日本を征服だ!

日本を征服だ!

PR

×

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ぼくとしちゃん

ぼくとしちゃん

フリーページ

July 19, 2025
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
本当は「古事記」と「日本書紀」があるのか?とは関係が無いのだけれども、
歴史学者の罪深さと言う意味では、おおいに関連があるのでここに書くことにした。

歴史学者の罪が大きいのは、彼らの研究体制と考え方が間違っているからである。
彼等は史実あるいは事実を研究するのではなく、暗記するのに重きを置き過ぎる。
彼等の本を読んでみれば分かる。
本の中で重きを置いているのは、「何年に誰がそう言った」と言うことで、
その内容には触れていない場合がほとんどである。

例えば古事記や日本書紀であれば、下手をすると「本居宣長がそう言った」と言う感じである。

本居宣長の貢献度は高いのであるが、
もう江戸時代の人のなので、情報量や知識に関しても、一人の人間のこととしては限界がある。
正しい事も多いが、当然誤りもある。
歴史学者の悪いことは、
内容ではなく本居宣長がそう言ったと言う権威に拠りどころを求める所である。

なので立派な歴史学者はそう言うことは少ないのだが、
世の中に占める割合の多い「ただ暗記するだけ」の歴史学者は、
下手をすると「小説の類」と「史実」さえ混同してしまう。
良い例が「源平の戦いで平氏がほろんだ」と言う学者である。
平氏は滅んではいないし、そもそも「源平の戦い」ではない。

壇の浦で滅んだのは「平家」であって「平氏」ではない。

例えば平家を除く平氏には坂東八平氏がいるが、北条氏や三浦氏をはじめこちらの方が多い。

そして平家を壇の浦で滅ぼしたのは、確かに源義経が有名ではあるが、
人数的には圧倒的に北条氏や三浦氏そして畠山・梶原と言った平氏が多い。
つまりあれは、平家と平家を除いた他の平氏の戦いだったと言う側面が大きいのである。
つまり平・平の戦い。


義経は(北条氏や三浦氏に操られた)頼朝によって滅び、
その頼朝自身は北条氏に暗殺され(吾妻鏡はそのせいで頼朝の死前後3年間が空白)、
頼朝の子の頼家は伊豆でお風呂に入っている所を北条に殺され、
頼家の弟の実朝は頼家の子の公暁に殺されて、公暁も北条氏に殺されて源氏は滅びる。
つまり源氏同士が殺しあったのである。
源・源の戦いと言えるだろう。

これを見ると、源平の戦いと言うだけでなく、平・平の戦い、源・源の戦いが有るのである。
「源平の戦い」だけクローズアップされたのは、
源義経のキャラクターと悲劇性が、物語的に面白くて、売れたからにすぎず、
史実及び事実としては、ごく一部だけをクローズアップしたもので、歴史的には間違い。
日本人は勧善懲悪の物語が好きなので、
悲劇の主人公「源義経」と悪党の平清盛を使って、物語を盛り上げただけである。
分かりやすい例をあげれば、有名な「ひよどりごえ」が有る。
鹿さえも避けて通る急峻ながけを馬で駆け降りた場面である。
いくら優秀な指揮官の義経がはっぱをかけても、家来たちが怖気づいては話にならない。
義経の指示を最初に実行し、馬をかついで駆け降りた「畠山重忠」がいたから、
他の家来達も俺も俺もと一の谷のひよどりごえを駆け降りたのである。
畠山重忠も坂東平氏で、後に同じ平氏の北条義時に滅ぼされる。

でも末端の「暗記するだけ」の歴史学者にとっては、
暗記するだけなので、史実と物語の区別がついていないから、
「平氏が滅びた」などと言うのである。
平氏は「鎌倉幕府を開く」のを助けて、後に実質的に天下を取っている。

「源平の戦い」と呼ぶその戦いだって、それの発端になった、
「保元の乱」では源氏と平氏はそれぞれ敵味方に分かれて戦っている。
源義朝(頼朝のお父さん)に対し源為義(頼朝のお祖父さん)及び源為朝が戦っている。
親子で戦ったんだなぁ。
また平清盛に対し平忠正(清盛のおじさん)が戦っている。
元々「源平の戦い」ではない。
ただ保元の乱に続いて起こった「平治の乱」で平清盛が源義朝を滅ぼし、
その子の頼朝と義経が生き延びて、清盛の死後に清盛の子達を滅ぼしたのである。
だから、源氏と平氏の戦いではなく、個人的な戦いにすぎない。

この誤解を解くためには歴史学者の先生方は、平家と平氏の違いを説くべきだろうし、
それは「氏(うじ)」と「苗字(みょうじ)」の違いを説明する方が良いと思う。
つまり田中角栄の田中と平清盛の平は別物だと言うことである。
例えば北条政子は文書によっては「平政子」と書かれており、
北条政子と言う呼び名は現代のものであって、平政子から北条政子に名前を変えたわけではない。
北条時政も平時政である。
天皇から賜った姓(かばね)が「平朝臣(たいらのあっそん)」だったら平氏、
「源朝臣(みなもとのあっそん)」だったら源氏ということである。
織田信長は「平朝臣、織田上総介、三郎、信長」と呼ばれていた。
「平朝臣」が本姓、氏素性で、織田が苗字、上総介が官職、通称が三郎、信長が忌み名である。

これは源氏方も同じで、有名な武田信玄も「源朝臣」だし、徳川家康も「源朝臣」である。
直接の関係は無いけれど、ついでに面白いのでいうと、
実は家康は松平から徳川に改姓したと言うのは半分は本当で半分は誤り。
家康の「松平」から「徳川」への改姓は、
永禄9年(1566)12月3日付近衛前久書状に事情が書かれている(「近衛家文書」)。
実は家康が「徳川」に改姓するまで、書状などに「徳川」と署名した文書はない。
改正以後もわずか2通の書状を除き、自ら「徳川」と署名した文書もない。
「松平」のままでは従五位下・三河守への叙位任官が困難だったので、
家康が「徳川」に改姓することで認めてもらうよう画策したのではないかと指摘されている。
この件に関しては、実は家康は公式には「源朝臣」ではなく「藤原朝臣」として認められている。

正親町天皇は家康を公家として処遇したかったが、家康の家系の徳川では先例がなかった。
ところが、徳川の源氏には2つの系統があり、惣領の系統が藤原氏になった例が報告された。
この情報を知らせたのは、吉田兼右だった。
そこで、家康の本姓を「源」から「藤原」に変更することで、
従五位下・三河守の叙位任官が叶ったのである。
当時は先例を重んじる気風があったので、こうした「裏技」を使ったのである。

つまり、これらは全て現代人が姓(かばね)と苗字を混同していることから発生している。
なので、歴史学者の先生は、そこのところを上手く説明した方が良いのじゃないかなと思う。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  July 21, 2025 08:17:05 PM
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: