、天智天皇や天武天皇の時代に、
唐から日本を守る為に、全て焼き捨ててしまったので、
いきなり日本書紀のような本格的な史書が世の中に出たのではないだろうか?

だって世の中そんなに急に文書が進化する訳がないから。
最初はつたない文書から始まって、古事記のようなレベルになって、
そして日本書紀のようなちゃんとした文書ができるのが普通だと思う。
どこかに「つたない文書」があるのではないだろうか?






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最終更新日  February 17, 2025 02:46:35 AM
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