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ぼくとしちゃん

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December 25, 2024
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今日、本を読んでいて驚いたんだけど、
いまだに魏志倭人伝には倭国には奴国が2つ有ったんだと言う学者先生がいるんですね。
どうして学者先生って常識が無いんだろう?

例えば北朝鮮と韓国が、両方「うちが本家の韓国だ」と主張して両者が「韓国」を名乗ったら、
世の中がどんなことになるのか考えたことはないのだろうか?
まぁ今は北朝鮮が譲って、韓国は南朝鮮の名前になっているけれども、
1991年に両者が国連加盟をはたした時に、両者が「韓国」を名乗っていたら、
国連総会の時に「韓国代表の方の演説です」と紹介された時に立つのはどちらなんだろう?

まぁ、北朝鮮は元々「高句麗」なんだからそんな心配は不要かな?


民主化された今だから心配はないけれども、
専制君主国家だった卑弥呼の時代に、同じ倭国の一員として奴国が2つ存在できるはずはなく、
もし平和的ならば、片方が○○+奴國、と言う名前に変えるだろうし、
(現に魏志倭人伝には「彌奴國」、「姐奴國」、「蘇奴國」、「華奴蘇奴國」、「鬼奴國」、
 「烏奴國」など○○+奴国と言う国名が多数出てくる。)
戦闘的ならば強い方だけが生き延びるだろうなと言うことである。
倭國の国々が集まる場では同じ名前の2つの国が並んで座るのは無理だろうと思う。
(現に中国は「台湾」を中国とは認めていないではないか?)

倭国以外のグループの場合は別である。奴国が2つ有る場合もあるだろう。
両者が同時に出席する会議や催し事は無いので顔を合わすことはないから。
でもその場合は両者が奴国を名乗り、

でも魏志倭人伝に書かれた奴国は明らかにどちらも倭国の中だと思うので、
両方の記述は一つの国を別な角度で書いたものだと思う。

そのことについて書いてみる。
まずはグループが違う場合は2つの奴国は有り得ると言う話から。
晋書武帝紀に面白い記述が有る。

<原文>
十一月己卯, 倭人 來獻方物。
并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。
罷山陽公國督軍,除其禁制。
己丑,追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。
辛卯,遷祖禰神主于太廟​。

その翌年の正始元年に関連する記述が有る。
<原文>
正始元年春正月, 東倭 重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。
天子歸美宰輔,又增帝封邑。

前者は卑弥呼のいる倭国からの使者である。倭人と書かれている。
後者は卑弥呼のいる倭国以外の国である、東倭國からの使者である。

愚かな学者は、この時期に既に日本国内が統一されていたと主張したいが為に、
倭国からの使者と東倭からの使者を同じ(人物は違うかもしれないが立場は同じ)ものとして、
​景初末年と正始元年に倭国から使者が送られたと読む。
古代の人や中国人をバカにし過ぎていると思う。
明らかに言葉を使い分けていると思う。
もし本当に両者が同じ立場の人間ならば、「再度やってきた」と書くだろう。
それがちゃんと「東倭」と区別して書いてある。

恐らくは東倭とは倭国以外の国が、中国(晋)の武帝が、
戦争している相手である倭国の味方については困るので、
外交戦略として送り込んだものだろう。当時日本は倭国大乱まもないころだったのだ。
対する中国側は、倭国が勝つのか東倭側が勝つのか見極めて、
勝った方に乗っかろうと考えているので、
記録は倭国とは違う国として、東倭と言葉を使い分けているのだ。

政治や社会情勢について何も考えずに、言葉だけで物事を考える学者先生なので、
景初末年の倭人と正始元年の東倭を一緒にしてしまうのだ。
ばかだと思う。

魏志倭人伝の2つの倭国の記載も同じだと思う。
もし倭国に2つの奴国が有ったのならば、言葉を使い分けるだろう。
あるいは2つ有る理由を書くだろう。
それが無いと言うことは両記述は同じ倭国を別の角度から書いたものだろう。

