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December 16, 2025
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タイトルにある様に狗奴国が熊本であることの確認旅行が今回のテーマなんだけれども、
それは僕の研究の中で狗奴国が重要な位置を占めているからである。
一般的な邪馬台国研究家は、底が浅いので邪馬台国しか研究しない。
でも魏志倭人伝を見ると、狗奴国のはたしている役割は大きい。
そのせいで他の倭国の国に比べて書かれている内容が多い。

その記述を読んでいると、ついつい須佐之男命を思い出してしまう。
古事記の中で、イザナギは亡くなったイザナミに会いに行った後に三貴子を産む。
天照大御神と月読の命と須佐之男命である。
イザナギは天照大御神に高天原を、月読の命に夜の国、須佐之男命に海原を治めるように命じる。

須佐之男命は駄々をこねて従わず、母を恋しがる。

通常の人はこれを読んで須佐之男命が甘えん坊だと理解するが僕は違う。
恐らく、須佐之男命の母はイザナギの後を継ぐのは須佐之男命だと考えていたのだ。
母親が違う天照大御神にその座を奪われた須佐之男命は、
話が違うとイザナギに詰め寄ったのだろう。
イザナギは須佐之男命を嫌って、追い出してしまったのだろう。
それで須佐之男命は高天原の天照大御神の元に行って文句を言ったのだ。
天照大御神は「誓約」を行って須佐之男命をなだめようとしたが、須佐之男命は聞かなかった。
そして須佐之男命は高天原に攻め込んだ。
田のあぜ道を壊し、くそをして馬の皮を剥いで投げ込む。
さすがの天照大御神も怒って武装して、須佐之男命を迎え撃つが殺されてしまう。

魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と狗奴国の男王の話に似ている。

亡くなった卑弥呼(天照大御神)は天岩戸に葬られて、その後から宗女である台与が出てくる。
台与は若い頃の天照大御神にそっくりなので、殯に服していた神々は、
天照大御神が蘇ったのだと思い祝福する。
そして台与は高天原の新しい女王として迎えられて、

狗奴国王(男王=須佐之男命)は追放される。
追放された男王は新羅の王となり、しばらく暮らすが、
また日本に帰って来て紀ノ國に新しい国を築く。

その後4世代を経て、島根の出雲で生まれた大国主命は兄神達にうとまれて、
2回も殺されそうになり、その度に母親に救われるが、
身の危険を感じて木の国(紀ノ國)に逃げる。
そこでも兄神達の追及の手は伸びて、大国主命はさらに奥の須佐之男命の元まで逃げる。
そこで須佐之男命の娘のスセリヒメを嫁にもらった大国主命は新たに国をつくる。
この国の都が纏向遺跡である。
纏向遺跡は、かっては大田遺跡と呼ばれていた。
大国主命を祀る、大国主命の子孫の大田田根子が住んでいたからである。
そこから見える箸墓は事代主命と倭迹迹日百襲姫命の墓であるが、
同時に事代主命を祀る三輪山のふもとにあり、昼は人々が造り夜は神々が作った墓である。
どう考えても、纏向は(新しい)出雲の都だと思う。
大国主命は国を譲った後は、ふるさとである古い出雲(島根)に社を建ててもらって、
後世をすごしたのである。

こういう風に考えると魏志倭人伝は見事に古事記や日本書紀につながる。
その様子を一覧に書いてみた。


よく日本の皇統は数回途切れて、王朝交代が有ったと言う人がいる。
特に応神天皇の時代と継体天皇の時代であるが、
実は王朝の交代が有ったのではなく、卑弥呼の時代に2つに分かれた奴国の王朝が、
別れたり、またくっついたりしながら、ほぼ交代しながら、
血縁的には入り混じって、今日まで続いているのだと思う。

それを確認しに行く旅行が今回の旅行なのである。

江田船山古墳はそうとうに不便で、熊本県の玉名市と山鹿市の間付近の和水(なごみ)町にある。
玉名市は九州新幹線が通るが、山鹿市はJRは通っていない。
熊本から高速バスに乗ってくるしかない。
僕は貧乏なので新幹線ではなく在来線の玉名市からバスに乗ったので、
1日に数本しかない不便なバスを(1か月前から調べて)利用して行った。

江田船山古墳は、埼玉県行田市の稲荷山古墳の国宝「金錯銘鉄剣」と同時代の、
「銀錯銘大刀」が出土した古墳である。
両鉄刀には文字が記されており、
雄略天皇の名前と分かる「「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名前が記されている。
鉄剣そのものは(九州の古代の遺物はみんなそうなんだけれども)現地には無く、
東京博物館に納められている。
でも現地を見るのは大事なことなので、今回見に行く。


入口に石人(レプリカ)が立っている。楽しみ。
中に進んで行くとまずは塚坊主古墳が有る。


同じものが近畿や福岡に有ったならば大騒ぎになりそうな立派な古墳が、
熊本や宮崎にはゴロゴロしている。
多くは盗掘されたり、運よく残っていても東京や福岡の博物館に取られて現地には無い。
「山」が有るだけである。
ただ熊本は幸運にも「装飾古墳」が多いので、それだけは見られる場所が有る。
宮崎の場合は道路開発でそれさえも壊されているんだけれど。

