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ぼくとしちゃん

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December 11, 2025
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叔父が昨年末に亡くなって1年たち、1周忌を行うことになり長崎に帰った。
いやもう両親はとっくに亡くなっていないので「帰った」と言うのはおかしいのだが、
やはり僕は九州人なので、「九州に行く」よりも「九州に帰る」と言う方がぴったりする。

叔父(次男)は90歳ギリギリ1か月足らずに亡くなった。
お袋(長女)も90歳ギリギリ4か月足らずに亡くなった。
伯父(長男)は90歳過ぎてまだ生きている。
下の叔母2人は80歳過ぎてもピンピンしている。下手すると自動車の運転もしている。危ないけど。
なので我家の家系はみんな90歳までは生きるのだと思う。
僕もまだ先は長い。


JR在来線だけならば4000円もしないので、もう何回も九州には来れないのだから行きたかった。
熊本は僕が、邪馬台国の敵の「狗奴国」だと思っている所だから。

世の中の馬鹿な邪馬台国論者は証拠とはとても思えない事をまくしたてて邪馬台国論争をする。
僕は面白いので、それを論破するのを趣味にしている。
例えば「纏向遺跡は3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言うのは証拠にはならない。
魏志倭人伝冒頭には当時倭国には100前後の国が有ったと書いている。
つまり3世紀半ばには倭国には100前後の国が有り、
纏向遺跡はそのどの国の都でも良いことになるので、証拠にはならないのである。
「いや邪馬台国が一番大きな国のはずだから邪馬台国の都だ」と反論する人がいる。
卑弥呼は「共立された」のであって他国を征服して女王になったのではない。
現に狗奴国に攻められて悲鳴をあげて魏に救いを求めて難升米を派遣している。

ならば、纏向遺跡が大きい国の都のはずだと言うならば、狗奴国の都である可能性の方が大きい。
つまり何の証拠にもなっていないのである。

それで熊本に行くのであるが、途中に面白い古墳が有るので、
道すがら、まずはそこに行く事にした。
今、邪馬台国九州論者たちが「卑弥呼の墓」だと大騒ぎしている「長田大塚古墳」である。

斉明天皇が九州に作った「朝倉橘広庭宮」の跡の傍に有る古墳である。
JR九州の筑後吉井駅の近く(と言っても歩ける距離ではないが)に有る。
筑後吉井駅。


九州の駅だなぁ。周囲には何もない。
JRを利用する人の為に、念の為に言っておくと、
駅員が居ないのは当然のことなんだが、スイカは使えない。パスモも使えない。
なんとJR九州の「スゴカ」カードさえも使えない。
福岡県南部の大分よりから熊本はそう言う駅が多い。
ここは福岡県内なんだけれども、久大本線(久留米-大分間)なので仕方ない。

最初にせっかく来たのだから卑弥呼には関係ないのだけれども有名な三連水車に行く。


ここは筑後川沿いなので水の利用が盛んで、これは日本最古の実働する水車である。
寛永元年(1789)に川面より高所の農地に水を送るため、自動回転式の重連水車が設置された。
朝倉市には菱野の「三連水車」のほかにも、三島の「二連水車」、久重の「二連水車」の7基の
揚水水車(水をくみ上げる水車)があり、今も現役で農地を潤している。
昔の人の知恵の結晶である。

さて長田大塚古墳に行こうとしたら、タクシーの運転手さんが知らないみたい。
なので高速道路の山田SAのそばだと言って下の地図を見せたら分かってくれた。


車で行かれる方は高速の長崎大分線に乗って、山田SAに車を止めて行くと便利で良い。
SA裏の扉が開いていれば70mくらいなので近い。(googleMapを見ると分かる)
この古墳、googleMapで見ると誰が見ても古墳だと分かる見事に綺麗な円墳である。
上の写真(と言うかgoogleMap)を見て欲しい。自然の山はこんなに綺麗な円形では無い。

よく前方後円墳以外は古墳では無いと言う馬鹿な学者がいるが、
高松塚古墳や埼玉の稲荷塚付近の大きな円墳など有名な古墳は円墳である。
高松塚古墳やキトラ古墳は古墳じゃないというのだろうか?学者とは変な人達である。
前方後円墳は政治的な古墳で、大和王権が勢力を拡大するのに使った一形式であって、
必ずしも前方後円墳だけが古墳ではない。