では最初に戻って、両記述は同じ倭国を別の角度から書いたと言うのはどう言うことだろう。
これは2つの奴国が有ると言うことを主張する学者達の言い分を書けばすぐに誤りが分かる。
彼等の言い分は次の点である。
魏志倭人伝には帯方郡から不彌國までの経路の中に出てくる「奴國」と、
女王国の北側にある斯馬國から奴国までの国々である。
<原文>
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國
 次有烏奴國  次有奴國 此女王境界所盡 ​​
上の方の太字部分を見ると、女王国よりも北側には、その戸数(国の規模)や道里は
簡単にならかけるが、
その傍(かたわら)の国はあまりに遠く絶(情報も無い)ので、
詳しくは知ることはできないと書いている。
なので、そこ以降は国々の名前を列記しているのみである。
そして最後の行にはこう書かれている。
次は奴国である。この奴国が女王の境界の(国々の)尽きる所である。
この書き方のせいで、漢文をよく読めない学者先生は誤解をする。
えー!境界のつきる所?つまり端っこに奴国があるのか。
そのせいで帯方郡から不彌國までの経路上に有る奴国と、
この女王国の以北の国々の中の奴国が2つ有ると読んでしまうのである。
これは「尽きる」の読み間違いである。

三国志の編者である陳寿は細かい所まで言葉を使い分けている。
国々の名前に使われる漢字は音を倭人の使う言葉にあてはめた当て字みたいなものなので、
漢字には意味が無い。
しかし、文章の中の漢字は中国における通常の漢字なので意味がある。
漢和辞典などで調べると「尽」と言う漢字は「地理的な果て」と言う意味ではない。
「最後のもの」とか「これでおしまい」と言う意味である。

そもそも 其餘旁國遠絶 不可得詳 と言うのだから、
どの国が西に在って北に有るのか位置関係は分からないはずである。
次○有りと言うのは円形にぐるぐると女王国を中心にまわって、奴国が一番外なのかもしれない。

あるいは単純に女王国が一番南に在って、そこから順に北側に向かっているのかもしれない。

もっと言えば位置関係は全く関係なく、
例えば奴国が国を広げて(攻め滅ぼして)いった過程の順番なのかもしれない。

<後日追記>
位置関係を絵にしてみた。
パターンAが単純に女王国が一番南に在って、そこから順に北側に向かっている例で、
パターンBはより自由度が高く諸国が比較的どこにあっても大丈夫な例である。
パターンBならば、円形にぐるぐると女王国を中心にまわって、奴国が一番外でも大丈夫である。

つまり奴国が2回出てくるのは、
女王国の北側の国々の位置が全く分からないと言うのは困るので、
女王国の北側の国々の一つの国である奴国だけは
既に帯方郡から不彌國までの説明の中で位置を明らかにしているので、
既に位置の分かっている奴国との位置関係により他の国も類推できるように配慮したのだと思う。

描いていて気がついたのだが、
魏志倭人伝では狗奴国は女王国に「属さない」と書いて「敵対している」とは書いていない。
通常「属さない」とは狗奴国も倭国の一部だが、女王国の支配下には無いと言うことだと思う。
後日追記終わり。

陳寿は詳しくは分からないので、国名を列記しているだけなのである。
だから、国名を列記した後に最後の奴国で「女王に従う国」は「尽きる=これでおしまい」と
そう言っているのだと思う。
そう、この「尽きる」は「ネタが尽きる」とか「万策が尽きた」と言う場合の尽きるなのである。
これを地理的に端っこだと勘違いしたので、
奴国が2回出て来たので2つは別な奴国と勘違いしたのである。
「尽」きると言う漢字の読み間違いだと思う。

日本の学者がこの勘違いをする原因は、
1.魏志倭人伝は邪馬台国と卑弥呼のことを書いたものである。
2.当時日本は既に統一されており、他に大きな国は無かった。
と考えているせいだと思う。

2.が間違いなのはこのブログの最初に書いたとおりである。
倭国に敵対する東倭も存在し、倭国に対抗して晋の武帝に使者を送っている。
(但し、武帝は既に国交の有った倭国に遠慮して東倭の使者は送り返しているらしい)
問題は1.である。確かに邪馬台国と卑弥呼について詳しく書いている。
何故だろうか?

