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ぼくとしちゃん

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January 21, 2025
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今、横浜市金沢区の古代を研究していて、
鎌倉や金沢区には鉄の製造に関する地名が多いので、色々と考えていてふと気がついた。

前にも鹿島神宮の神霊刀を見て、
鹿島神宮の御祭神が古事記や日本書紀に出てくる武甕槌大神であり、
何故この神を祀る神社が茨城に有り、
同様にこの神と一緒に神譲りや神武東征に関わるイベントに出てくる経津主神(フツヌシ)が
香取神宮に祭神として祀られているのかを考えると、
この両神が実は関東に居て、神武天皇の属するヤマト王権を助けたのが神話化したのであり、
両神がともに鉄剣に関わることから、関東の伊豆から茨城では砂鉄が採れ、

ちなみに鹿島神宮の神霊刀はこんな感じ。
鹿島神宮の神霊刀

鹿島神宮の刀作りに関しては常陸国風土記にも載っており、
すぐそばで鉄製造の遺跡も見つかっている。
比屋久内遺跡

同様に金沢区や鎌倉に近い、と言うか金沢区の裏側の栄区にでも製鉄遺跡が見つかっている。
上郷深田遺跡
まぁ横浜市は建設業に深くつながる議員が多いので開発優先になるのは仕方ないけれど、

ここで書かれた製鉄に使われた砂鉄を産出する円海山は金沢動物園のすぐ上で、
後世には畠山重忠が秩父の金沢村から鉄鍛冶達を連れて来て、ここの製鉄は本格化している。
そのせいで釜利谷と言う地名ができているが、
実は釜利谷以外にも付近には製鉄に関わる地名は多い。
まず上郷深田遺跡傍には鍛冶ヶ谷が有る。もうストレートに「鍛冶」。

黒湯自体は鉄分のせいではなく、お湯に含まれる「フミン酸」によるもの。
フミン酸は、土壌の中の動植物が長い時間をかけて分解・発酵された泥炭(モール)状の地層に
含まれる物質なので鉄には直接関係は無いが、
赤井と言う地名は井戸水などが含まれる鉄分により赤みがかっていたからだろうと思う。

鎌倉と言う地名も、通説では三方を囲まれた鎌倉の地形が元だと言うことになっているが、
別の説に藤原鎌足(かまたり)が、神宮にお参りする途中、由井里(今の由比ガ浜)に
泊まったところ、不思議な夢をみて、
いつも持っていた鎌(鎌槍(かまやり)のこと)を、大蔵の松ヶ岡に埋めました。
そこから「鎌倉」になったといわれている説が有り、
これはまさかの伝説なので信じがたいが、
この辺で鎌鑓が作られていたからと言うのならば、ちょっと信じられる。
鎌倉の海岸沿いでは、(品質は悪く刀作りには向かないけれど)砂鉄が採れたのである。

つまり関東の南側は各地で鉄が採れて、製鉄が盛んだったんではないかと思う。
そこで冒頭の神武東征の中の経津主神(フツヌシ)を尾張の高倉下が見つけた時の話である。
ここの部分は神武天皇がナガスネヒコに負けて兄の五瀬命を失い、
太陽に向かって進軍しているからだめなので、攻め入る方角を変えようと、
ぐるーっと和歌山を廻って熊野の方に上陸したが、
その土地の神の毒気にあたってみんな気を失った時の話である。
古事記にはこう書いている。
なお、原文と意訳はネットよりお借りした。
<原文>
故神倭伊波礼毘古命其地従り廻り熊野村に幸到之時大熊の髪出入り即ち失せき
爾神倭伊波礼毘古命條忽に遠延為御軍及皆遠延して而伏しき
此時熊野之高倉下(たかくらじ)一横刀を齎ち於天神御子到之地伏して而献之時天神御子
即ち寤め起ち詔はく長寝乎故其横刀受け取らせし之時
其の熊野の山之荒ぶる神自ら皆切仆
為爾其の惑ひ伏しし御軍悉く寤め起ちぬ
之故天神御子其の横刀を獲りし之所由を高倉下に問はし
答へ日さく
己夢に云さく天照大神高木神二柱の神之命以ち
建御雷神を召したまひて而詔はく
葦原中国者伊多玖佐夜藝帝阿理那理我御子等不平坐良志
其の葦原中国者専汝が言向之所国故汝建御雷神が可降
爾答へ日さく僕 雖不降専其の国を平げし之横刀有り
是の刀を可降(この刀の名佐士布都神と言い別名は甕布都神と云ひまたの名は布都御魂と言う。
此の刀者石上の神宮に坐す也)
此の刀を降らしむ状者高倉下之倉頂を穿ち其自り墮とし入れむ故阿佐米余玖
汝取り持ち天神御子に献れ故夢の教へに如ひて
而旦己が倉を見れ者信横刀有りし故是の横刀を以て
而献る耳於是亦高木大神之命を以覚に白さく
之天神御子此自り於奥の方莫使入幸そ
荒ふる神甚多し
今天 自り八咫鳥遣はす故其の八咫鳥の引道に従ひ
其の立たし後従り応え幸行せ

