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August 12, 2025
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宮崎には北の方に高千穂峡が、南の方に高千穂の峰が在り、
どちらが古事記や日本書紀に書かれた「高千穂の峰」なのか争っていて、
観光地としての高千穂峡の方が知名度が高いので、
何も知らない人は、天孫降臨の地は高千穂峡の方だと勘違いしている人が多い。

古事記の該当部分を見るとこうなっている。天孫降臨の場面である。
<原文>
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
<意訳>


ところが、続きが有る。
<原文>
於是詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔
<意訳>
この国は韓の国に向かい、往来するのに(多分舟で行く際に)適した笠紗の岬があり、
朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地なので、この国はとてもよい土地だなぁと仰った。

高千穂峡近くには韓の国に関わる地名は無く、笠紗の岬も無い。
両者が有るのは高千穂の峰の傍である。
高千穂峡も朝日が直接差しタ日が明るく照らす土地ではあるが、
それは宮崎はどこでもそうである。

これだけでは決着はつかない。
なので日本書紀の当該部分を見る。
但し、日本書紀はけっこう本格的な漢文で難しいので、意訳文を載せる。
<意訳>
天津彦火瓊瓊杵尊は、日向の日の高千穂峯に降られて、
膂央の胸副国(瘦せた土地の国)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地に立たれ、
国主である事勝国勝長狭を召されて尋ねられた。
事勝国勝長狭は、「ここに国があります。お好きなようになさってください」と答えた。

また、日本書紀は別の文書も一書として載せており、それにはこう書かれている。
日向の襲の高千穂の、扼日の二上峯の天浮橋に至り、
「浮渚在平処」にお立ちになって、膂央の空国を、丘続きに求め歩いて、
吾田の長屋の笠狭の崎に着かれた。

ハッキリと「襲の高千穂」と書かれている。
古事記の国生みの場面で、イザナギとイザナミが生んだ九州には4つの国が有り、
「筑紫の国」、「肥の国」、「豊の国」及び「熊襲の国」である。
同じ古事記の中の話なので、襲の高千穂は古の熊襲の国である。

また「笠狭の崎」は「吾田の長屋」である。
和名類聚抄地名では吾田とは現在の「薩摩国阿多郡」である。

どうしてもプライドが許さない歴史学者は、
天津彦火瓊瓊杵尊が高千穂峡に降り立って、良い国を求めてさまよって(丘続きに求め歩いて)、
吾田の長屋の笠狭の崎に着いたのだと主張するが、
そもそも日本書紀には「峯」と書かれており「峡」とは書かれていない。

一部の学者は二上峯が高千穂の峰には無いと主張するが、
現地で霧島山系を眺めればすぐに分かる。


高千穂の峰と韓国岳は上の写真の瓊瓊杵尊が降り立った方角から見れば完全に「二上峯」である。
そしてプライドの高い学者は日本書紀の「空国(からくに)」をむりやり「そらくに」と読むが、
古事記と合わせて読めば「韓国(からくに)と読むのは明白である。「空」も「から」である。
では、ここから韓国が見えるのであろうか?
古くは異国全般を「韓」と呼んだ。

この韓国岳のふもとには「えびの」市がある。
市のホームページでは、その名前の由来を「すすきの蝦(えび)色」に染まった野だとするが、
そんな理由なら全国の野原は全部「えびの」である。
そうでは無いと思う。

この付近の古い伝説や言い伝えには「隠れ里」が多い。
ぼくはここには中国や韓国から、戦乱を逃れて来た渡来人が多く住んで居たのだと思う。
例えば熊本県葦北郡には百済人が多く住んで居て名前が残る「百済来村」が有る。

僕はよく「日本伝説体系(南九州)」を読むが、鹿児島から宮崎には「隠れ里」伝説が多い。
例えば鹿児島県肝属郡高山町(きもつきぐんこうやまちょう=今は合併して肝付町)や、
姶良郡霧島町、川辺郡知覧町等に隠れ里伝説が残っている。

