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旅には二種類あると思います。観光であちらこちらを訪ね歩く旅。一か所に留まってその地の日常を味わう旅。正確には旅とは言えないかもしれませんが・・・ロンドンは4回訪れていますが、私にとって今回が一番癒された滞在でした。最初はティンママが留学生だった時。Mrs.サマンサと一週間の訪問でした。乗り降り自由、音声ガイド付き観光バスでロンドン市内観光と湖水地方に遠征しました。 『ピーターラビット』の作者、ビアトリクス・ポターの家。 泊まったホテル。 可愛いお土産屋さん。二度目はヨーロッパツアーでイギリス・フランス・イタリア・スイスをまわり、帰路再びヒースロー空港に着いた時空港のテレビが日本の地下鉄サリン事件を報じていました。1995年(平成7年)3月20日。この時ティンママは既にティンパパと結婚して赴任地の香港にいて会うことは出来ませんでした。三度目はティンコ♂誕生の時。産後のお手伝いだったので、殆ど出かけられませんでした。夕方のティンコ♂の入浴時にお湯を運ぶ仕事しかない夫は、連日のお出かけで「ロンドン案内が出来る」と豪語していましたが、私はグリニッチビレッジに行っただけでした。テムズ川を観光船で。途中、ウォタルー橋の下を通った時には若き日に観た映画『哀愁』のラストシーンを思い出しました。 そして今回。一度目の時と変わらないの風景に出合うと不思議に気持ちがストンと落ち着いてしまうのでした。22回も書いてきた経験のほかは、TVを見てもあまり分からないので、気が向いた時だけ、食事の後片付けと、洗濯物を畳むことくらいの手伝いをし、残りの時間はティンママが買い貯めた宮部みゆきの本を読んでいたからかも知れません。かなりのカルチャーショックもありました。想像以上に多民族国家なのだと言うこと。街で行き交う人々は、欧州系・アジア系・中東系・アフリカ系etc会話の初めに必ず出身国を言います。お隣の奥様はアジェルバイジャンとかリフォームに来ているMさんと大輔さんが車庫のシャッターを開けて作業をしていると「Boysの姿が見えるので、心強い」と・・・年収があまり多くない人でも、精神的に豊かな人が多いと何かで読んだ気がします。日本人のようにセセコマシクなく、落ち着いて穏やかに歩いています。マナーもよくて車も譲り合って走行し、ラウンドアバウトでも争いは起きません。誰かとぶつかった時、ぶつかったのが、こちらだったとしても、早く「sorry」と言わないと、ぶつけた相手から「sorry」と言われてしまいます。ティンコ♂の家のリフォームをお願いしているMさんは滞英9年目とか。じぃじの話がモテチャッテ 意気投合。帰国の前々日には、お別れ会を奥様(日本人)が、ティンママと私に、イギリスのどんぐりで作ったお土産を託してくださいました。 最後に、40日間の間、留守宅の金魚の世話・植木の水遣りなど、陰で支えてくれたMr.nan、Mrs.サマンサに感謝です。お土産、気に入ってくれますように・・・ 近郊の牧場。山がないイギリスは、広々した牧歌的な景色が広がっています。 高速道路。日本と大分違った工事です。
2016.04.25
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いよいよ帰国の日が来ました。ウィークデーなので、ティンコ♂は学校があります。15:30の終業時間に学校に迎えに行き、空港へ直行することにしました。朝、登校の途中で、「エアポートに行くのに時間がないから、授業が終わったら、お友達と遊ばないで、すぐに出てくるように」ティンママは、繰り返し言い聞かせていました。 「忘れないかしら?」ティンママは肩を竦めました。 荷造りは、昨夜完了しています。15:15 トランク にスーツケースを積み込んで出発です。「もっと居たい?」ティンママの問いにじぃじは、一瞬躊躇ってから、「帰るよ」と言いました。ティンコ♂は、忘れずにすぐに出て来ました。 渋滞に巻き込まれながら、空港に ヒースロー空港は工事中で、パーキングから遠回りをしないと、チェックインカウンターに着けません。 学校がお休みの度に日本⇔イギリスでエアポートの勝手知ったるティンコ♂にティンママは、「先に行って、チェックインカウンターのアルファベットを確かめて来て」手続きは、全てティンママにお任せ。 パーキングから結構歩いたし、まだ搭乗ゲートまでも距離があるそうで、ティンママは大事を取って車椅子をお願いし、成田でもお迎えを頼んでくれました。車椅子が来るのを待っていたら、突然、ティンコ♂が、ティンママの胸に縋るようにして涙を見せました。ティンママが「じぃじとばぁばが帰っちゃうのが淋しいの?」気持ち分るような気がしました。単身赴任中のティンパパとは、2ヶ月に一度位しか一緒にいられなくて、二人では広すぎる家です。 ティンコ♂の涙を見て、じぃじももらい泣きしてしまいました。私も、そっと横を向いてしまいましたが「12月に日本で会えるじゃない?すぐに会えるんだから」ティンコ♂一家は、予定通り12月20日に日本にやってきて、翌日から30日まで、北海道へスキーに行きました。東京に戻ったら一緒にシネマ に行く約束です ティンコ♂が泣くと、じぃじも泣くのは、ティンコ♂が小さいときからのことです。ママに叱られて泣き出すティンコ♂を庇って、「そんなに怒るなょ」と・・・滞在中にも一度ありました。ある日の夕食時、に気をとられて手が動かなくなったティンコ♂に「ちゃんと食べなさい」何度か注意した後業を煮やしたママは、TVのスイッチをパチッ ティンコ♂は、歯を食いしばって この時じぃじも 車椅子を押して案内してくれるのは、金髪のお姉さま。ティンコ♂は、自分が押したい気持ちを抑えて、ずっと付いて来ました。ティンコ♂とティンママは、1階上の出国手続きのフロアまで付いてきて振り返るとずっと手を振っていました。 これから、二人はどんな思いで帰っていくのだろうか早く、平常に戻るように願わずにはいられませんでした中盤に、寝込むほどではないけれど、ほんの少し体調を崩し気味だったティンママ曰く「私が具合悪くても、お父さんとお母さんが居てくれるんだと、気が緩んだのかも」異国での母子家庭状態は、傍で見るより気骨が折れるのでしょう。車椅子を使わせて頂くと、いろいろ特典?めいたことがありました。出国診査も別の列で済ませ、並ぶ必要がありませんでした 搭乗するときは一番先に。勿論手荷物なども、棚に収納してくれます。 座席に座って、やっと一息でした。食事などで、3時間位してから、機内が暗くなりました。エンジン音で眠れない気がしましたが、眼を閉じ滞在中に感じたことを思い出していました。次回、総括をして終わりにしたいと思います。
2016.04.05