特に大和王権が力を得る前の王や女王達の墓は円墳の可能性が高い。
もし卑弥呼の墓が前方後円墳ならば、
魏志倭人伝に「卑弥呼の墓は倭國の独特な形式」だと書かれるはずだが、
単に径百歩の塚としかかかれていないので、恐らくは円墳だろう。
前方後円墳が普及するのはもう少し後のことだろう。
箸墓は卑弥呼の敵方の墓だと思う。魏志倭人伝に「前方後円墳」と書かれていないのだから。

近くに行ってみると、邪馬台国九州説の皆さんが自説を看板に書いている。


ちょっと無理があるなと思う部分も有るけれど、そうかもしれないと思う部分も有る。
まず一歩の解釈は諸説ある。
看板に書かれているのは通説だが、
一歩が150cmも有ると言うのは一般の人には難しいと思う。
実はこれは今で言えば2歩(右足+左足)を一歩と考えた時代の話である。
なのでちょっと足が長いのかなと言う気もするけれど、2歩ならば150cmは有るかもしれない。
ところが、僕は別の説を信じており、いまいち納得できない。
Wikiによれば、上に書いた左右の1歩を合わせて一歩とするのは周の時代に始まった。
そしてそれは5尺だったらしい。
ところが秦の始皇帝の時代にはこれは6尺に改められ、漢まで6尺である。
朝鮮でも一歩は使われたが、尺の基準が20㎝で一歩は120cmとなり実感に近い。
普通に歩くのではなく、止まった状態で計るので一歩=150cmとされたが、
実際に歩くとそんな大股では歩けない。

と言うか一歩が5尺で150cmとすると、一尺は30cmになるが、
三国志の中の有名な部分を見ると「あれ?」っと思う。
諸葛亮孔明は三国志の中には「八尺の偉丈夫だった」と書かれている。
えー!30cmX8=240cmってバケモノじゃん。
実は一尺は後漢の時代には23cm、魏や西晋の時代には24cmだったらしい。
つまり一歩は120cm前後が正しいらしい。
ならば(現代で言えば2歩なんだから)大きな人の歩幅と思えば、そんなものなのかなぁ?

そしてこの一歩=150cmと言うのは「長里」の元になっている。
(九州説の皆さん、一歩=150cmならば長里だから九州説になりませんよ)
長里では1里は300~400mになるが、
魏志倭人伝に書かれた里程と実際の地図上の距離は1里70~80mである。
魏志倭人伝の記述を元に地図をなぞってみればバカでもわかる。
1里=300~400mで考えると、海や山を飛び出してしまう。
1里=70~80mならば綺麗に地図に合う。
つまり現実に合ってないのである。
学者達は。だから魏志倭人伝はいい加減だと言う。
でも、元になっている一歩を現実的な人間の状態である2歩=約60cm位にすれば、
全ての記載が現実に有って来る。
だから径100歩=150mと言うのは変なんだと思う。

麻氐良布(まてらふ)神社がアマテラスに読み方が似ており、
天照大御神を祀っているのでここが邪馬台国と言うのも無理が有ると思う。
天照大御神を祀る神社で一番有名で大きいのは伊勢神宮である。
単に天照大御神の神社だと言うのを根拠にするならば邪馬台国近畿説の方が正しいと思う。
でも僕はこの辺が邪馬台国だと思う。
それは世の中の人の多くが、邪馬台国と女王国の関係を勘違いしているからである。
そのことについては過去に書いた。
邪馬台国はどこにあったのか?(その75)世の中の学者先生や研究家が考えない事:その2女王国と狗奴国
ここの最後の方に書いたが、
世の中の学者先生や研究家は、邪馬台国=女王国と考えている人が多い。
でも魏志倭人伝には「邪馬台国」と言う言葉は1回しか出てこないし、
その41文字後に「女王国」と書かれている。
明らかに使い分けているのである。
そして女王国は、女王国の北側に奴国や伊都国が有ると書いているので、
明らかに奴国や伊都国は女王国には含まれていないので、
女王国、奴国、伊都国と女王国の傍らの国を合わせた連合国を邪馬台国と書いてると考えられる。

つまり学者先生や研究者達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは「女王国への行程」が正しく、
伊都国も奴国もそしてここ朝倉も邪馬台国の一部なのである。
だからここは邪馬台国である。

僕は足元に注意しながら、頂上まで登ってみた。
途中で急な傾斜と緩やかな部分が数回認められ、
この古墳は単なる山ではなく、恐らく3段くらいの段の付いた古墳だろうと思われた。
頂上には祠が有った。