なので、えびすに渡来人が隠れて住んで居ても何の不思議もないのであるが、
もしえびのに渡来人の集落が有ったのならば、
「えびの」は「戎(えびす=渡来人)の野」なのではないかと言う気がしてくる。
もしそうならば、天津彦火瓊瓊杵尊が韓国岳からえびのを眺めて、
「この国は韓の国に向かい」と仰っても何の違和感も無いのである。

つまり高千穂の峰が天孫降臨の地だと言う裏付けは多いのである。
では何故宮崎県北部に「高千穂峡」が有り、そこが天孫降臨の地であると主張する人が居るか?
それは、元狗奴国の子孫達が本来邪馬台国の神話であった天孫降臨の神話を、
自分達のものとして奪おうと考えたからである。
なので、熊本から大分にかけて存在した狗奴国に近く、
本来の天孫降臨の地から離れた高千穂峡を作り上げたのである。

「高千穂峡を作り上げた」と言うのは現地に行って見ればすぐに分かる。
高千穂峡は観光写真でも流れ落ちる滝で有名であるが、
あの滝は人工の作り物の滝である。


つまりいかにも神秘的な所と言う雰囲気を出す為に造られた物なのである。
高千穂峡に有る「天の岩戸」も同様に作られたものなのだと思う。

何故そのようなことをしたか?
全ては狗奴国の子孫が王権を奪回して天皇家にもぐりこんだ時に始まったのだと思う。
それはいつか?応神天皇の時代である。
古事記や日本書紀にも書かれている通り、
神功皇后と竹内宿祢は仲哀天皇の2人の子を殺し、自身の子の応神天皇を天皇の位につけている。
仲哀天皇が九州で死んだ時の様子はあまりにも怪しくて、
仲哀天皇は「神を疑って逆らって」、琴を弾いているうちに(何故か)死んでしまう。
しかも2人は仲哀天皇の2人の子、麛坂皇子と忍熊皇子と戦って殺す。
何でそうなったのか?

神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高顙媛であるが、
母の葛城高顙媛は新羅から来たアメノヒホコの子孫である。
息長宿禰王の御先祖様には丹波道主がおり、丹波は新羅の第4代の王「脱解尼師今」の故郷である。
つまり神功皇后は新羅の王家と縁が深い。
なので日本書紀を読んでも仲哀天皇に対して「新羅とは戦ってはいけない」と主張している。
神功皇后と竹内宿祢が仲哀天皇を殺したのではないだろうか?
なので、仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子は敵討ちと考えて神功皇后を待ち受けて殺そうとした。
ところが、神功皇后には意外な味方がついていた。
それが狗奴国の子孫達なんだと思う。

狗奴国の子孫達にしてみれば、邪馬台国の子孫の仲哀天皇の子の麛坂皇子と忍熊皇子を殺し、
神功皇后と応神天皇を助ければ、今度は自分達が倭国の中心になれるからである。
なので、応神天皇と神功皇后は狗奴国の中心であった熊本や大分を中心とした九州に、
例えば宇佐八幡宮のように祀られた神社が多いのだと思う。

勝った神功皇后と応神天皇の子孫は天皇家を継ぎ、
その五代後の継体天皇が現皇室の御先祖様である。
継体天皇が天皇になった際にも謎が多い。
先代の武烈天皇は異常なくらいメチャメチャに書かれている。
いやしくも天皇がそんな行いはしないと思うくらいである。
本当に子供がいなかったのだろうか?
本当は狗奴国に王座を奪われた邪馬台国の子孫達が復活しそうになって、
戦争にはならなかったが、皇室内で非情な戦いが有ったのではないだろうか?
そのせいで継体天皇は19年も都には入れずさまよっている。
継体天皇は仁賢天皇の皇女の手白香皇女を奥さんにもらって事態を収拾している。
手白香皇女は邪馬台国側の人で、
狗奴国側の継体天皇と邪馬台国側の手白香皇女が夫婦になることにより、
狗奴国側と邪馬台国側が妥協したのではないだろうか?
そして、その子孫の推古天皇までが狗奴国の子孫なんだと思う。
その証拠はあるのか?
実は物的証拠が残っている。