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滞在最後の週末は、車でちょうど1時間 のケンブリッジへ ティンコ♂の家から15分も走ると高速道路の両脇には広々となだらかな丘陵の草原が広がります。街に入ると流石大学の町。若者が多く高齢者社会を忘れさせてくれます。 ここまでは、いいのですが、駐車スペースがありません。駐車出来る道路は、延々車の列。駐車場は何処も満杯です。観光都市でもあるんですね。 市の中心部は車が入れなかったり、曲がれなかったり 『地球の歩き方』で、観光に紹介されている場所をカーナビに入力しながら、街をグルグル回りました。本当はこんな写真を撮りたかったのですが、川のほとりは、車がいっぱい。止められず断念したのでした。雰囲気は中世の町並みが残り重厚な感じです。30分以上掛けて、ようやく駐車場を確保。やれやれと外に出たら、後ろの聖メアリー教会前の広場でマーケットが開かれていました。 『教会に入る時は、塔に登って、町が夕日にを染まっていくさまを眺めよう』(『地球の歩き方』より) 広場の一角から、陽気な音楽が なんと野外ステージでジャズです。ジャズ大好きなじぃじは、張り付いたまま離れません。 パンフレットは裏面に、ドラッグの恐ろしさや、ドラッグは、自分ばかりでなく、家族や友人をも巻き込んで不幸にする などと書かれています。単に、楽しませるためだけの野外ライヴではなかったのでした 教会の中へは入れないし、地面を踏んだのは、この一角だけで、寒さに負け引き上げたのでした この日のじぃじは体調もよくジャズも聴けて見られてでした。
2016.03.27
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今回の滞在で撮りたかったのに 撮れなかったものが二つあります。一つはススキです。日本のススキより、穂がフサフサ毛羽立っています。高速道路の脇のものは、駐車できず、人様のお庭に園芸用に植えられている物には、どこぞの国の観光客のように、無断で入り込むような失礼は出来ません。それにも増してティンママいわく「空き家でない限り、外からでも撮影はご法度」印象では、穂は真っ白でした。検索して拝借しました。 二つ目は街並みです。『街並みを美しく』はこの国のコンセプトだそうで、外観は勿論、外壁の高さや屋根の色にまで、厳しい規制あるそうです。日本のように、1軒1軒違う設計で建てられることはないようです。昔、奥村チヨさんが『あなた好みの~あなた好みの~』と歌われていましたが、この国では自分の好みの家を建てることは、市中では難しいようです。イギリスの場合 多くは中古住宅を買って、内装をリフォームするのが一般的なようですが・・・2・3軒から、10数軒も同じ外観の家が並んでいるのも珍しくありません。だからこそ、美しいとも言えて、撮るには広角レンズが必要だったし、人権(プライバシー)尊重の国では、人が住んでいる家に、むやみにカメラを向けるわけにもいかなかったのでした。ティンコ♂の家の近くの豪邸です。外壁の凹凸は3層にもなっていました。新築で売りに出されていて、無人なので撮らせてもらいました。有名なサッカー選手が住んでいて、スペインに移籍したので、売りに出された土地を2分して建てた内の1軒です。「ベッカムじゃないの?」「ベッカムだったら、ご近所みんな知ってたでしょう」どうやら違う人だったようですが長々と書いてきましたが、後2回、ケンブリッジと帰国・まとめで終わらせる予定です。
2016.03.09
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ビッグベンを眼下に見下ろす観覧車に乗りました。(向かう途中の車の中から)2月27日8時59分 £=158.04円(イギリスポンドの為替レート)Constructed 1999 Roof 135meters 32capsulsこの観覧車は、テムズ川が河口近くの蛇行する地点の近くにあり、川の流れが蛇行するのも見下ろす事が出来ます。乗り込んだのは、午後5時 前後でした。ビッグベンにも議事堂にも灯りが点り、目の下の川には幾艘もの船が、泊まり、行き交い感動ものでした。朝のこと。ティンコ♂とティンママは、再来年受験したい学校の見学・説明会があると、平日と同じ時間には出かけてしまいました。「2時には(ロンドンアイに)出たいので、お昼作っといて」と言っていたのですが、1時になっても帰ってきません。 すると、「事故があったらしく渋滞してる。出かけられる時間に出るほかないわね 」予定が30分以上遅くなってしまいました。二人が留守の間、じぃじは、昨日ティンママが芝刈りをしたまま、少し捨て切れなかった芝を掃き集めたり、雨が降ってきたからと、芝刈り機をヤットコサと車庫まで運んでいました。異常に足が痛くなったのは、これが原因でしたようやく近くの駐車場に着いたら『FULL』 雨は降ってきたし、「帰ったほうがいいんじゃないか」とじぃじ。「だって、予約金払っちゃったもの」とティンママ。 してみると、「時間を4:30に変更しましょう」とオープントークで聞こえてきた。(この位は分ります ) ようやくパーキングして、歩き始めましたが、観覧車は近くに見えて、案外遠くにあるのでした じぃじは脊柱管狭窄症で、体調によっては、足が強張り、痛くなり、あまり長く歩き続けることが出来ません。縁石に腰掛けたり、立ち止まったり、ティンママとティンコには、先にチケット交換に行ってもらいました。ようやく行列の傍にたどり着きました。雨が降り、寒いのに順番を待つ人は長蛇の列。二人の姿は見えません。「ここにいれば、ティンコ♂が見つけてくれるわよ」この時になって初めて足の痛みの原因に思い当たりましたが、今更どうなるものでもありません。「自分の健康管理位自分でするものよ」お腹の中で毒づきました 思いは同じだったらしく「みんなに迷惑かけちゃって」と、ここで涙なのでした。二人は中々現れません。寒いし雨だし、自己嫌悪のじぃじはハンケチを・・・ 年とともに涙もろく ティンママとティンコ♂が車椅子と、誘導してくれるお兄さんまで連れて戻ってきました。お兄さん(従業員さん)は、m字に並んでいる行列を「sorry」と言いながら、I字に突っ切って行きます。乗り込むのを、並んで待っている人々も一様に気持ちよく通り道を開けてくれました。マナーの良さに感謝 感謝です。けがの功名とは、まさにこのこと。何百人もの人を飛び越して乗り込んだのでした。同行の私たちも、勿論一緒に乗せていただけましたこの時ばかりは、じぃじの足の痛みにも感謝ティンコ♂は、乗り込みの案内をしてくださるオジサマと「アナタノグランパカ?」「イエス。カレハジャパニーズナンダヨ」 じじぃじ撮影 チケット3種
2016.02.27
