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October 28, 2025
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ここまで学者先生や研究家たちが魏志倭人伝の卑弥呼や邪馬台国の記述について書かれた、
色々な推理や解釈について、
変だなと気がついたことを書いてきた。
今日はその4として魏志倭人伝における「會稽東治之東」の解釈について書く。

世の中の学者先生や研究家たちは「會稽東治之東」を、
「東治」は「東冶」の誤りだとして、勝手に書き換えて読む。
日本の学者先生や研究家達は、自分が理解できないと「原文」を勝手に書き換えて読むのは、
およそ学問とはかけ離れた、恥ずかしい行為である。
「僕が頭が悪いのはお母ちゃんのせいだ」と言う子供と行動原理が同じである。


「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、現在の江蘇省蘇州市辺りとなる。
一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなる。
両者は南北で約580キロメートルも離れている。
大きな違いである。
googleMapで見てみる。


「会稽郡東冶県」と解釈した場合は確かに太平洋の海上に邪馬台国が位置してしまう。
よく「魏志倭人伝はいいかげんだ」と主張する学者先生や研究家の言う根拠である。
自分達が理解できないと相手が悪いと言う子供の原理である。

どうしてこうなったかと言うと、
一つは現実によく名前の似た「会稽郡東冶県」があるせいで、
これが無ければ間違いは起こらなかった。


先生は「会稽郡東冶県」が呉の領地であることに着目して、
魏の人達が戦っている呉を牽制する目的で、
魏と交流が有る倭国を「会稽郡東冶県」つまり呉に近い所に偽装して、
呉に警戒させようとしたと考えたのらしい。
バカだなぁと思う。


魏志倭人伝は「三国志」の一部分で、当然魏だけではなく呉や蜀についても書かれている。
つまり呉の地理や状況も(意外に)公平に書かれているのである。
三国志ではないが、これをエンターティメント的に書いた三国志演義に至っては、
なんと魏ではなく蜀(というか諸葛亮孔明と劉備)を主人公にしている。
魏に有利に書くと言う発想は無いのである。

そもそも魏志倭人伝(三国志)が完成したと言われる280年頃には魏は滅亡している。
魏は西晋に禅譲して、魏の一部の人達は残っているが既に無いのである。
呉の方はまだ残っているが、相続争いの結果弱体化しており、
これも280年には滅亡する。
つまり倭国の位置を偽って呉を牽制する意味が無くなっている。
当然三国志を書いた陳寿もそんな必要性は感じなかったのである。

最初に戻って「会稽東治」を「会稽の東部地域の治所」と解釈する意味を考えてみる。
これは原文を見ればすぐに分かる。
(原文)

夏后少康之子封於會稽
斷髪文身 以避蛟龍之害
今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里
當在會稽東治之東
(意訳)
(倭国の)男子は大人も子供も、皆、黥面文身(いれずみ)している。
昔から倭国の使者は中国に来ると、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ 、断髪文身して、それにより蛟龍の害を避けていた。
今、倭國の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は亦以って大魚、水禽を厭(はら)う。
ただ現在は稍(しだい)に以って装飾となっている。
諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、左にあったり右にあったり、
或いは大きかったり或いは小さかったりして尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽の東の (夏后少康の子の)治めた所 の東に在るべし。

意訳を読めば分かると思うけれども、
きっかけは倭人の入れ墨をする風習が何を元に始めたかということを、
中国南部の会稽あたりでもそうであることを元に書いているのであるが、
その説明に際して、そう言えば倭国の女王国の有る位置もここの東になるなと気がついて、
それを書いているのである。
つまり元になったのが「夏后少康の子」の話で有り、その領地の東だと読めるのである。
(学者先生は漢文を上手く読めないので、
 直前に書かれている「夏后少康之子封於會稽」の「會稽」と、
 後ろの「當在會稽東治之東」の「会稽」の関係が読めないのだと思う。)

ちなみにWikiの「少康(夏)」を見ると次のように書かれている。
「呉越春秋」越王無余外伝によると会稽に封じられ越王勾践の祖となった「無余」がいる。
この「無余」のことを陳寿は書いているのだと思う。

本文とは関係ないが日本の学者先生は変にプライドが高いので、
古代とは言え日本人が入れ墨をしていたはずは無いと主張するけれども、
それは、入れ墨は野蛮人の風習と考えるからで、
上の魏志倭人伝の原文でも分かるように古代では中国南部の人達も刺青をしていた。
今でも中国の芸能として伝わる変面などを見れば中国人も入れ墨をしていたことが分かる。
また江戸時代の浮世絵や歌舞伎を見ても普通に入れ墨をしている。
なので変な事では無いのである。

そして古代日本人は(特に武人は)入れ墨をしていたことが古事記を読んでも分かる。
神武天皇が東征を終えて、奥さんたちを探している場面である。
(原文)
爾大久米命以天皇之命詔 其伊須氣余理比賣之時
見其大久米命黥利目
而思奇歌日
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
爾大久米命答歌日
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
故其孃子白之仕奉也
(意訳)
その後、大久米命は天皇の命に従い、その伊須気余理比売を召した時、
(伊須気余理比売は)大久米命の黥(いれずみ)した鋭い目を見て、
怪しく思い歌いました。
胡蔫子鶺鴿 千鳥ま鵐何故黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)
胡鷰子(あめつばめ)鶺鴿(せきれい)千鳥(ちどり)あら頬白(ほおじろ)かしら
どうしてそんな黥(いれずみ)した鋭い目なの?
それに、大久米命は返歌しました。
乙女に 直に逢はむと吾が黥ける利目(この1行は歌であり、下がその意訳)
あなたのような乙女と会おうとして、こんな黥の鋭い目なのですよ。
このようにして、その令嬢は「お仕え致しますわ。」と申し上げました。

つまり伊須気余理比売が恐れたように、この時代の武人は入れ墨をして怖い顔をしていた。
これは魏志倭人伝では、
川に住む蛟竜(姿が変態する竜種の幼生:現実には龍はいないので水難のこと)の害を避ける
その為に入れ墨をしていたのだが、
時代が下ると装飾になって行ったと書いている。
日本でも同様に、かっては倭人も相手を恐れさせる目的で入れ墨をしていたが、
既に神武天皇の時代には装飾で「かっこよく」見せる為の物となっていたと言うことだと思う。

まぁそんな感じで、
学者先生や研究家達は、この「會稽東治之東」を勘違いして読んでおり、
自分達が間違えたとは言えないので、魏志倭人伝はいい加減だと主張するのだと思う。







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最終更新日  October 28, 2025 11:31:25 PM
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