何と書いているかは分からない。
地元の人は「宮地嶽」と言っているが最後の字は「嶽」ではなく「宮」に見える。
ちゃんと調査すれば読めると思うけれども、今日は道具も時間も無い。

<後日追記>
調査時には何も持っていなかったので、どうしようもないが、
せめてと思って画像を明るさとコントラスト調整だけやってみた。


やっぱり3文字目は「宮」だと思う。
1文字目は「秋」のようにも見える。
2文字目は分らない。「尊」のような気もする。
行けるかどうかわからないけれども、いつかもう一回行ったら見てみよう。

仕方ないけれど、日も暮れるので帰ることにした。
駅へ向かう途中に付近の看板が有った。


そうなんだよなぁ。
朝倉には斉明天皇が「白村江の戦」に備えて築いた「朝倉橘広庭宮」が有ったはずで、
それは日本書紀にも書かれており、斉明天皇はここで崩御されている。
僕はここには「九州王朝」の都が有り、斉明天皇はそこの出身で、
だからこそ百済を助けて唐と新羅の連合軍と戦った倭国を助けざるをえなかったのだと思う。
当日は行けなかったので、ネットから写真をお借りして載せる。

ここに書かれた朝倉社と言うのは、現在は恵蘇八幡宮として残っている。(上の地図の「ここ」)
あんがいと上の写真の場所(須川)ではなく、ここ山田に都は有ったんではないだろうか?

倭国は白村江の戦で唐と新羅の連合軍に敗れ、
筑紫の君つまり倭国の王以下は捕らえられて唐に連れ去られたと日本書紀に書かれている。


日本書紀の持統天皇四年(唐から帰って来た)捕虜の博麻に詔して、
「お前は唐の捕虜となった土師連富抒、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人を助ける為、
 自らを奴隷として売り、その金で富抒達は日本に帰ることができた。
 それに報いて務⼤肆(むだいし)の位と褒美を与え課役は三代まで免じよう」
 と言ったと書いている。
つまり日本の相当の偉い人達が唐の捕虜になって連れ去られていたんだな。

また、白村江の戦いの後に上に書いたように郭務悰以下2000人の兵が日本に来ている。
よく天智天皇は唐が攻めて来るのをおそれて水城を造ったり、菊池に城を構えたり、
都を移したと学者先生は言うけれど、
水城や菊池の城は素通りしてしまえば、
瀬戸内海に出て近畿まで行くのには何の効果も無く、近畿の都の防御施設にはなりえない。
この2000人が攻めてきたらおしまいだったんだと思う。
現に9月には郭務悰達は大阪まで来ており、天智天皇の歓待を受けている。
水城は近畿を守るのにはやくに立たないし、
鞠智城(きくちじょう)にいたっては熊本の山の中なので、大宰府防御の役にもたたない。
近年の調査では大宰府よりも水城の方が先にできているし、
何を守る為に造られたんだろう?
(もしかして九州王朝の都を守る為?それは明日以降の熊本の調査で分かる。
 この時代、熊本には近畿の奈良や京都に匹敵する王都があったみたいだから。
 6世紀末に造られた高松塚古墳の壁画に書かれている貴人の使った、
 翳 (さしば)や蓋(きぬがさ)と言った道具が熊本では5世紀末に使われていたことが、
 石造りの遺物として残っており、それにより確認できるからである。
 熊本は奈良や京都よりも約100年文化が進んでいたのだ。)


僕は天智天皇が「日本」は「倭国」とは違い、唐とは戦いませんよとうまく唐をごまかし、
あたかも「日本」は「倭国」とはべつな国のようにふるまったので、
唐から派遣されてきた郭 務悰以下2000人の兵隊は日本を攻めず、
日本は救われたのだと思っている。
なので旧唐書には「倭国伝」と「日本伝」が別々に書かれており、
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。
 新羅の東南の大海の中にある。」
とか、
「日本国は倭国の別種である。
 その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
 あるいは倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」
と書かれているのだと思う。
天智天皇は倭国を名乗って唐を刺激するのを避けたのである。

筑後吉井駅に帰って来ると面白い列車が停まっていた。


パノラマ風に合成すると変かな?
上から見てみよう。


おぉー!カッコいい。豪華かも?
入口付近はこんな感じ。


中は新婚さんだらけだった。
高いんだろうなぁ。






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最終更新日  December 20, 2025 12:19:52 AM
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