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banquetとは、長いす」が原義でディナーや祝宴・宴会より多少儀式ばった会のことだそうです。 ソフトスーツにネクタイを用意してと出発前に言われていました。今回の来訪のメインイベントなんでしょう。フルコースの食事とwine。ショウが売り物だそうです。写真も何枚か撮りましたが、暗い室内でのヒドイ出来です。ショウは場所柄、エリザベス1世のどうしようもないお父さん、ヘンリー8世が登場して、客を笑わせます。 楽しかったのですが、言葉があまり分らないので、面白さは半減だったでしょう。俳優さん?歌手?たちの歌声は素晴らしかったです。Dinnerが終わればお客さんと交流もありました。この建物は1493年に建てられ、エリザベス1世(1533~1603)が幼い頃過ごしたグリニッジ宮殿だそうですが、いまはバンクェットホールとして使用されているそうです。夜の事とて、宮殿の外観を見ることは出来ず、ただ塔らしきものがライトの中に仄見えただけでした。この館の主だったエリザベス1世の父ヘンリー8世とは“ヘンリー8世の餌食になった王妃たち【元祖肉食系男子】”など(6人の王妃と結婚)エピソードの列挙に暇のない王であったようです二番目の王妃との間に生まれたのがエリザベス1世だそうです。
2016.02.10
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日本の食材はいくらで買える?23才?位まで日本にいたティンママには、やはり日本の食材は欠かせないらしいです。 (ティンパパもティンコ♂もご飯 が大好き)夕食の時「ティンはこんなにご飯 が好きじゃ、結婚する時は 、自分でご飯を炊くか、奥さんによ~く教えなくちゃね」と言ってやりました。日本の食材を扱うお店には2軒連れて行って貰いました。オリエンタルシティは、日本・Chaina Korea Thai India etc の食材が置かれていました。でも、案内通路はその国の文字では書いてないんですよね。品数は、各国とも陳列棚に2列ずつ。ここには、スーパーとテナントも入っていました。日本では『うつわの館』と言う食器のお店がありました。もう1軒は個人商店『あたりや』さん。日本の食材だけを扱っています。弓の的に矢が当たっている看板が出ていました。手巻き寿司の材料は、ここで切り分けてもらいます。経営者なのか、店員さんなのか分りませんが、英語訛りのない日本語を話します 中トロは、100g=6£(¥1,023)かップ焼きそばや『どん兵衛』は特売で1£です。(1 イギリス ポンド = 170.52 日本 円 (2016/01/28 時点) 店頭に日本人向けの情報誌が4誌置いてあり、無料だったので貰ってきました。こんな時代だったのですねこのお店の価格ではなく、情報誌に掲載されていた別のお店の広告です。お米は1袋5k入り 日本への里帰りには外国の航空会社の方が割安?当時の為替レートは£1=¥224.15でした。 実際には現地で買い物をしようと思うと1£=¥100くらいの価値しかなく物価は日本より高いと感じました。
2016.01.29
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スーパーは4時か5時で閉店スーパーマーケットTESCOとASDAは24hrs(hours)と大きな看板ですが月曜から土曜は7:30~22:00日曜は11:00~17:00と入り口に表示があります。「24時間じゃないじゃぁ」と言うと「seven daysって書いてないから、嘘じゃないのよ」とティンママ。イマイチ分かりません 家から一番近いスーパーはでした。他店は、午後4時には閉店だそうで、「昔は(留学生だった頃)、日曜日は休業だった」カートにはキーが付いていて持ち出すには、1£硬貨を入れます。返す時キーを差し込むと返金されます。日本以上に高齢者が目立ち、車椅子用のカートが置かれています。カートの下に車椅子が入れるようになっていて、カートの枠も、人に向かう部分には付いていません。そう言えば、視覚障害の方を見かけたことがありません。点字が付いている商品にもお目にかかりません。障がい者には、優しい国の筈ですので、なにか他の方法が講じられているのかも・・・みんな大きなカートに溢れるほどの買い物をしています。スーパーのレジでのシステムは日本とは大分違います。もっとも大きな違いは「お客さん」と「レジ係」の忙しさの差です。レジの店員さんは腰掛けていて、前に立つと、客の顔を見て微笑み「How are you」と言います。客は「Fine thank you 」と笑いながら応えます。レジの前にはコンベアーがついていて、 お客さんはカートから商品を出し、コンベアーに並べ終わったら“仕切り棒?”で次の人との区切りをつけます。これは結構たいへんな作業です。並べると言うより「積み上げる」と言った方がいいくらいですコンベアーに並べられた商品はレジ係の手元で自動的に止まります。 商品の価格を機械に読み込ませる。これだけがレジ係の仕事なのです商品をコンベアーに並べ終わったら、休む間もなく、レジの先へ移動し、 袋詰めをはじめます。日本のように別の机で袋詰めをするのではなく、そこで作業します。次の人の清算が終わるまでに詰め終わらせないと・・・レジ係は客が慌てていようが、焦っていようが手伝ってはくれません袋に詰めた商品はお客さん自身で再びカートに載せ、駐車場まで運びカートを返して1£を取り返し漸くジ・エンドです。今回は欲しいものはティンママのカートに入れ、自宅で清算していたのでラクチンでしたが、ティンコ♂の出産後の手伝いに行った一カ月間は買い出しは私の仕事でした買い物は基本カード決済で、現金支払いはレジが別でした。おまけにカートではなく籠で持ち込まなければなりませんでした。親切なオジサマが手振り身振りで教えてくださいましたが、レジを後にした時、「Don't forget it.」と背中に浴びせられたレジ係の罵声に近い声は今も忘れません。「お客様は神様」のサービスに慣れている日本人にはたいへん不親切に感じるシステムですが、こちらでは、日本のような丁寧なサービスをお客さんも求めていないのですね。夫々のお国柄を考えさせられます。
2015.12.02
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お出かけ編が続いたので、日常生活や街の様子などに触れたいと思いますが、8年も前のことなので、現在とは少し違っているかも知れませんゴミの分別・・・微苦笑ものですナショナルトラストとか、歴史的建造物や、自然保護にはウルサイというイメージのイギリスですが、ごみの処理はどうなってるのって感じ 埋め立てれば、土壌 や水質 汚染になるので、焼却するのだとは思うけれど焼却して有毒ガスが出るものまで燃やしちゃうの まぁ、地域によって多少違うのかも知れませんが 分けるのは3種類黒とグリーンのBoxは、日本のゴミ用ポリバケツと較べても2倍以上大きく、底には大きなキャスターが付いています。この容器には、可燃ごみや生ゴミの他、ペットボトル・アルミホイルなど、一切合財 日本では、不燃ごみか資源ごみに分別されるもの一切を日本の45リットル袋と同じくらいのポリ袋に入れて捨てます。直にごみを入れることはしません。作業員が収集車の所まで押して行くと、荷台からのジャッキがBoxの下に入り持ち上げ、Boxを傾け、ゴミを荷台に放り込む仕組みです。空になった容器を作業員が思い切り蹴飛ばすと、不思議『百発百中』元の置き場の位置に止まります。思わずニタリって笑いがこみ上げます 瓶と缶だけは分けて、小さい黒い容器に。こちらは、直に捨てます。収集員が、瓶と缶を手で分けながらトラックに放り込み、 じゃあ、グリーンの容器には何を入れるかと言うと色の通り、刈り取った芝生や、根と泥の付いたままの草だの (緑っちゃ、そうだけど)、今の季節、落ち葉 もここに 何か利用してるんだろうけど、一般ゴミの分別、もっと考えたらって感じです 因みに、収集は何れも週一です。
