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August 3, 2025
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YOU YUBEに有ったコメントを見ていて、
「熊襲とは狗奴国の子孫である」と書いてあるのを見て、
かって自分もそう思っていた時期が有ったなと思い、
しかし今ではそれが誤りであることを確信しているので、
真実を知るには古事記や日本書紀及び魏志倭人伝を「原典で」読むのが大事なんだよなと思った。
それは原典で読まないと、
現代訳になる際には、その現代訳を書いた学者の誤った考えが含まれてしまうからである。

この「熊襲とは狗奴国の子孫である」と言うのがその良い例で、
多くの学者がそう主張しているのだが、

その誤った解釈の元になっているのが、
魏志倭人伝に卑弥呼と狗奴国の戦いについての記述であり、
また古事記や日本書紀に景行天皇の九州巡幸のことが書かれており、
熊襲はそこに出ているので、
邪馬台国が後のヤマト王権であるならば、
その敵国だった狗奴国が熊襲に違いなく、
その狗奴国が熊本に有ったならば、
北九州に有った邪馬台国の南に在った狗奴国が熊襲だと勘違いしている学者達が、
そのような誤解をするのである。

まずは邪馬台国の敵国であった狗奴国がどこにあったか、
この基本的な部分を従来の歴史学者が間違って解釈していることを立証してみる。


魏志倭人伝の次の部分を読めば分かる。
<原文>
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 (途中略)

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

<意訳>
南には邪馬台国がある。女王の都とする所である。水行十日、陸行一月で着く。
官は伊支馬と言う。次は彌馬升と言う。次は彌馬獲支と言う。次は奴佳鞮と言う。
およそ七万余戸である。
女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを 記載出来るが、
その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次に斯馬国が有る。
(途中略)
次に奴國がある。ここが女王の境界の尽きる所である。(つまり女王の勢力圏)
其の南に狗奴国が有る。男が王様である。その官に狗古智卑狗がいる。女王に属さない。
帯方郡より女王国までは1万2千里である。

ここで重要なのは「自郡至女王國 萬二千餘里」である。
今までの学者達は「次有奴國 此女王境界所盡」で「其餘旁國」の話が終わっているので、
「其南有狗奴國」の「其」を女王国と考えて、
女王国の南に狗奴国が有ると考えて来た。
ほんとうにそうだろうか?
もしそうならば、「次有奴國 此女王境界所盡」の所で「其餘旁國」の話は終わっているので、
「自郡至女王國 萬二千餘里」はここに書かれるはずである。
ところが現実には狗奴国の説明の後に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれている。
どうしてそうなっているのか?
答えは一つしか無い。

「其南有狗奴國」の「其」は女王国ではなく、直前に書かれている「奴國」であり、
奴国の南に狗奴国が有ると読むべきなのである。
そして女王には属さない狗奴国も「其餘旁國」の一部なので、話はまだ続いており、
「其餘旁國」の話が終わる狗奴国の後に、
「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのであある。
これに気がつかない歴史学者が多すぎると思う。
なので、狗奴国は女王国の北側に在り、
もし狗奴国が熊本ならば、女王国はそれより南の宮崎や鹿児島に在るのである。
(「其餘旁國」は女王国の周囲の国と読むべきであって、
 狗奴国が必ずしも女王国の北側とは限らないのではと言う意見はあるが、
 ここは「水行十日、陸行一月で着く」と言う文から考えている。
 狗奴国が現在の熊本県菊池郡あたりとすると
 狗奴国はせいぜい「陸行10日程度」なので、
 女王国が南に陸行一月ならばそれよりもはるかに南であると言う推理から、
 女王国は狗奴国よりも南と考えているのである。)

そうすると、よく問題になる「水行十日陸行一月」と言う女王国に至る経路も、
筑後川+有明海が水行10日で、九州山地の中を陸行一月歩くと着く宮崎県南部が、
女王国の所在地として有力になる。
(海沿いならば陸行一月ではなく投馬國のように水行で行けるので、内陸部である。)

次に古事記や日本書紀の中で熊襲が出てくる部分、
つまり景行天皇九州巡幸の部分についてみてみる。
景行天皇の九州巡幸については以前の下の記事に書いている。
景行天皇の九州巡幸について=熊襲とは何か?

ここに書いているように、
日本書紀では山口県や福岡県の東部及び大分県部分では、「熊襲」と言う言葉は出てこない。
すべて「賊」や「土蜘蛛」である。
そして宮崎(日向)に至って初めて「熊襲を討つ為の会議」を開いている。
そして熊襲の平定後、夷守(宮崎県小林市)で女首長の歓迎を受けて、
熊本(球磨川付近)で賊に会うが、ここではもう「熊襲」とは言っていない。
つまり「熊襲」と言っているのは、日向での会議後で夷守での祝福前の賊の時だけである。
日本書紀をちゃんと読めば狗奴国が熊襲では無い事が分かる。

そしてとどめとなるのが、古事記に書かれた以下の記述である。
イザナギ・イザナミの国生みの部分である。
<原文>
次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四
每面有名故筑紫國謂白日別豐國謂豐日別肥國謂建日向日豐久士比泥別熊會國謂建日別
<簡単な意訳>
次に筑紫の島(九州)を生みました。この島も身体一つに4つの顔が有り、
顔毎に名が有り、筑紫の国(福岡県西部)は白日別と言い、
豊の国(福岡県東部と大分県)は豊日別と言い、
肥の国(長崎県、佐賀県と熊本県)は建日向日豊久士比泥別と言い、
熊襲の国(宮崎県·鹿児島県)は建日別といいます。

つまり古事記の中では熊襲の国について書かれているのである。
同じ古事記の中なので、
景行天皇の場面の熊襲と国生みの場面の熊襲は同じはずである。
つまり熊本である肥の国や大分である豊の国ではない。

こうして僕はかって考えていた「熊襲は狗奴国の子孫」と言うのが間違いだと理解し、
熊襲は相続争いによって分裂した女王国のなれの果てだと考えるのである。
神話の中では神武天皇のお祖父さんつまり山幸彦は海幸彦と争う。
釣り針の話は素直に相続争いとは書けなかった古事記の作者の気遣いだと思う。
山幸彦は都城付近に居た和邇氏の先祖の娘を嫁にもらって海幸彦に勝ち、
(都城には今でも鰐塚山が有る。
   また古事記には山幸彦のお嫁さんは八尋の鰐と書かれている。
 つまり山幸彦の奥様で神武天皇のお祖母様は都城付近に居た和邇氏の祖先だと思う。)
その後その山幸彦の子孫は東征して大和に国を開く。
神武天皇である。
後世に都城付近に残された海幸彦の子孫が反乱を起こしたので、
山幸彦の子孫の景行天皇が滅ぼしに九州巡幸を行ったのである。
なお、都城から神武天皇に従って近畿まで来た和珥氏は、
大和国(奈良県)添上郡和邇に住みつきましたので、
ここが和爾氏の本拠地とされている。
そう考えると、魏志倭人伝と古事記や日本書紀はスムーズにつながるのである。

何で歴史学者はそのことに気がつかないのだろう?






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最終更新日  August 4, 2025 02:41:53 PM
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