僕は後漢書に書かれた光武帝のくれた漢委奴国王の金印と張政のせいだと思う。
張政とは卑弥呼の要請に従って倭国に来日し、
倭国内を平和的に戦争状態から解決して壱与を女王の座につけて、
壱与から多数の送り迎えを付けてもらって、帯方郡に帰って行った中国の使者である。
中国の偉い人達には金印を与えた倭国の状況と今後の付き合い方、
そして張政の評価が大事なことだったんだと思う。
なので陳寿に調べさせて書かせた。
それで(その辺の事情を知らない日本人にとっては)あんな変な文章になっているのだと思う。

変な文章とは魏志倭人伝の書かれ方である。
帯方郡から不彌國までは「行動様式」で書かれている。
実際に人間が歩いたり舟に乗って進むそのままの姿で書かれている。
ところが次の邪馬台国と投馬國は「伝聞様式」で書かれている。
「邪馬台国はどこに有るのか?」と聞かれて答えたものを書き写している。
そのせいで、まずどの方角に有るかを答え、そこへ至る方法と距離を書いている。
何故、同じ構文様式で書かれなかったのか?
多くの学者は、難しいことは考えないので、
前者は使者が実際に行った資料を使って書いた。
後者は使者は実際に行っていないので倭人に聞いて書いた。
それですましている。単純な人達だなと思う。

では僕はどう考えるか。
まずは張政のことを考える必要が有ると思う。
彼は倭国内の戦争の調整をしている。
それが上手くいって壱与を女王の座につけたので、
感謝した壱与は多数の送り迎えの人達を付けて中国に送り返している。
と言うことは、普通に考えれば調整は邪馬台国に来ていると思う。
つまり倭人に聞いた邪馬台国を参考にしなくても張政に聞けば道里は分かるのである。
では何故それを使わなかったのか?
張政の功績を平等に評価する、張政の主張を別の立場の倭人の言葉で証明する為だと思う。

張政は中国の人達に自分の功績を説明したのだけれども、
中国の偉い人達は「お前はただ座っていただけで何もやってはいないのでは?」と言い、
陳寿は「いや違います。倭人の話を聞いても大変な所です。」とフォローしたので、
このような文章になったのだろうと思う。

次の女王国よりも北側の国々の記述も同じだと思う。
これはその後の狗奴国との関係で、張政の功績の中で重要な部分だと思う。

卑弥呼は倭國の中における狗奴国との盟主をかけた争いをしていたのだと思う。

よく学者先生達が議論しないのが不思議なのは、
卑弥呼が魏に助けを求めた時の状況である。
何故、諸国が恐れていた伊都国の一大率が戦いの中に出てこないのか?
魏に送られた使者は邪馬台国の官として前述のメンバーではないのか?
そもそも狗奴国が倭国の一部ではなく、倭国以外の国であれば、
諸国は倭国として戦うはずなので、一大率や邪馬台国の官達は何故動かないのか?
卑弥呼の使いとして魏に送られた大夫の「難升米」とはどんな立場の人なのか?
そもそも大夫とは何なのか?官や副官との立場の違いは何なのか?

これらの疑問は狗奴国が倭国の外の国ではなく、倭国の一部だと考えると説明がつく。
そう、狗奴国が倭国の一部で、その国王も倭国の盟主になる資格が有るのならば、
いわゆる内紛なので、一大率や下手をすると邪馬台国の官達も手が出せないのである。
一大率や邪馬台国の官達は、卑弥呼個人に従っているのではなく、
卑弥呼の座っている王の座に従っているので、
相手が卑弥呼同様に王の資格を持っている立場の人ならば、中立を保たざるを得ないのである。
なので彼らは動かず、卑弥呼は自分自身に属している大夫を使者として送らざるを得なかった?