継体天皇の真陵である今城塚古墳や、推古天皇の初陵である植山古墳の石棺は、
熊本の馬門石でできていたと確認されている。
何故わざわざ熊本から石棺を運んで来たのか?
先祖代々の霊を祀る為である。
熊本と言えば狗奴国。大分は熊本から近畿に至る経路。
神功皇后の時代には熊本から大分が狗奴国の子孫の治める地だったのだと思う。

狗奴国王のスサノオは朝鮮(恐らく新羅)に追放されたのだけれども、
その子孫は、神功皇后と応神天皇の時代に再度日本の中心に戻って来たのだと思う。

そして邪馬台国を消し去ろうと考えたのである。
ただ、人々の頭の中に残る神話は消せなかった。
なので、狗奴国に近く、実際の位置とは違う高千穂峡に偽の天孫降臨の地を作り、
邪馬台国は神話の中に隠そうとしたのだと思う。
そのせいで、古事記や日本書紀には邪馬台国について何も書かれておらず、
神話の中にだけ、ほのめかす程度に天照大御神やスサノオのことが書かれているのである。

また、その事を感じさせる別の証拠がある。
隋書倭国伝である。
この本は「推古天皇の時代に来た中国の使者が会ったのは男で、奥さんやお妾さんがいた」とか、
倭國の王の名は「俀王姓阿毎字多利思北孤」と書いており、「アメのタリシヒコ」だとされ、
これが聖徳太子だとか、蘇我馬子だとか色々と言われている本である。
その中で、こう書かれている。
<原文>
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
依山島而居
魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海
地勢東高西下 都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也
<意訳>
俀国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り。
山や島に寄添うようにして暮らしている。
魏の時、中国に訳通するは三十余国。みな王を自称す。
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る。
その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤマト)を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤマタイ)である。

つまり近畿の奈良が邪馬台国だと教えられている。
そりゃそうだと思う。
私達は狗奴国の子孫なんですよとは口が裂けても言えないと思う。
このせいで今でも歴史学者達は邪馬台国近畿説を支持するのだと思う。
でも文章をよく読んで欲しい。
「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」
つまり「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と、
魏志倭人伝とは方位と距離が変わっている。
また、「其國境東西五月行南北三月行各至於海」と、
南北は恐らく九州であろうから、東西はその比率から考えて伊勢湾まで有ると分かる。
とすると、魏志倭人伝の時代の情報とは違うのである。
魏志倭人伝では「南へ南へ」と進むのに、ここでは「東南」とされている。
邪馬台国から邪靡堆(ヤマト)へと移っている。
但し、推古天皇の影武者(聖徳太子?)は本当のことは言えないので、
「そうなんです。ここが魏志倭人伝に書かれた邪馬台国なんですよ」と嘘をついているのである。
もし邪馬台国ならば「邪靡堆」ではなく「邪馬台国」で良いんじゃない?

ここまで書くと「高千穂の峰」と「高千穂峡」が宮崎の南の果てと北の果ての2か所にある理由が、
分かったと思う。
狗奴国の子孫の推古天皇の時代に本当の邪馬台国を消し去り、
自分達狗奴国の子孫こそ天孫だとごまかそうとしたのである。
だから古事記や日本書紀には邪馬台国や卑弥呼が載っていないのだと思う。

<後日追記>
「百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在り」と言うのは、
この使者が推古天皇の時代の使者なので、
会ったのはその時代の天皇、ならば奈良まで来たと考えたのだが、
そうではなくて、百済、新羅の東南、水陸三千里と言うことは北九州ではないだろうか?