2015.10.31
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8月15日の終戦前後・関連するようなイギリスでの戦没者追悼式典のことを書きました。今回は、もう一つ出会った「式典」と言うより私にはお祭りという印象の行事を書きます。ガイフォークスデイ ハロウィンが終わった日から、夜になると、あちこちで音がして夜空に多くの花火が上がっているのが見えました。11月5日は、ガイ・フォークスデイを記念して家庭でも花火を打ち上げる習慣だそうです。1605年、新王ジェイムズのカトリック教徒弾圧に憤慨した一団が、国会開院式に出席する国王と議員たちを殺そうとして国会議事堂に爆薬を仕掛けた。しかし、この陰謀は密告によって事前に発覚し、実行寸前の11月5日未明、議事堂地下で36樽の爆薬と火付け役のガイ・フォークスが発見され、一味は全員逮捕された。議会は「救助を神に感謝する日」(A Holiday forever in thankfulness to God for our deliverance)として、翌年から11月5日を休日とした。これが Guy Fawkes Day の始まりである。以来、議会開会前に衛兵が地下室を調べて回る儀式が現在まで行われている。ウェールズでは、罪人、スコットランドでは自由を求めて戦ったと英雄視される。ガイ=男は、このGuy 彼の名に由来する。アノニマスのマスクはこのガイ・フォークスがモデルとも言われている。 (Wikipedia他より) 土曜日に、突如思い立ったように、ティンママが『THE GATE(ティンコ♂一家のファミレスだそうで)』でディナーをして、ナントカ公園に花火を見に行こうと言い出しました。ティンパパが赴任地に発ってしまってから、初めての外食をして小1時間車走りましたが、 公園近くは、ひどい渋滞で打ち上げ音は聞こえ、車内からは見えているのに ちっとも前へ進みません諦めてUターン、帰宅しました ティンコ♂昨日の日曜日、自宅の庭で花火大会です。ハロウィンは、ティンママ曰く『アメリカのお祭り』だそうで、ここの子どもたちは、何もしません。GOODSも売っていません。その代わり、このガイ・フォークスの日は、 花火に興じるので、スーパーでは、 花火コーナーを大きく設けています。 購入したのがこれ。1回点火すると、173発連続打ち上げます。 残骸がこれ。10分くらいで終わってしまいましたが、他所のお宅では、夜遅くまで続いていました。
2015.08.28
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何回か戦争について書いてきたのでついでに異国で経験した戦没者追悼の式典を・・・戦没者追悼の日・・・リメンバランスデイ Remembrance Day ・・・ 持参したジーニアス英和辞典によると『英霊記念日・第一・第二次世界大戦の戦没者を記念する日』(英連邦諸国などを含む世界の複数国で追悼の儀式が行われる)こちらのTVでは、女王も参列した式典の中継が放映されていました。 戦没者を追悼する日で、11月11日に最も近い日曜日に行われるそうです。今年はたまたま日曜日でした。儀式は午前中、ホワイト・ホールにある、戦死者の慰霊碑前で追悼儀式が行われる。英王室のメンバー、首相、各政党党首、外相、英連邦や軍の代表者などが出席。11時に黙とう。その後、エリザベス女王から始まって、王室メンバー、首相などが花輪を慰霊碑前に置く。この模様はテレビで生中継される。行列が行われているのは、おそらく(ティンママによれば)ロンドン市内のセント・ジェームスパーク近くではないかと2回の大戦だけでなく、コソボやイラクでの戦没者も含まれていると中継を聞いていたティンママが説明してくれました。退役軍人と見受けられる人は、当時の勲章を着けた制服を着用し、車椅子の人も大勢。ナースだったのか、制服の胸にたくさんの勲章を着けた女性も多く見られました。戦没者の家族も加わり、穏やかにマーチングして行きます。慰霊塔の下に、象徴の赤いポピーの花輪が次々と置かれていきます。ヒナゲシ(ポピー)は欧州原産のケシ科の1年草で、過酷な自然環境の中でも成長して花を咲かせる。19世紀にナポレオン戦争で荒廃した欧州各国の戦場では、戦死者の遺体の周囲に赤いヒナゲシが生え、荒れた土地がヒナゲシの野原に変貌したと言われている。1914年に第一次大戦が勃発し、フランス北部やフランダース地方(旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)が戦場となった。戦闘が終わると、戦死者の遺体の周囲に赤いヒナゲシが生え、荒れた土地がヒナゲシの野原に変貌したと言われている。戦場を埋めるように育ってきたのが赤いヒナゲシだったという。こうして欧州では、戦争とヒナゲシの花との関連が意識されるようになった。英国では秋が深まるころになると、紙でできた赤いヒナゲシの花のブローチを、洋服の襟部分などにピンで留めている人の姿を多く見かけるようになる。ブローチの販売は英国在郷軍人会という団体による募金活動の一つであり、販売を通じて得た収益金が、英軍関係者への支援に使われる仕組みになっているのだ。戦死者への追悼の意を表しながら、英兵士にいくばくかの金銭的支援を提供できるとあって、毎年この時期、英国では多くの人がブローチを買い求める。 1万人を越えるとアナウンスされたマーチングですが人口6000万人のイギリスと1億2000万人の日本。追悼にこんな人数が集結できることに驚きました。「私が見物に行ったら、卵を投げられるかも」とティンママがポツリ。国同士は仲直りできても、旧日本軍が国際法を無視した捕虜の扱いをしたことを許せない人もいると・・・
2015.08.24
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昨日、美容院でヘアカラーをお願いしている時に読んでいた週刊誌に森村誠一氏のお話が載っていて『作家になる決心をしたのは、終戦前日の熊谷大空襲で川に避難して亡くなっている知人を見つけ、引き揚げようとすると父上から「引き揚げると腐敗が早まるから、川の中の方がよい」と言われた惨状を見た時だ』とのことでした。氏が熊谷大空襲について度々語られていらっしゃるのは知っていましたが、作家を志す原点だったとは初めて知りました。森村氏は私より2才上ですが、当時小学校(国民学校)の中高学年だった子どもたちは、意識する・しないに係らずみんな心の一番下に何かしら抱えているのではないかと感じました。でも語り継ぐのは難しいとも~ ~ ~ ~ ~ ~ ~あらゆる物が不足して『リサイクル』に励みました。 空襲時、頭を守るための『防空頭巾』華やかな銘仙の着物をほぐして・・・ 足袋。表地は掛け布団や掻巻(かいまき・綿入れの夜着)の綿ビロードと呼ばれた襟をはずして。裏地は帯芯。型紙を起こして、半返し縫い。見よう見まねで手伝いました。 靴やズックは配給制。ほとんど下駄で過ごす。歯継ぎ屋さんで、すり減った歯を継いでもらい、鼻緒は父のネクタイで