そこで張政が現地に出向き、倭国内の調整をし、
卑弥呼は(責任を取らされて死んだのか、狗奴国に殺されたのかは不明だが)死に、
狗奴国の王(男王)が倭国の王になったが、うまくいかずに国内は戦争状態になった。
そこで男王は(多分張政の力により)倭國の王をやめさせられ、
卑弥呼のあとを壱与が継いで、倭国は平和になったが、
壱与があまりに幼いので、張政が後ろ盾になって、壱与の成人まで倭国に居て、
正式に壱与が政権についた時に、壱与に感謝されて大勢の送り人を付けられて中国に帰って、
それを陳寿が張政の功績として書いたのだと思う。

なので、女王国以北の国として書かれた国の内、斯馬國から奴国は卑弥呼を支持する国、
狗奴国は支持しない国として書かれており、
両者は倭國の一員なのだと思う。

つまり最初の奴国の記述は帯方郡から倭国への行程の一部としての奴国の記載であり、
あとの奴国は倭國の盟主争いの中で女王国側についた奴国と言うグループの一員としての
奴国の記載なので、
同じ奴国であり、記載の目的が違うので2回出てくるだけなのだと思う。

そしてこのように考えれば、今までどの学者先生も説明できなかった、
陳寿が魏志倭人伝の中で、倭、倭国、邪馬台国、女王国、女王を使い分けている理由が分かる。
倭の中に倭国と倭国以外の倭人の国が有り、倭、倭国、倭人は明確に使い分けられており、
倭國の中に邪馬台国と邪馬台国以外が有り、邪馬台国は卑弥呼を支持した国のグループであり、
女王国は邪馬台国の中の卑弥呼の居る国であり、女王はその中の祭祀王なのである。

i伊都国の一大率や邪馬台国の中の官である伊支馬達は、
卑弥呼と狗奴国王が倭國の盟主争いを始めるまでは卑弥呼を支持していたが、
盟主争いを始めてからは、どちらにもつかない中立を決め込んで見守る。

その時に魏から張政が来て、卑弥呼が死に、
その後を若くて卑弥呼によく似た親族の娘の壱与が、
張政の支持の元に新しい女王になり、
伊支馬達も張政につくことによって、狗奴国王は敗れ、
爪を剥がれて、蓑傘をまとって新羅の国に逃れていくのである。
張政は卑弥呼と狗奴国王を喧嘩両成敗と言う形にして倭國の内乱をおさめたのだろう。

これは、古事記のどの部分とははっきりとはここに書きにくいけれども、
古事記に書かれている通りだと思う。
(古事記でも月読の命達は天照大御神を助けてはいないし、
 何よりも天の岩戸に入る前の天照大御神は一人でなんでも決める独裁者だったが、
 岩戸を出てからの天照大御神は思金神に相談するように変化している。
 この天照大御神の変化を説明できる理論は今まで無かったと思う。
 岩戸事件の前後で天照大御神が別人(神?)に変わったのであればあり得る話だと思う。)

なお、ではどうして女王国の以北に有る国々のことを書く際に張政の名を出さなかったか?
それは陳寿が魏や西周の人間ではなく、魏に滅ぼされた蜀の出身だったからである。
倭国内の内乱が魏の張政の力によって収まったと言う事実が、
倭國の人達の名誉(自分達の国の内紛を自分達で解決できず他国人が解決した)を傷つけるので、
祖国を魏によって滅ぼされた彼には書けなかったのであろう。
(陳寿の祖国である蜀も孔明亡き後に、愚かな皇帝や臣下のせいで滅びている。)

ただ、張政の功績は書かなければいけない。
そこで彼は、同じ魏志倭人伝の中で、
張政の力で倭國の内乱は無事に収まり、
倭國の人達、特に壱与には感謝されて、無事に魏へ戻ったことを書いている。

