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ぼくとしちゃん

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December 16, 2025
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江田船山古墳とその周辺の古墳や出土物を見て、
近畿では6世紀末から7世紀初めに作られたとされている高松塚古墳に描かれている壁画の
色々な貴人の使う道具が、なんと江田船山古墳周辺から出た石製品と同じで、
ここ熊本ではその100年前に既に使われていたことから、
近畿に中国からの文化が伝わる百年前に既に熊本には伝わっていたことが分かり、
近畿よりも熊本の方が「先進国」だったことが分かり、
もう熊本が狗奴国で有るのは間違いないと思った。

と同時に、それならばよく言われる魏志倭人伝後の空白の150年とは空白ではなく、
九州から近畿に何らかの理由で政治の中心が移動している時代で、

それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。
邪馬台国はどこにあったのか>(その12)

これは僕が奈良や京都に調査に行った際に今城塚古墳を見た際の記録だけれども、
その中央付近に、今城塚古墳の中に納められていた石棺が3つ有り、
その材質は、阿蘇のピンク石(馬門石)、岡山の竜山石、そして大阪の二上山の石である。
つまり継体天皇の御先祖様は熊本の人で、
数代かけて岡山に進出して、さらに数代後に大阪に進出し、
それが継体天皇で有るのだろうと言うことである。
熊本から大阪に至るまで150年かかっているのだ。

継体天皇が筑紫の磐井を滅ぼした時に、
磐井は継体天皇の部下である近江毛野に対し、

 安ぞ率爾に使となりて、余をしてが前に自伏わしめん」
と揚言し、抵抗に踏みきったという。
え?これによると、磐井と近江毛野は昔は同輩として共同生活をしたこともあったらしい。
近江毛野はおそらく近江の豪族であろうが、
どうして筑紫の磐井と親しくした時期があったのであろうか。

むしろ磐井の揚言から考えると、熊本から近畿に攻め上った際に仲間として戦った?
そう考えられるのではないだろうか?

だから僕は学者先生の想像力は信用できないのだ。
だって学者先生は「今城塚古墳が発掘されるまでは別の古墳を継体天皇の墓と考えていた」のだ。
彼等は本当に信用できない。
荒神谷遺跡や 加茂岩倉遺跡が発掘されるまでは、
彼等は「出雲は神話の中の世界であって実在はしない」と言い切っていたのだから。
彼等の主張は常に発掘によって根底から覆される。

古代の熊本や宮崎もいつか、誰かが新しく発掘することによって根底から覆されると思う。
それが僕ならばうれしいんだけれども、もう年だからなぁ。

江田船山古墳からチブサン古墳へ向かうには一度山鹿のバスセンターに行かなければならない。
車を持っている人は簡単なんだけれども、
東京や大阪からは車で行くのは大変だし、バスではほぼ行けないからタクシーしかないのだ。
チブサン古墳はあらかじめ山鹿市立博物館に連絡しておくと案内してくれて内部を見られる。
常時そうなのかは不明だが、僕が行った時は10時と14時からだった。
見学はおよそ(前段の10分程度の説明を含めて)40分かかる。現地まで約1km歩くからだ。

山鹿市立博物館。入口は左側で小さい。入口付近に石人がいる。


山鹿市立博物館の2回は展示室になっており、
付近の古墳等から出土した遺物が展示されている。
但し、ここも力関係が有って、めぼしい物は東京博物館や福岡に取られてしまっている。
ただ地元なので詳しい。
最初に説明板を見て驚いたのは、熊本の遺跡の多さを説明する地図だ。


菊池川、白川、緑川沿いに無数の遺跡が有る。
奈良や福岡の比ではない。多すぎ。
そして気になるのは、熊本と鹿児島・宮崎の間の空白である。
何故ここに空白が有って遺跡が無いのだろう?
本当にないのだろうか?それとも見つかっていないだけ?

日本書紀の景行天皇の九州巡幸を見ると、人吉付近で賊と戦っている。
上の地図で言えば、鹿児島県の白い部分の中で、上向きに突き出た角のような所の熊本側である。
つまり景行天皇と戦うくらいの勢力が居たのだから、古墳くらい有ってもおかしくは無い。
だから見つかっていないだけなんだろうな。

そして感心したのは石斧の作り方の説明が詳しかったこと。


いや僕だって理論的には知っているんだけれど、
こうして現物を使って説明をされると、なるほどなぁと感心する。
家型埴輪の展示も有った。


熊本はやっぱり先進的な地域だったんだなと思う。
他の地域、近畿や福岡でもまだ竪穴式住居の時代である。
こんな壁や扉が有る家なんて、他の地域だと平安時代にならないと無いと思う。
NHKの「鎌倉殿の13人」を見ていたら、鎌倉時代になってやっと板葺きの屋敷だったんだから。

先進的と言えば、使われていた土器がすごい。

左側の土器は漆を塗っている。
漆を塗った土器なんて初めて見た。
漆を塗っていると言うことは火にはかけないと言うこと。
他の地域の土器とは違うなぁ。

この土器には鹿の線刻がなされていたらしい。
他の地域ではそこまで工夫はされていない。
この後の時代、つまり須恵器の時代にならないと、生活に使われる土器はここまで工夫されない。
(新潟の火焔形土器のように儀式用のどきなら縄文時代から装飾はされているが生活用は無い。)