<意訳>
そして神倭伊波礼毘古命は、その地から回って熊野の村に到着された時、大熊が一瞬出入りし、
すぐに姿を消しました。
すると神倭伊波礼毘古命は見るみる体調を崩し嘔吐し、その軍も皆嘔吐して倒れました。
この時、熊野の高倉下は一本の太刀を持ち天神御子のところに参り、伏して献上した時、
天つ神の御子は間もなく目覚め起き上がり、
「こんなに長く寝ていたのか」とおっしゃりました。そしてその太刀を受け取られた時、
その熊野の山の荒ぶる神を自ら皆切り倒し、
よってその前後不覚で倒れていた御軍は悉く目覚め起き上がりました。
そこで天神御子はその太刀を獲たいきさつを高倉下にお尋ねになり、
お答え申し上げました。
「私の夢にお告げがありました。天照大御神と高木神、二柱の神の命をもち
建御雷神を呼び出されてこう仰いました。
『葦原中国はひどく騒がしく我らの御子たちは平定できない様子であります。
その葦原中国はお前に交渉を任せた国なので、お前こと建御雷神が降りるべきです。
とおっしゃりました。
しかし、それに対し建御雷神はこうお答えしました。
「私めが降りずとも、十分にその国を平定できる太刀がございます。
この太刀を降ろせばよろしいのです。」
(この太刀の名は佐士布都神、別名は甕布都神、布都御魂と申します。
この太刀は石上神宮に鎮座します。)
この太刀の降ろし方は、高倉下の倉の天井を突き抜け落とし入れるので、
朝に目覚めたらお前が仲立ちをし、天神御子に献れと夢で言われました。
そこで、夢の教えに従って朝に自分の倉を見たところ、実際に太刀がありましたので、
この太刀をお持ちし献りに上がりました。」
そしてまた、高木大神のお告げにより覚えていたことを申し上げました。
天神御子は、ここから奥の方へはまだお出かけになってはなりません。
荒ぶる神が大変多くいます。
直ちに天より八咫鳥を遣わしますから、その八咫鳥の導きに従い、
それが飛んでいった後についてお出かけください。」


一つはナガスネヒコに負けて太陽に背を向けて進軍すべく寄った熊野の地で、
地元の大熊(恐らくは地元の豪族)に攻められて、ほぼ全滅状態に近い状態になったと言う事
次にその時に高倉下(尾張の遠祖)が味方になり、
この高倉下が天照大御神の命を受けた建御雷神から布都御魂(ふつのみたま)と言う剣をもらい、
神武天皇に献上したところ、
神武天皇軍は復活し、
八咫烏も味方になって再度進軍を始めたと言うことです。

まず何で剣を手に入れただけで、負け続けていた神武天皇軍が復活したか?
恐らくは神武天皇軍は、それまでは銅剣を使っていたのだと思います。
当時鉄は貴重な資源で、それから作られた鉄剣はなかなか手に入りませんでした。
国内では鉄は(出雲以外では)手に入らず、
北部九州勢力は朝鮮半島から鉄鋌(てつてい)とよぶ短冊形の板に規格化された鉄素材を輸入し、
出雲勢力は奥出雲のたたら製鉄からできる玉鋼を利用し、
鉄剣を作っていました。
それ以外の勢力は、この2勢力に鉄を独占されて手に入れることができませんでした。
なので、ニギハヤヒから出雲の鉄剣を受け取っていたナガスネヒコに勝てなかったのです。
非科学的な「お日様の方向」なんて関係ありません。