2015.08.21
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自分で考える3年8ヵ月続いた戦争が終わった。身内で戦死したのは、恵(けい)伯父一人だけだった。家も焼かれず、幸運に恵まれたと思う。5年前の『自分史エッセイ』では、このように軽く済ませてしまったが、今年は例年になく、新聞やテレビで多くの人々の戦中戦後の体験を見聞きした。自分は本当にヌクヌクと暮らしていたのだと思い知らされ、そして苦しい体験をされた方々に申し訳ない気持ちを抱いた。「幸運に恵まれた」のではなく、両親や『田舎』の人たちに守られていたのだと分かった。戦死した恵(けい)伯父には、どれほど可愛がって貰ったことか・・・夜道を自転車で、家に送り届けてくれた伯父の大きな背中と印袢纏のゴワゴワした肌触りは、70年間いつも脳裏にあったと感じている。燈火管制をしなくてもよくなって、眠くなるまで、枕もとのスタンドを点けて、本を読めるようになった。八月末、パイプをくわえ、サングラス姿で、厚木に降り立ったマッカーサーの写真を、新聞で見たときは、正直『カッコイイ』と感じ、「こんな人たちと戦ったんだ。これが“鬼畜米英“?? と、不思議な気がした。~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~二学期が始まった。真っ先にさせられたことは、教科書を墨で消すことだった。 今まで、正しいと教えられてきたことは間違っていたと… 不適切と思われる部分を、先生の指示で墨汁で塗りつぶしていった。先生は、これからは“民主主義”の時代だから、当然なのだと言う態度。戦争が終わって、まだ二週間しか経っていない。その間に何が変ってしまったのか。「今まで教わってきたことは、何だったのか」“皇民教育”から、百八十度の転換。一学期までの教育を、否定する先生たち。 報道の姿勢も一変した。国営放送でさえ、敗戦翌年の2月から、ラジオで『英語会話教室』を放送するなど、新聞もラジオも手のひらを反した報道に終始した。15日の新聞に「自戒を胸に報じる」との記事があり、戦争を煽るような報道への悔恨と自戒に接することが出来、いくらかホッとした。4年生、10才の少女は、混乱した。「今度はアメリカ一辺倒だ。国家や、政府や、大人が言うことは、信用できない」そんな私の戸惑いを、戦争に負けたことを、悲しむでもなく、かと言って、戦争が終わったことを、有頂天に喜ぶでもなく、それまでと変らなかった家の雰囲気が落ち着かせてくれた。。 父は「一億玉砕」「神州不滅」「竹槍を持って最後の一人まで闘え」などの世相に迎合せず、『本土決戦』になったら、一家で生まれ故郷の日光へ疎開し、逃れようとしていた人である。「いま、日本は苦戦していますが、最後の最後は、神風が吹いて、必ずアメリカに勝つのです」 と、学校で教えられても、何となく不安で、「ねえ。神風って本当に吹くの?」 何度訊いても、返事を返してくれない父であった。 その言動は将来を見通す“眼”や、“勘”を、持っていたのか、他界してしまったいまでは、確かめようもないが、敗戦後、ガラリと態度を変えた他の人たちのようには、変らなかった父は、私にとって救いであったような気がする。父が戦中・戦後の世相に迎合していたら、私は凄まじい反抗をしたのではなかっただろうか。「国家や、政府や、大人が言うことは、信用できない」との思いは、消し去ることは出来ず、『何事も、自分で考えることが出来るようにならなければ』と思った。この考えを、私の人生の原点と位置づけ、戦後の70年間を生きてきたつもりなのだが こんなポスターに踊らされる日が二度と来ませんように
2015.08.16
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日本が負けた日 昭和20(1945)年8月15日。その日は『田舎』にいた。祖父母と並んで、正午にラジオで玉音放送を聴いた。80才の今までの『生きる姿勢』の原点になった日なのに、その日の記憶は、異次元に飛んでしまったのか、風化されてしまったのか、断片でしか思い出せない。当然いる筈のカオやイサや咲伯母ちゃん(従弟たちと伯父の奥さん)の姿は浮かんでこない。空襲は続いていた。何日か前の『空襲警報』発令と共に母や弟たちと『田舎』に避難して、そのまま一人居残っていたらしい。空襲が途絶えた日が何日か続いた。「おばあちゃん。空襲ないねえ。アメリカは逃げたのかなぁ」 家の前の道で、晴れた夏空を見上げながら呟いた記憶。が現実は、終戦前日の8月14日に県内の熊谷市が大空襲に合っていたのだった。祖父母はラジオを聴く習慣を持ち合わせていなかった。早めに昼食を済ませた。東向きの家は真夏の陽射しが、差し込むこともなく、裏の竹やぶから吹き込む風は涼しかった。当時は「天皇陛下」と口にするときは、初めに「畏れ多くも」と、枕詞のように言わなければならなかったし、言った人も、聞いた人も、立っていれば“気をつけ”の姿勢をとり、座っていれば、正座に直った。だから、このときも、当然のように、祖父母と並んで、ラジオに向かって正座した。正午。甲高く、浮世離れのした口調で『玉音』が流れ始めた。聞き終わっても、何が話されたのか、どんな内容だったのか、少しも分らなかった。『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ』だけが聞き取れたので、これからも、この状態を続けていって欲しいと言うのだと思った。天皇陛下が自ら国民に呼びかけたのだから、生半可な我慢では、済まされないことになったのだと思った。『太平ヲ開カムト欲ス』と、続いていたことは、あとになって知った。雑音が多く(当時は当然)よく聞き取れなかったし、聞き取れていたとしても、その言葉の意味が、戦争を止めることだとは、4年生の私の理解の域を越えていた。夕方になって、父がやってきた。祖父母は、昼間の放送は何だったのかと、真っ先に訊いた。「戦争は終わったんです。日本は戦争に負けたんです。」父は淡々と言った。新聞は取っていないし、滅多にラジオも聴かない、祖父母の家で、私はその時まで、原爆投下も知らなかった。「広島と長崎に“新型爆弾”を落とされて、軍人もさすがに『もうアメリカには敵わない』と思ったんでしょう」 この先、どうなるのかと、尋ねる祖父母に、「日本は、まもなくアメリカに占領されるでしょう。それから先、どういうことになるのか、私にも分りません。何かあったら知らせに来ます」しばらくの沈黙の後、祖父が訊いた。「日光に疎開しなくてもいいんだな?」「アメリカ軍は来ると思いますが、戦争をしに来る訳ではないですから、家を焼かれたり、殺されたりすることはないでしょう」祖父母はホッと安堵の表情を浮かべた。「とにかく、もう空襲はないですから、今夜から明るく電気をつけても大丈夫ですよ」 灯火管制で黒い布をかぶせていた電燈 祖父母が納得したところで、私に「そろそろ帰ろうか」と言った。自転車の荷台で、父の背に掴まりながら、八月半ば過ぎの夕方の涼風に吹かれた。里山のふもとにはススキの穂が出始めていた。家に帰って、ラジオを聴き、新聞を読める生活の中で、180度変わった世相を肌で感じた。「国家や、政府や、大人が言うことは、信用できない」そして『何事も、自分で考えることが出来るようにならなければ』と思った。この考えを、私の人生の原点と位置づけた。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆欲しがらなかったけどマケマシタ。 贅沢したくても何も手に入らない。