さてチブサン古墳。
ここ山鹿市立博物館は、
熊本県の県北に広がる菊池川沿いの「肥後古代の森_山鹿地区」の中にある。


市立博物館は下の案内図中央下部分である。
(案内図は博物館ではなくチブサン古墳そばに有ったので「現在地」は博物館ではない。)
この地図は東を上に描いているので、チブサン古墳へは「古代への道」を北へ進む。
するとでっかい古墳が有る。


チブサン古墳は6世紀(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、
全長約45m、後円部の直径23m、高さ7m、
石室は羨道から奥室まで約6m、前室は1.9mの方形、後室は奥行き、幅とも3.6mの隅丸方形で、
後室の奥壁沿いに、長さ2.3m、奥行き0.9m、高さ1.4mの寄せ棟造りの家形石棺が置かれている。


内部は普段は鉄の扉が閉まっており、見学時に開けてくれる。中は写真撮影禁止。
羨道はまぁ普通に歩けるけれど、前室に入る補語扉からはものすごく狭い。
そこ(前室)を張って行くと後室手前にガラス窓が埋め込んであり、
ガラス窓越しに後室と石屋形を見られる。
中の湿度が高いのかガラスは曇っているが、案内の方が綺麗に拭いてくださった。


残念ながら中の写真撮影は禁止なのだが、外にレプリカの石屋形が有る。


でもやっぱり綺麗な写真の方が良いので、ネットから発見当時の奇麗な写真をお借りする。


装飾は直線と円を用いた幾何学模様で、綺麗に赤と黒で色分けされている。
奥の目玉のような円形が古墳の名前の由来である乳型の絵である。

この古墳は古くから開口し、地元ではこの乳型の絵から「乳の神様」といて崇められており、
それが「乳房さん」→「チブサン」となまってチブサン古墳と言う名前になったらしい。
でも僕は、右手の王冠をかぶった人物画と合わせて考えると、
右手が埋葬者の頭側と考えられることから、これは「目」であり、
埋葬者を「魔」や「盗掘者」から守る為の装飾だったんじゃないかなと思っている。
よく古墳の石棺の周囲に鏡がばらまかれているのと同じである。
古墳では埋葬者の頭の部分には大事な鏡、周囲には魔よけの鏡がばらまかれていることが多い。
それと同じだと思う。

説明をして頂いた方に奥の石の板が左側が無いのは最初からなのかを聞いたら、最初かららしい。
そもそも奥の石2枚は扉かもしれないと思ってお伺いしたら、
ここの奥はもう円墳の傾斜部分なので、奥はあり得ないと説明されたので、そうだなと納得した。

レプリカの近くには出土した埴輪や石人も有った。


円筒埴輪は古墳の外部(特に円墳頂部)に並べられる。儀式と結界的な意味合いが有る埴輪。
石人は九州、特に福岡南部や熊本に多い。近畿の形象埴輪に近い物だと思う。

近くには(古代の森と言うことで)他の古墳から持って来た石棺も有る。


そしてチブサン古墳と並ぶ大事な古墳であるオブサン古墳。


立派な円墳、と思って近くに行ったら手前の入口付近が広がって高い。
多分前方後円墳の一種で、帆立貝型前方後円墳だと思う。
(説明板には突堤付き円墳とあったが、
 チブサン古墳が綺麗な前方後円墳なのでこちらも変形した前方後円墳だと思う)


近くに説明板が有った。


おぉー!ここも立派な羨道と石棺が有ったんだな。
名前の「オブサン」とは「チブサン」が「乳房」から来たのに対して「産さん」から来たらしい。
それにしても閉塞石は大きくて重そう。
神話の天岩戸で、天手力男命(あまのたぢからおのみこと)はこれを開けたのか。
僕には無理だな。

こうして見学は終わったんだけれども、山鹿市立博物館に戻って来て面白い物を見つけた。
通潤橋の模型である。


通潤橋は熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある。ここから近い。
嘉永7年(1854年)に阿蘇の外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、
水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水、上井手水路の通水管が通っている。
完成当時は吹上台目鑑橋と呼ばれていたが、
肥後藩の藩校時習館の教導師であった真野源之助により易経(易損卦程伝)の一節から、
名前を通潤橋とつけたのだそうだ。
石造単アーチ橋で、橋長は78m、幅員は6.3m、高さは20m余、アーチ支間は28mである。
橋の上部には3本の石管が通っている。

うん?
通潤橋は単アーチ?
そうじゃん!と言うことは山鹿市立博物館のこの通潤橋もどきはどこの物なんだろう?

肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国宝に指定されている。
現在でも観光用に時間を決めて、中央付近から放水している。


こうしてみると、熊本の石工のレベルは高かったんだなぁ。
そう言えば日本書紀では斉明天皇の狂心渠(たぶれごころのみぞ)が有名である。
斉明天皇は石造りの色々な遺跡を残している。
斉明天皇は九州王朝のお姫様で、近畿の王朝に迎えられて天皇になり、
そのせいで白村江の戦いの際は、唐に対する無理な戦いだと知りながら、
九州まで兵を引き連れてやって来たんじゃないだろうか?
石がそれを暗示している。

次は熊本県立装飾古墳館へ行く。





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最終更新日  December 17, 2025 12:15:03 PM
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