魏志倭人伝を読むと、帯方郡から朝鮮半島の南端狗邪韓国まで7000里と書いている。
その計算で行くと、百済や新羅から3000里なんてせいぜい九州の北部。
もしかすると、中国の使者が会ったのは「九州王朝の天皇」なのかもしれない。
もしそうならば、男だとしても何の問題も無く、
名前の「アメのタリシヒコ」と言うのは、
天(アメ)の足または帯(両方ともタラシ)彦なのかもしれない。
仲哀天皇だって「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」だから「たらし」だし。
そもそも天孫(天からたらし=降りて来た=彦=男)なのかもしれない。

もしそうなら大変なことだなぁ。
それって推古天皇の時代まで、中国の使者が来る日本の中心は北九州で、
奈良の大和は「近畿地方事務局」だったと言うことだから。
そうか、だから白村江の戦いの時は斉明天皇も九州まで来たのか。
九州の本社が負けたら奈良の近畿地方事務局だって大変だからなぁ。
そして唐に負けて九州王朝が滅んだので、
奈良の近畿地方事務局が、倭から日本に名前を変えた日本の都になったのか。

<さらに後日追記>
上の後日追記は隋書倭国伝なのであるが、
さらに同じような内容が旧唐書や新唐書にも書かれており、
その中にも「アメのタリシヒコ」について書かれており、
特に新唐書では、その正体が分かる書き方をしている。
但し、実はまだ自分では意訳さえもできておらず、ここに載せられる状況ではない。
ちょっとだけ他の人が現代語訳したのを引用する。
<引用>
日本國の官位には十二等級(冠位十二階)があり、国王の姓は阿毎(あめ又はあま)氏である。
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と名乗り、
彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで、およそ三十二代とされている。
(古事記によれば「ひこなぎさ」とは天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこなぎさ
 たけ うがやふきあえず の みことのことである。)
彼らは皆、尊(みこと)を尊称として、筑紫城に存在していた。
(そして)彦瀲の子の神武(じんむ)が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、
大和州に移り住んでその地を治めた。(神武東征のこと?)
神武の次を綏靖(すいぜい)と云い、その次は安寧(あんねい)、その次は懿德(いとく)、
その次は孝昭(こうしょう)、その次は天安(孝安~こうあんの間違い)、
その次は孝靈(こうれい)、その次は孝元(こうげん)、その次は開化(かいか)、
その次は崇神(すじん)、その次は垂仁(すいにん)、その次は景行(けいこう)、そ
の次は成務(せいむ)、その次は仲哀(ちゅうあい)となる。
仲哀が死んだあと、開化の曽孫女(そうそんじょ~ひ孫むすめ)の神功(じんぐう)を王とした。
その次は応神(おうじん)、その次は仁德(にんとく)、その次は履中(りちゅう)、
その次は反正(はんぜい)、その次は允恭(いんぎょう)、その次は安康(あんこう)、
その次は雄略(ゆうりゃく)、その次は清寧(せいねい)、その次は顯宗(けんそう)、
その次は仁賢(にんけん)、その次は武烈(ぶれつ)、その次は継体(けいたい)、
その次は安閑(あんかん)、その次は宣化(せんか)、その次は欽明(きんめい)である。
(ちゃんと歴代天皇の情報を一部に間違いはあるが概ね把握している。)

欽明の十一年は、梁(りょう)の承聖(しょうせい)元年(552年)にあたる。
その次は海達(敏達~びんたつ)、その次は用明(ようめい)となる。
また言うには、
多利思北孤(たりしひこ)の代理として来朝したのは隋の開皇(かいこう)末(600年)にあたり、
そのとき初めて(大和王朝は)中国と国交を通じたのである。(つまりその前は倭国王朝?)
その次は崇峻(すしゅん)となる。
その崇峻が死んで、欽明の孫女の雄古(推古~すいこ)が継いだ。
その次は舒明(じょめい)、その次は皇極(こうぎょく)となっている。
(中国側は天皇の相続は「親から子へ」が当たり前と考えているので、
 日本側が「親から子でない」場合は相続関係が変になっている。)
こうしてみると、多利思北孤(たりしひこ)とは用明天皇じゃん。
ただ、日本側の時間とは少しずれており、日本側の時間では推古天皇になるんだけれど、
まぁ、遠く離れた国だし、古代の話だから、ちょっとしたズレは仕方ないのかな?

でも、本当にそう?







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最終更新日  August 14, 2025 04:58:31 AM
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