2015.08.12
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8日間続いた猛暑も、今日は幾分涼しさを感じさせてくれてています。リンクさせていただいている方が、終戦時のご経験を書いていらっしゃいました。戦後70年。戦争を語り継ごうと言っても、80才の私でさえ、10才の小学生で実戦の経験なんてありません。なので娘たちにも、ほとんど話していませんでした。5年前『自分史エッセイ』を書き、そこに戦中・戦後の思い出を書きました。抜粋・編集して3回くらい書かせていただきます。戦後70年→私の原点(1) 防空壕と東京空襲昭和19(1944)年の秋、戦局は逼迫してきていた。ある日曜日。「防空壕を掘れって、棟梁(母の兄・伯父)に頼まれた」そう言いながら、三人の男の人がやってきた。「旦那さん、どの辺りを掘ったらよかんべ」父は、「この辺にお願いしようか」と、裏木戸に近い一角を指した。まず、四角い穴が掘られた。敷布団が、二枚敷けるほどの広さで、大人が座って頭が着かない深さまで掘り下げた。周囲を杭と板で土留めをし壁が出来た。天井になるところは、丸太や角材などを渡し、厚い板を敷いて、掘り出した土が被せられた。大工仕事で、天井板の余分な端を切り取って、蝶番をつけ、人一人が出入りできる入り口を作ってくれた。それから間もなく、空襲警報が頻繁に発令されるようになった。『田舎』(4km離れ母の実家)に避難する時間がなかったとき、何度か弟たちと防空壕に入った。いつもと違う雰囲気に、ワクワクするような気もした。浦和(現さいたま市)は、爆撃の目的地ではないと、両親が言うので、ときどき、布団から起き上がっては、“怖いもの見たさ”で、入り口を開けて姉弟かわるがわる夜空を飛ぶB29を見上げた。 赤羽の高射砲陣地からの探照灯が交錯して交わり、ひときわ明るく正確なオレンジ色の菱形を作る。その菱形の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて神秘的にさえ見えた。二才のヒト(末弟)も、一度でその名を覚え、回らぬ舌で「ビーニージーク」と言った。高射砲の発射音が聞こえるが、『敵機』の高さには、届かなかった。やがて東京の方角の空が、赤く見え出す。燃え盛っているであろう炎で、風のない夜でも、上昇気流が発生して風を呼び、被害が拡大されていくのだった。東京の被害の悲惨さは、9才の私にも理解できた。大量の焼夷弾投下により、広範囲の都市爆撃が行われるようになってからは、防空壕で蒸し焼きになって、死亡する人々が続出したと、悲劇を知ったのは、ずっと後になってからだった。 画像はいずれも引用させていただきました。
2015.08.07
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馬優先?・・・道路事情 1 出かけるときは遠近に関わらず、車になってしまいます。道路事情はこんな具合です。先ずはユニークな道路標識。 ティンコ♂の家のすぐ傍でも見かけたので撮りました。近くに厩舎があり、乗馬姿の人を見かけます 車の騒音に馬が驚いて跳ね上がり、人が落ちて怪我をしたら、治療費はドライバー持ちだそうです。みんな、スピードを落としてそっと追い越します。『お年寄りが横断します。注意』と言う意味でしょう。よく見かけるのですが、走っている車からではチョット無理と思っていたら、ケンブリッジの町並みの中に、1ヶだけ写り込んでいました。『1,5マイル先に鹿が出ます』ティンコ♂の家から15分くらいの林のそばです。 きのうドライブ中に見かけ、車を止めてもらって撮りました。 信号は赤→黄→青・・・道路事情2 車社会では、どこに行っても後続車がないなんて事はありません。古い町が多いので、街なかに駐車場をつくるスペースが少なく、道路の端に黄色の2重線が引いてなければ、路上駐車が可能です。かといって、両側駐車する不届き者はいません。狭くなった道幅を、譲り合いながら、往来していきます。マナーの良さには感心します。 T字路などから幹線道路に出ようとすると左右の車は、必ず停まって入れてくれます。信号は道路の端か中央にに1,5m位の高さで立っています。 日本のように高くにあって、木の枝で隠れて見えない なんてことはないのです。上から赤黄青と縦並びで、青信号になる時も赤から一旦黄色になって、青になります。ラウンドアバウトと呼ばれる交差点の曲がり方もユニークです。 実際には、もっと多方向へ分かれる場合が多いです。 ティンママは、『信号機は要らないので、経済的。必要なのはマナーだけ』と言います。馴れるまでは、ラウンドアバウトに入る時は緊張したそうですが、もし間違えても、次のラウンドアバウトから戻ればよく、気が楽なんだそうです。 日本なら『回送』と書き、走り去りますが、Sorryと書かれているところに、経営理念が感じられます。
2015.07.30
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FARM SHOP and TEA ROOM 農園喫茶店ご近所の田舎?に行ってきました。最初はガーデンセンターへ~~ 季節柄、花は乏しかったのですが、シクラメンの鉢植えは、日本と同じように見事でした。値段は失念です ガーデンセンターですから、クリスマス用の150センチ以上の生のツリー が所狭しと・・・飾りも大振りです。安さに釣られて、『自宅の壁に釣るそう』と2ヶ買ってしまいました。Farm Tea Roomとは、直訳通り農園の中にある喫茶・軽食のお店です。今日行ったのは『FERNY HILL TEA ROOM』と言う名前でした。 裏手には直営農場がありました。春や夏ならば、作物が青々と実っていることでしょう。 平日の午後なのに、ほぼ満席 地元の人の『お馴染み』なのでしょう。 元は、倉庫とか厩舎だった所を改造した建物だそうです。 ここで、アフタヌーンティー と、名物スコーンを自家製のスコーンは香ばしく、紅茶に匂い立つ(ミルクがです)ミルクをたっぷりスコーンにつけるクロテットクリームも、勿論自家製だそうで画像をUP出来ないのが残念 カメラをカシャリでは、おのぼりさん丸出し・・・ おのぼりさんが、いけない訳ではありませんが、やはり気恥ずかしくって・・・ホームページから引用させていただきました。じぃじが見たいと言っていた羊にも会いました。今日は望遠レンズを持って行かなかったので帰るまでにもう一度連れて行って貰おうと・・・