次の部分である。
まずは倭國の内乱がおさまったと言う部分。
<原文>
 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 
 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
 政等以檄告喩壹與
卑弥呼が死んで、墓に納められてた様子が書かれている。
その後男の王(狗奴国王?)が倭国の王となるが、
争いが絶えずたくさんの人が戦争で死んだ。
(倭国の内乱はおさまっていない。)
結局たった13歳の壱与が(張政の後押しによって)女王となって国中がおさまった。
張政は壱与にしっかりしろよと檄を送っている。
つまりこの時に(多分狗奴国王は追放されて)壱与が張政の後押しで女王になり、
倭国は平和になったが、
たった13歳なので一人では国を治められず、
張政が後見人をしているのである。

次は壱与が成長して一人でも国を治められるようになり、張政が魏に帰る時の部分を書く。
<原文>
 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺
 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
壱与は張政が魏の臺(中央省庁)へ帰るにあたり、
倭國の大夫「善中郎將」と「掖邪拘」達20人を遣わして、送らせたと書いている。
さらにその際に、御礼(おみやげ?)として、
男女の生口や白珠(真珠?)五千孔や青大句珠二枚及び異文雑錦二十匹も持たせている。
張政は鼻高々だっただろうと思う。
それだけ壱与は感謝したと、陳寿は魏志倭人伝に書いたのである。

これだけ書けば魏志倭人伝を読んだ人達は倭国における張政の功績は分かったのだろうと思う。

ついでなので書き加えると、これが後の前方後円墳の(倭国内での)流行と、
三種の神器につながるのだと思う。
倭國の人達は懲りたのである。
王位の継承の難しさと根回しの重要さに気がついたのである。
そこで倭國の人達は、古墳に故人をおさめる場を王位継承の儀式の場として使うようになる。
また、その前に根回しをして、王位継承の場では既に次期王と各人の役割を決めておくと言う
古事記に書かれた通りの方法を行うようになる。
そのせいで、古墳は重要な場所になり、大きくなっていくのである。
そして国家体制が固まった天武天皇くらい以降は古墳が小型化していくのである。

ちなみに三種の神器の話が出たので書いておくと、
この時に、思金神の指示によってはじめて三種の神器が作られている。
古事記から引用する。
<原文>
是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思
天照大御神が岩戸にこもってしまい(実際は亡くなって古墳の石棺に納められた)、
周囲が暗くなって(実際は戦争で国々が荒れてしまったので)
八百万の神々は困ってしまい、高皇産霊神の子の思金命にどうしたら良いか考えてもらった。
<原文>
集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取
天金山之鐵而求鍛人天津麻羅
而科伊斯許理度賣命令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠
而召天兒屋命布刀玉命而内拔天香山之眞男鹿之肩拔而取天香山之天之波波?

常世長鳴鳥を集めて鳴かさせて、天安河の川上にある天堅石を採って来て、
天金山の鉄を採取して、それを鍛える人として天津麻羅を探して来て、鍛錬させて、
伊斯許理度賣命に命じ鏡(八咫鏡)を作らせ、
玉祖命に八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠(八尺瓊勾玉)を作らせた。
そして天兒屋命と布刀玉命を呼んできて、
天香山の眞男鹿之肩(肩甲骨=占いをする為の骨)を拔いて、
天香山の天之波波?(字が読めない)=まじないの道具のようだを採ってこさせた。

ここを読むと皇位継承にはいくつかの道具が必要で、それを集めている。
既に鏡と玉は有るのだが、剣は無い。
これはまだ須佐之男命が八岐大蛇を退治する前だからだろう。
こんな感じで、この時から三種の神器が皇位継承に必須なものとして始まっているのである。

やっぱり魏志倭人伝から古事記ってつながっているじゃん。と思った。







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最終更新日  January 5, 2025 06:46:38 PM
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