ところが尾張は関東の鉄づくり集団と交易がありました。
いやもしかすると関東の国々は尾張の勢力の一部だったかもしれません。
これは僕の想像でしかありませんが、
関東南部の遺跡からは伊勢系の土器がよく出土します。
例えば平塚市田村の田村館跡からは、平安時代ではありますが伊勢系鍋が出土しています。
そもそも伊勢原と言う地名自体が伊勢との関係を暗示しています。
伊勢原市のホームページでは江戸時代に伊勢の人達が移り住んだからと書いていますが、
過去の歴史本を読むと鎌倉時代にはすでに伊勢神宮の人達がいたようです。
そう、源頼朝のお父さんである源義朝の大庭御厨襲撃事件です。
大庭御厨は伊勢神宮の所領で、源義朝は伊勢神宮の神官達を蹴散らしています。
縁もゆかりも無い伊勢神宮の御厨が寄進されたとは言えここに有るのは理由が有り、
1104年に鎌倉景正が開発した土地を伊勢恒吉の仲介により伊勢神宮に寄進したらしい。
伊勢恒吉って誰?名前が伊勢だけど伊勢神宮に関係ある人?
そもそも源頼朝のお母さんが熱田神宮の宮司の娘さんである。
絶対に南関東と尾張は関係が深いのだと思う。

横須賀と言う地名もそうである。
通説では「横に長く広がる須賀(砂州)」だから横須賀と名付けられたのがゆらいだが、
あの程度の長さの砂州ならば日本中にあるので、いまいち信じがたい。
いや長く横に広がる砂州=横須賀でも良いんだけれども、
そう言う表現を使う人達がそこに住んだから横須賀と言うようになったのではないだろうか?
愛知県東海市にも「横須賀」が有る。
もともとそこに居た人達がここに移住し、
自分達の故郷の名前を連れて来たのではないだろうか?

なので、神武天皇に茨城にいた建御雷神が、
俺はちょっと助けには行けないけれど、鉄剣(布都御魂)を送ってやるよ。それで頑張れ!
と鉄剣を送ってくれたので神武天皇はそれ以降連戦連勝し、
ついにヤマト王権を打ち立てたのだろう。

そしてその尾張と茨城や千葉、鎌倉や横須賀と金沢区の関係の元になったのが、
僕は神話に出てくるヤマトタケルノミコトの東征だと思う。
ヤマトタケルノミコトは関東に来る際に、
お妃さまの宮簀媛(みやずひめ)のお兄さんを連れてきている。
当然その家来も居ただろう。

でも、その後のエピソードを見ると大軍を連れてきたようには見えない。
焼津では地元の豪族にだまされて火攻めにあっている。
大軍ならば火攻めは無理だろう。火攻めは周囲を囲むから意味が有る。
横一直線では防衛ラインにはなっても、ヤマトタケルノミコトを殺すことはできない。
また横須賀の走水から千葉に渡るにしても、
大軍ならばたかだか東京湾の水流なので、収まるまで待てばよいのを、
弟橘姫が入水する騒ぎになっている。
大軍じゃなかったので小さな舟だったのだろう。

じゃぁ大軍じゃないと言うことは戦争をしに来たんじゃないのか?
僕は戦争ではなく、
ヤマト王権の為に武器=鉄剣を作ってくれるように同盟をしに来たんだと思う。
そう、神武天皇が高倉下を頼りに関東から鉄剣を得たように、
ヤマトタケルノミコトも尾張のお姫様宮簀媛を(政略結婚だが)お妃にして、
誰か関東に顔が効く人が必要なので、彼女のお兄さんを連れて交渉に行ったのだろう。
その際に、古事記で有名な草薙の剣を伊勢神宮の倭姫命から預かっている。

神話が好きな学者先生は「焼津で命を救う為に草薙の剣を預かった」と言うだろうけれども、
出発時点では焼津で火攻めに会うことは知らないはず。
と言うか、そもそも知っていたら罠にかかるはずが無い。
罠にかかる前に相手を殺せばいい。罠にかかってから反撃するよりも簡単。
では何故草薙の剣を持って行ったか?
恐らくは見本だと思う。
こんな長さでこのくらい丈夫なカッコいい鉄剣を作ってくれと頼む為の見本である。
その結果、交渉は上手くいき、ヤマトタケルノミコトは尾張に帰って姫と結婚する。

だから草薙の剣は宮簀媛の作った熱田神宮に祀られて、
本来、誰でも考えるように宮中や伊勢神宮に有るはずなのにそこにはなく、
熱田神宮に納められているのだと思う。






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最終更新日  January 21, 2025 11:42:35 PM
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