2015.07.24
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ティンコ♂が、じぃじとばぁばに、どうしても見せたい所があると、市内のチャーチルミュージアムへ 連れて行ってもらいました。10才のティンコ♂には、自分はBritish citizen(イギリス市民)であり祖国はKingdom of Great Britainで、チャーチルは尊敬する偉大な政治家でした。そして、すべてがティンコ♂の誇りでした ティンママが留学生だった時、Mrs.サマンサと三人で観光した名所を抜けて行きました。 ビッグベンの威容も昔日と変わらず国会議事堂には見学者が群れて、黄昏時の市内は人で溢れ、かと言って騒々しくはなく・・・チャーチルミュージアムは、先の大戦中に、チャーチル率いる、時のイギリス政府が、ドイツ軍の空襲を逃れて、地下で会議を行った建物が当時のままに保管され、チャーチルの着用した衣服などの展示すされていました。すっごく幅広の洋服でした。
2015.07.09
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BLENHEIM PALACE プレナム宮殿チャーチルが生まれた宮殿です。1704年にフランス軍を破った先祖がアン女王から贈られたとの事。往年の英国伯爵の豪華な生活を偲ばせる調度品や、造園の素晴らしさにも驚かされますが、蔵書の凄さも並ではありません。2列3列と奥行きにも重ねられて収納され、図書館なんてもんじゃなく、皮表紙の分厚い本ばかり。何代にも及ぶ積み重ねで、子孫は一生かかっても読みきれないでしょう。 道すがら、子供たちが自由に絵を描ける道路上のボードを発見。途中、暖炉の燃えるレストランでランチ ↑ ムール貝のリゾット。チョコレートと共に置かれた伝票。帰りに隣のオックスフォードを一回りオックスフォード大学と言ってもその名前の大学があるわけでなく、マートン・カレッジ、オーリソールズ・カレッジ、ジーザス・カレッジなど街中に点在している複数の集合体をオックスフォード大学と言うそうです。晩秋の日暮れは早く、でも、暮れなずむ町並みを、自転車で駆け回る 、あれはみんな大学生たちでしょう。 その姿は、ヘッドライトの中に、突然飛び込んできました。
2015.07.08
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10月25日カンタベリー大聖堂に行きました。ティンパパはまだ香港なので、私たち夫婦・ティンママ、ティンコ♂の4人です。地図上の直線距離で120km。2時間半のドライヴ でした。高速道路は原則、無料ですが、テムズ川 の橋を渡る時だけ、唯一1£徴収されます。傍らの籠にコインを放り込むとゲートが開きますが入れ損なった人 のために係員もいます。英国は高い山が無く、なだらかな起伏の丘の風景が続き国土が狭い割には、広々感じます。カンタベリー大聖堂については、私如きが書く必要もないでしょうが、 巨大な天井を支える柱の太さは、大人5人でも囲めるかどうか。ステンドグラスも見事でした。キリスト教を信仰していれば、ここに刻まれた歴史に感動するでしょう。 聖アウグスティヌス修道院跡・カンタベリーティルズ(蝋人形館)・ ウエスト ゲートタワー・ローマン博物館などがあります。 街自体は小さく、1本のメインストリートを除けば、閑散として往年の賑わいはありません。 これらのパンフレットは何か国語もの種類があり、これで車椅子が借りられることを知りました。以来、どこかに出かけると、ティンコ♂は車椅子を探してきてはじぃじを押して歩く役目を買って出てくれました。帰りの車中から、真っ赤っか~な夕日が、すとんと森の木々の中に落ちていきました。日本では、「つるべ落とし」とか言いますがそれとはちょっとニュアンスが違うような気がします。とにかく、ストンと落ちたのです。
2015.06.25
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イギリス版ほか弁?? 内装職人の大輔さんは、札幌出身の日本人です。今は、キッチンの仕上げ段階です。床の張替え・壁塗り・吊戸棚の取り付けetc 何でも一人でこなします。丁寧で、綺麗な仕事振りです。 入れ込み過ぎて、気力・体力が限界になり、時々、無断で休んでしまうのが欠点ですが 設計を担当する社長さんも、その腕をかっています。人柄もよく、休み時間にはティンコ♂と一緒に庭で遊んだりして、すっかり仲良くなって、帰宅すると先ず「ダイスケさ~ん ただいま~」 そんな大輔さんが、何日かおきに、買いに行く昼食のお弁当。日本なら『ほっかほか弁当』というところでしょうか。この家から自転車で15分位掛かるようですが、買ってくるのは『酢豚』か、もう1種類は、献立名が分かりませんが、中華っぽい曰く「牛肉とピーマンとほかの野菜も炒めてオイスターソースで味付けしたヤツ」先に興味を持ったのはじぃじ 「僕にも買ってきてくれますか」酢豚弁当に味を占めたじぃじは、10日振りに再開された工事のためにやってきた大輔さんに「お昼は 」と・・・私も便乗させてもらいました。1ヶ3£アルミホイルの容器に紙(防水)の蓋がピッタリ張り付いて 中味は開けてみないと分りません。写真に撮ろうとしていたら、お茶を入れている間に大輔さんがさっさとお皿に移してくれて、じぃじは箸をつけてしまいました。『牛肉と~~~』ってヤツです。お米は『多分カリフォルニア米でしょう』と。お米のお弁当を売っているお店は、日本人には貴重なのでしょうね。ケンタッキーフライドチキン=ケンタ=KFCある日の夕方、ママと帰宅したティンコ♂が駆け込んできました。「じぃじ、ばぁば~ ディナーはKFCだよ~」 そして、貪るように食べ尽くしました。「な~んだ。そんなに好きだったのなら、イトーヨーカドーのフードコートで好きなだけ買ってあげたのに」とバカばぁば根性が・・日本と少し呼び方が違います。日本では約して「ケンタ行く?」イギリスではKFC。フライドポテトはポテトチップス。日本のポテトチップスはクリスプスと言います。
2015.06.09
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ティンママが、Harrodsにダイニングテーブルと椅子を注文に行くと言うので付いていきました。1996年、ティンコ♂が生まれた時には、フラット(日本のマンション)に住んでいて、地下鉄の駅まで5分。次の次がハロッズへの駅でした。反対方向では次がサウスケンジントン宮殿まで行けるアクセスでしたが、今回は郊外から渋滞に巻き込まれながら、1時間かかりました。ティンママの注文を待つ間、一人で店内を一か月を超える滞在中、留守宅に金魚の様子などを見に行ってくれるMr.nanとMrs.サマンサ、友人へのお土産を物色。Shoppingの途中で、店内のOYSTER BARでシャンパンと生牡蠣で息抜き。食べ放題のパンも一緒のランチでした(結構お高い値段かも)注文は終了しましたが、3週間後の納品時には日本に帰っているので、お目にかかれません。 ハロッズで買ったお土産『英語で読む児童文学』の講座で、今年よんでいる、ナルニア国物語『ライオンと魔女』はイギリスが舞台なので出てくるお菓子 Turkish Delightを探しました。 ハロッズの食品は、どれもパッケージが可愛い クッキーとチョコレート 紅茶は3缶で1パック。3面に絵が続いています。
