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ぼくとしちゃん

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August 30, 2025
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実はわの会は7月はトルコとギリシャに行ったせいで、
8月は座学でDVDを見る回だったのを時間を間違えて欠席してしまったので、
このブログもお休みしている。
でも間が空くのは気分的にいやなので、
イベントには本当は参加していないけれど、
「妄想したこと」を書くことにした。
あくまでも妄想で、夢に見たようなものなので確たる証拠は無いけれど、
日本中のどの先生も書いたことが無いと思う内容なので面白いと思う。

鎌倉時代に突入する一連の出来事では、

本当だろうか?
きっかけとなった保元の乱と平治の乱を調べてみた。
まず保元の乱であるが、
これは皇室の皇位継承や摂関家の内紛から発生した政変である。
朝廷が「後白河法皇」方と「崇徳上皇」方に分かれ、
それぞれに摂関家と武士達が従って、当時としては珍しく武力による衝突が始まった。
     後白河法皇一派    崇徳上皇一派
摂関家  藤原忠通       藤原頼長
     藤原通憲(信西)
武家   源義朝        源為義
     源頼政        源為朝               

     他          他
見て分かるように、皇室も摂関家も武家も綺麗に2つに分かれており、
源氏と平家の戦いにはなっていない。

続けて起こった平治の乱は、
ここで力をつけた平清盛が信西と組んで後白河法皇を利用してのし上がった戦いである。

摂関家  藤原忠通       藤原信頼
     信西         藤原惟方
                藤原経宗
武家   平清盛        源義朝
     平重盛        源季実
     平経盛        源重成
     他          他
ここではもう源氏方は保元の乱で弱っていながらも義朝は皆を率いて戦っており、
はっきりと平家と源氏の戦いになっている。
そして尾張に逃げた源義朝は長田父子に裏切られて殺されたが、
頼朝たち幼かった子達は清盛の母の池の禅尼の助命により助かる。

で、伊豆に流された頼朝が平家を滅ぼしたと言う話である。
でも本当に頼朝が平家を滅ぼしたのであろうか?
実は平清盛を滅ぼしたのは「病気」である。
また、京から平家を追い出したのは源(木曽)義仲である。
落ちのびる平家を壇の浦で滅ぼしたのは源義経である。
頼朝は見ていただけである。
僕は頼朝は平清盛の母である池の禅尼に助けられた経緯も有り、
平家は朝廷から追い出すだけで滅ぼすことまでは考えていなかったのではないかと思っている。
また屋島や壇の浦で平家を滅ぼしたのは、北条や三浦及び畠山等の武士つまり坂東平氏である。
「ひよどりごえ」の戦いではそれを命じた源義経が有名であるが、
馬を担いで降りて見せた畠山重忠だって大事な役割を果たしている。
他の武士達は彼を見て大丈夫だと思い決心したのである。
彼がいなければ、皆は命令に従わなかっただろう。
つまり平家を滅ぼしたのは(平家を除く)平氏だったのである。
源平の戦いと言うよりは平・平の戦いだったと言う側面が強い。

しかもその後、頼朝は源(木曽)義仲や源義経を殺している。
源義仲の子と頼朝の娘の大姫は恋仲だったらしい。
義経は腹違いとは言え弟である。
これって源・源の戦いでは?
そうそう頼朝は別の弟の源範頼や阿野全成も殺している。

「源平の戦い」じゃないじゃん。

じゃぁ頼朝は何がしたかったのか?

実は頼朝のお母さんは熱田神宮の大宮司である藤原季範の娘である。
藤原季範の母親は「尾張氏」の末裔で尾張の国司である藤原氏と対立していたらしい。
尾張は天武天皇が戦いを起した際には天武天皇を助けている。
継体天皇が戦いを起した際には継体天皇を助けている。
つまり天皇家に内紛が起こった際にはよく介入して、天皇家内の争いを助けている。
これは神武天皇の時代からそうで、高倉下(尾張の祖)は神武天皇を助けている。

尾張は天皇家の敵役(あるいは黒衣)なのではないだろうか?
後世の織田信長や秀吉・家康も尾張(付近:岡崎とか)の出身で、
彼等により天皇家は日本の支配者ではなくなっている。
頼朝も本来の目的は天皇家の打倒だったのではないだろうか?
そしてそれは承久の乱で達成される。
鎌倉幕府を倒そうとした後鳥羽上皇は沖ノ島に、順徳上皇は佐渡島に流される。
頼朝(はもう死んでいるので実際は北条政子)はやり遂げたのである。
(但し北条や三浦は平将門の時のように関東の独立を考えていたのかもしれない。
 そのせいで朝廷と戦わずに独立だけを考えていたのだが、
 朝廷側が許さずに承久の乱をけしかけて来たので、
 北条政子にはっぱをかけられて行きつくところまで行ってしまった。)

まぁでも源(木曽)義仲と源義経は平家を滅ぼしたかったのかな?
でも義経は天皇家に味方しようとした。
だから頼朝は尾張に配慮して義経を殺したのではないだろうか?
すべては尾張が糸を引いていたのではないだろうか?

何の根拠もない妄想だけれども、そう考えたのである。
それは何故そう思ったのか?
実は称名寺の「楊貴妃の玉簾(たますだれ)」のことを知ったからである。
もちろんこれが「楊貴妃」の物だとは思っていない。
でも、これは称名寺の三重塔に有った秘宝らしい。
そして伝説によれば鎌倉時代に熱田神宮から送られた物なのだそうだ。
何故熱田神宮から贈られたのか?頼朝と熱田神宮の間には何が有ったのか?
そう考えたら上のこと、つまり鎌倉幕府が開かれたのは、
源平の戦いの結果ではなく、頼朝が天皇家から日本を奪い返そうとした結果なのではないか?
そう思ったのである。
違うかなぁ?

