PR
カレンダー
キーワードサーチ
コメント新着
フリーページ
投馬國や邪馬台国には中国の使者は行っていないと言っている。
僕も確かにそうだと思う。
何故なら帯方郡から不彌國までの文法構文と、
投馬國及び邪馬台国の部分の文法構文が違うからである。
高校の英語の授業では、多くの高校では文法を独立して習う。
その際に、SVO構文だとかSVOC構文だとかを教わる。
S=主語
V=動詞
O=目的語
C=補語(修飾語)
である。
日本語はS+C+Vの順に書かれることが多い。
例えば、彼女は(S)学校に(C)行く(V)の形である。
ところが英語では順序が変わる。
She(S) goes(V) to school(C)の順序になる。
これをSV構文と言い、後ろに目的語が加わった場合をSVO構文と言う。
中国語は日本後よりも英語に近い。
なので、魏志倭人伝は帯方郡から不彌國までは、
(主語は略して)動詞(行動の方法)+距離+目的地の順に書かれている。
例えば末蘆国から伊都国へ至る部分はこう書かれている。
東南陸行(動詞) 五百里(距離) 到伊都國(目的地)
これは行動形式つまり実際に行動した記録である。
ところが投馬國と邪馬台国に関する部分は文法構文が全然違っている。
目的地+動詞+距離・日数の順になっているのである。
例えば投馬國に至る部分はこうなっている。
南至投馬國(目的地) 水行(動詞) 二十日(距離・日数)
これは伝聞形式つまり人に聞いた形である。
つまり帯方郡から不彌國までは実際に行った記録で、
投馬國と邪馬台国に関わる部分は実際には行っておらず、
だれかしらの言ったことを記録したものだろうと言うことである。
これは僕も学者先生の説は正しいと思う。
その上で、両者が連続しているか、別々の話であるかが議論されており、
連続していると解釈する連続説と別々の話だと解釈する分散説があるのである。
これが両派に分かれて延々と議論されているのだが、
今日はその話ではなく、
帯方郡から不彌國まではどのようにして(何に基づいて)書かれたかを考えてみた。
帯方郡から不彌國までの記述は異常に細かいのに気づく。
そもそも何で「水行=恐らく岸沿いに行く」と「渡=大きな海を行く」を分けるのか?
どちらも船で行くのだから、「船で行けば」でいいじゃん!
そこで考えた。
もしかすると使う船の種類が違うから?
「水行」は小さい舟(例えば準構造船)で「渡」は大きい船だから?
でもそれだと韓国部分は水行なので、中国の使者の乗る船にふさわしくない。
立派な服を着て家来を連れた中国の使者が丸木舟に毛の生えたような準構造船には乗らない。
では何故か?
陳寿(三国志=魏志倭人伝の編集者)は単に船を乗り換えたことを書きたかったのでは?
つまり帯方郡を出発した船が狗邪韓国経由で末蘆国まで行くのではなく、
帯方郡から狗邪韓国まで乗った船と対馬海峡を渡る船は別の船だったのでは?
実は現代でも似たようなことをやっている。
東京湾内である。
東京湾内は航行する船の数が多く、地形や水路が複雑な為に「水先区」と言うのが有り、
その部分では船の航行は水先案内人が指導し、船はその指示により安全に航行する。
水先法と言う法律まで有って、勝手には水先案内人はできない。
古代の対馬海峡も同じだったのでは?
あそこは一定の流れで流れているのではなく、
時間や季節及び天気により流れの方向や速さが変わる。ひどい場所では逆転する。
なので、帯方郡から狗邪韓国まで来る船では対馬海峡は渡れなかったのだろう。
話はそれたが、そう言う細かな現地の事情まで陳寿が書くことができたのは何故か?
恐らく陳寿はこの部分を現代で言えば中国の使者の書いた「復命書」と「旅費計算書」により、
詳しく知ることができたのだろうと思う。
だから異常に詳しいのだ。
復命書と旅費計算書の例を載せる。まずは復命書の例。
陳寿は各国の王や官及び副官の名前まで書いている。
これはまさに復命書を参考にしたからだろう。
出張に行く場合、その目的とカウンターパート(対応する相手)は、
出張の成果や評価に大きな影響を与える。
そりゃそうだと思う。
例えば客先に営業に行って、担当者にしか会えないのと社長に会えたのでは評価が違う。
なので、復命書を書く場合はカウンターパートは重要な記載事項である。
また、記載(報告)内容も大きく響く。
観光に行くわけではないから、よく調べて詳しく報告することが望まれる。
なので魏志倭人伝では国の規模(戸数)や風俗は相当に詳しく書いている。
現地人(倭人)が刺青をしていようがアワビを食べていようが、魏の皇帝にはどうでも良いこと。
でも、そこまで詳しく調べたと言うのは評価が違うのである。
次に旅費計算書の例を載せる。
見づらいけれど、画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、
別のタブで大きな画像が開くので参考に。
中国の使者も仙人ではないのだから、出張に行けば旅費はかかるし報酬が必要。
1週間行くのと1年行くのでは宿泊費や日当は当然違うのである。
また、先に書いた船の乗り換えの話も、韓国内を進む船と対馬海峡を渡る船では料金が違う。
その支払いの為の根拠が必要だっただろうと思う。
よく魏志倭人伝を読んで、
狗邪韓国から対馬までの千里と壱岐から末蘆国までの千里が同じなのは変だと言う人がいるが、
料金が同じだったのならば支払われる交通費は同じなので、
同じ千里で使者にとっては同じことなのである。
だから地図の上での距離が多少違っても、
(正確な地図が無かった当時としては)気にならなかったのだろうと思う。
この復命書と旅費計算書を見ると、
魏志倭人伝の書き方(と言うか書かれた事)の意味がよく分かると思う。
例を書いてみる。
伊都国に関わる部分である。
東南陸行 五百里 到伊都國(どのようにして行くか、どのくらいの距離かが分かる。)
官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚(誰に会ったかが分かる)
有千餘戸(国の規模が分かる)
丗有王 皆 統屬女王國(会った人と何故王には会わなかったかが分かる)
郡使往來常所駐(魏と倭国の関係と使者の所在が分かる)
こうしてみると、この部分は想像によって書かれた物ではなく、
ちゃんと復命書や旅費計算書を元に実際のこととして書かれていることが分かる。
やっぱり帯方郡から不彌國までは中国の使者も実際に行っていたんだなぁ。