そばには清水原古墳の石棺が有った。


5世紀だそうである。
よく幻の150年と言われる魏志倭人伝後の150年のものである。
幻じゃなくて探せば有るんじゃないかと思う。

さらに進むとお目当ての江田船山古墳が有る。


この古墳は卑弥呼とは関係が無いのだけれども、
僕は卑弥呼の墓はこの1.5倍くらいの大きさだったんじゃないかと思っている。

よく箸墓を卑弥呼の墓だと主張する人は、
一歩が150cmで魏志倭人伝に「径100歩」と書かれているので150m位のはずだからと言うが、
間違いだと思う。
彼等は魏志倭人伝が含まれる三国志を読んだことが無いのだと思う。
三国志には有名な諸葛亮孔明は「8尺の偉丈夫」だったと書かれている。
一歩は5尺だから、一歩を150cmとしたら1尺は30cmである。
そしたら孔明は30cmX8=240cmの身長が有るバケモノじゃん。
だから一歩150cmと言うのは眉唾なのである。
多分一歩は現代の左右2歩のことなので、おおよそ1mだと思う。

江田船山古墳から出土した大刀は東京博物館に有るがこんな感じ。
ネットから写真をお借りして載せる。


上に書いたように刀の持ち主と雄略天皇の関係が書かれており、
埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄刀の銘文と合わせて、
雄略天皇の生きた時代が分かる貴重な刀である。
刀には字だけではなく絵も描かれていたらしい。
魚と鳥。


そして馬と花。


花は少し薄くなっている。
実は字も同様で、後世の刀の研師が研いでしまって薄くなってしまったのだそうだ。

説明板を見ると復元模型が載っているが、ものすごく綺麗な前方後円墳である。


特に儀式が行われたとされる「造出」部分が大きい。近畿や福岡の古墳ではこれが分からない。


内部については、現在は完全に密閉されて中を見ることはできないが、写真が残っている。


よほど有力な王(それとも既に大和王権に従属しており豪族だった?)だったのだと思う。

そして驚くのは出土した鏡が、卑弥呼の時代の物が多いこと。

お調子者の研究家ならば「ここが卑弥呼の墓じゃん」と言いそう。
でもそうではない。
鏡は製造年代と埋葬された年代は一致しないことが多いのである。
えー!と言うことは三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言っている人達の「根拠」はどうなるの?
そうなんである。
いわゆる邪馬台国近畿説の人達の言う根拠はほとんどが根拠にはならず、
彼等の言う根拠が正しいなら、邪馬台国は熊本に有ったと言える古墳がたくさん有るのである。

近畿や福岡の古墳とは違い、ここ熊本の場合は「古墳群」であることが多い。(宮崎もそう)
後ろには付近の古墳から見つかった石製品(石人など)が飾られている。


そしてこの石製品から、当時の儀式や生活の様子が分かる。


さしばの説明に有る「儀式用の屏障具の一つで団扇に長柄をつけたもの」ってこれじゃない?


左の女の人が持っているのがそうである。これは高松塚古墳の壁画である。
熊本ってこの時代は近畿の都会に匹敵する「高級地」だったのか。

こんなのも有る。


家は吉野ヶ里のような竪穴式住居じゃなくて高床式住居だし、都会じゃん。
そして蓋(きぬがさ)ってこれじゃない?


おぉー!高松塚古墳の壁画に書かれているような貴人の所持品がこの辺でも使われていた?
しかも高松塚古墳の時代の100年前に?

江田船山古墳は5世紀後半から6世紀初めの古墳である。
高松塚古墳は6世紀末から7世紀初めの古墳である。
つまり奈良に中国から壁画に書かれたような文化が伝わる100年前に
熊本には同じ文化が伝わっていたのである。

実は奈良よりもこの熊本の方が先に文明化されており、
何らかの事情で、ここから移動して奈良の方に行ったんじゃないだろうか?
だから継体天皇や推古天皇のお墓の石棺は、
熊本の馬門石(まかどいし)でできているのじゃないだろうか?
つまり継体天皇や推古天皇の御先祖様は熊本の人で、
御先祖様の信じた神様を近畿に連れて行ったので石棺は馬門石だったのではないだろうか?
(継体天皇と推古天皇だけではなく沢山の馬門石の石棺が近畿に運ばれています。)

そして気になるのが石人達。


石人や石馬は福岡の岩戸山古墳(継体天皇に滅ぼされた筑紫の君磐井の墓)が有名だが、
磐井の親戚あたりがここに居たんじゃないかな?

そして気になるのがもう一つ。ストーンサークルが有った。いわゆるドルメンである。


実はこれには説明書が無かったので、出土品なのか、公園を作るに際して作ったものなのか、
どちらかは分らない。
でも、出土品ならば恐ろしいなぁ。
日本にこんな物が有るとは。いや能登半島には木製の物は有るけれど石製は無い。
秋田の大館などにはストーンサークルは有るけれど、小さな石を並べただけ。
これは公園を造った人達のお遊びなんだろうか?出土品なんだろうか?気になる。

最後は京塚古墳である。


いや本当に集まっていると思う。まさに王家の谷(谷じゃないけれど)だよ。
来て良かった。
バスがもうすぐ来る。
これに乗らないと夜泊まる宿が無い。

次はチブサン古墳へ行く。





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最終更新日  December 16, 2025 10:55:37 PM
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