そしてこれには理由と言うか原因が有る。
北条や三浦の母方の祖先(父方はもちろん平氏)は、
古代にヤマトタケルノミコトがここを攻めた時に連れて来た人達の子孫なのではないだろうか?
戦争と言うのは国を奪うことが一番の目的である。
攻めて相手の国を打ち負かして終わりではない。
国を奪ったのであれば、一部は祖国に帰るのだが、残りはそこに住みつくのだと思う。

横須賀と言う名前は愛知県の東海市にも有る。
彼らが愛知(尾張)から連れて来た地名なのではないだろうか?

そして六浦の古名(和名類聚抄地名に載っている)「鮎浦」と言うのは、
新編武蔵国風土記に「鮎ではなく鮐(ふぐの古字)」と書かれており、
僕もそう思っていたのだが、
実は新編武蔵国風土記も僕も、
和名類聚抄地名に書かれたフリガナを見てそう思ったのだけれども、
それは和名類聚抄地名にフリガナを付けた人が「海に鮎はいないだろう!」と考えたせいで、
「フクラ」と言うフリガナは、その人の勘違いだったのかもと思ってしまった。


それはここ三浦半島の人が尾張から来た人達の子孫ならば魚の話では無いのである。

<後日追記>
倭名抄を載せたので、ついでに新編武蔵國風土記の該当部分も載せる。


例によって小さくて見づらいので、画像を右クリックして出るメニューから、
「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別タブで大きな画像で見ることができる。
僕もフリガナを見てそうだよねと思ったんだけれども、もしかしたら間違いかもしれない。
また上の新編武蔵国風土記の中にも書いてあるが、
そもそも和名抄のフリガナ「布久(フク)も誤っているような気がする。
これって「フクラ」ではなく「クシラ」と書いてはいないか?
称名寺貝塚からはクジラの骨が出土しており、昔は東京湾にも鯨が入り込んでいたらしい。
もし「フクラ」ではなく「クシラ」だった場合には「鮎浦」はどう言うことになるのだろう?
例えばこの「鮎浦」は単に音をあてただけで、元は「あゆら」だったのではないだろうか?
そして和名抄のフリガナは「鮎浦」を書写する際に、
海に鮎はいるはずないのに、これって本当は「鯨浦」じゃないのかなと思いながら書いたのでは?
その場合色々な考え方ができると思う。
以上後日追記終わり。

愛知県の「あいち」は昔熱田神宮付近まで海が迫っており、
ここを「あゆち」と呼んだことに始まる。
これは万葉集にも載っている。
万葉集巻三の高市黒人(たけちのくろひと)の歌
「桜田(さくらだ)へ鶴鳴(たづな)き渡(わた)る年魚市潟(あゆちがた)
潮干(しおひ)にけらし鶴鳴(たづな)き渡(わた)る」
と言う歌が元になっている。
桜田と言うのは熱田神宮近くの地名で、年魚は鮎のこと、
ここに書かれた年魚市潟(あゆちがた)が愛知の名前の由来である。

但し、あゆちは鮎の音を使ってはいるが、魚の鮎のことではなく、
「あゆ」は本来は「吾湯」と書かれるもので、水が勢いよく流れる様子を言う古語である。
なので万葉集の歌は「潮干(しおひ)にけらし」と書かれているのである。
ここのことは日本書紀の神代部分にも有り、いわゆるヤマタノオロチ退治の部分である。
<日本書紀神代抜粋>
そこで素戔鳴尊は大蛇に、
「あなたは恐れ多い神様です。おもてなし申し上げます」
と言われた。
そして、八つの甕の酒を、八つの口に入れた。
そのうち蛇は、酒を飲んで眠った。
素戔嗚 尊は剣を抜いて斬りつけた。
すると尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。
割いてご覧になると、剣が尾の中にあった。
これを草 薙 剣と名づけた。
これは今、尾張国の吾湯市(あゆち)村にある。
すなわち熱田の祝部がお祀りしている神がこれである。

この名古屋の「吾湯市」の様子が昔の六浦に似ているのではないだろうか?
六浦と言うか泥亀も含めて、ここは(埋立てる前は)大きな湾と言うか干潟になっていて、
下の古代地図と現在の地図を比較した写真の左側のように湾が広がり、
潮の満ち引きに伴ってここ全ての海水が細くなった(写真の青い字「急流だった!」と書いた)
部分を通るので、
勢いよく潮が流れていたのである。


だから「あゆうら」と昔の人は呼んだのではないだろうか?
つまり和名類聚抄地名にフリガナを付けた人はそのことを知らなかったので、
海には鮎はいるはずが無い。この字は「鮐」の字なんだろうと「フクラ」と
フリガナを付けたのである。
なお上の写真は画像の上で右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、
別のタブで大きな画像を見られるので参考に。

そしてここ三浦半島に尾張の人達の子孫が居たのならば、
称名寺に熱田神宮の秘宝が有ってもおかしくはないし、
源頼朝は熱田神宮つまり尾張の為に天皇家を没落させたのではないだろうか?
そうならば北条や三浦も手を貸すのが当たり前だし、
用が済めば頼朝一族を殺してしまうのも分かるような気がする。

恐らく今までの人は誰もこれに気がついていないと思う。
妄想だけれども違うかなぁ?






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最終更新日  September 8, 2025 09:43:51 PM
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