2015.06.06
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授業中に歯医者さんに行っても ティンコ♂の忘れ物を届けに行った時(そうなんです。ティンコ♂は、よく忘れ物をします。登校途中の車の中で思い出したり 教室に着いてからだったり )ある日、届けに行ったティンママを、校門前に駐車した車で待っているとケラケラ笑いながら戻ってきました。先ほどから、後ろの方で母子らしい会話が聞こえていたのですが、内容はサッパリ 「歯医者さんの予約時間に間に合うように、校門にいるように言っておいたのに、いくら待ってもやって来ない。友達に訊いても、みんな、何処にいるか分らないって言うし 今から時間に間に合うと思ってるの」「ネクタイを見ると最終学年の子だし、あ~ぁ。うちも後2年経っても、ああなのね」ティンママはぼやいた この国は、公共医療は無料だが、希望の時間に予約を入れることが出来ない。病院側の都合で決められる。だから、学校の授業時間と予約時間が重なって授業を抜け出しても、欠席にカウントされないそうです。登校は、校門まで親の送迎が義務です。たとえ徒歩通学(非常に少数)であっても。ティンコ♂は片道15分の道をティンママが 30分・40分掛けてくる人が多いそうで、駐車場と、学校の回りは、いっとき、車だらけです。(この国も車社会です)共働きの家庭のために、朝7:30からと、夜6:00までは『学童保育』が実施されているそうです。 毎朝、7:00に起こされて 起こされて、やっと目覚めていたティンコ♂が、先々週の水曜日から突如 ヘンシ~ン 「My eyes open ファイブ サーティーだよ」などと早々と起床。シャワー・着替えをすませています。今も彼の部屋から物音がしてきました いつまで続くやら ヘンシーンついでに(2002 浅草 ウルトラマン倶楽部)
2015.06.04
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ティンコ♂は、この時10才。自立心が芽生え始め、自分が出来ることは自分でやりたい。じぃじを守りたいと彼なりに考えたのでしょう。何処へ行っても車椅子とスモーキングエリアを探してきて、大人たちの微笑を誘いました。8年経った今は、一見、素知らぬ振りをしながら(例えばじぃじに背を向けるなど)見守っています。時折スマホに夢中になって、気づくと隣にじぃじがいないとそこら中を探し回っています。じぃじも、ヒトコト断ってから移動すればいいのに~~ティンコ♂のことティンコ♂の通っている私立校は、4才から13才までの9学年。日本の幼・小・中一貫校でしょうか。1学年20人編成の2クラスずつ。350人位のまとまった学校です。お昼は学校で用意されます。ティンコ♂に、「学校のランチ美味しい?」と訊いたら「lunchじゃないよ。school dinnerだよっ」「あぁそう。 それで美味しい?」とっても美味しいそうです。宗教の戒律や、アレルギー体質で食べられない食材がある子への配慮もキチンとされているそうです。給食費という納入項目はなく、学費に込みで納め、学費が払えなければ、学校を辞めることになるそうです。帰国が近づいたとき、ティンコ♂は、先生に「日本から来たグランパとグランマに、学校の中を見せてもいいか」と訊いてくれ、見学を許されました。ティンコ♂と学校に感謝1ティンコ♂誕生日 1996年11月8日午後8時50分(日本時間9日午前5時50分)ティンコ♂was born でした。 あれから11年。誕生日を一緒に過ごせるのは、私たち夫婦にとってこれが最後でしょう。学校があるティンコ♂は、日本に来られないし、こちらも、訪英は出来ないでしょうから 昨夜は、家族?ティンコ♂・ティンママ・私たち夫婦・叔母のCさん・従姉のKちゃんの6人でささやかに(ティンコ♂の希望で)寿司パーティー。ティンパパは、殆どの年に不在でティンコも馴れっこに。ケーキにキャンドルを点しHappy Birthdayを合唱した時は、少~しばかりウルウルしたかも。メインのパーティーは、週末にお友達を招んで、自宅外で開くのだそうです。
2015.05.19
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リスが来る庭 庭にリスや狐が来る」と、空港に迎えに来た車の中でティンママが話しました。話しの通り、翌日には、板塀の上をリスが駆けているのを目撃しました この木のどれかに住み着いているのでしょう。餌付けをしないのがルールだそうです。「庭に降りてくる事はないの?」と訊いたら、「どんぐりが落ちていた頃は、よく降りてきてたけど、今は、蓄えも終わったんじゃないの」来るのが遅かった なんとか、捉えてみたいけど、三脚を立て、センサーでもつけないと撮れっこないと思っていましたが、帰国も間近になって、ようやく、じぃじが撮りました。 ↑ 灰色で、スマー。トで身軽です。 キチンと撮れればこんな感じ。場所によって種類が違うのでしょう。 ハイドパークのリス狐は、まだか、ご登場は無いけれど、28日にバンクェットホールから、家に戻る途中道路脇の芝生でお目にかかりました。小形で丸々肥って、人を見ても慌てることなく去っていきました。
2015.05.18
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住んでいる家はこんなとこ ここはロンドンから北に20キロのところです。文字通りの住宅街です。1階はリビングとダイニングキッチン。トイレ・バス・シャワー室などの水回り。リフォーム未完成の映写室。 車庫の空き空間はリフォームのための職人さんの道具類で納屋状態です。2階は、主寝室と子ども部屋。二つのゲストルーム。トイレ・サウナ。画像の家は2階建てですが、屋根の後ろに木が写っています 隣家には隣家の木があり、窓から見るとこんな様子です。庭に出れば、2・3羽の野鳥が目の中を横切り、梢で羽を休める鳥の鳴き声を にします。ちいちいであったり、ちっちっちい~~~ だったりセキュリティは結構きついです。庭に向かって数個のライトが設置され、何かが動けばライトが点灯します。家族にも容赦なく光が注がれます。屋内もセキュリティシステムが全館を守っています。静かな環境は不審者がいれば、すぐ分かると思うのですが・・・
2015.05.16
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ネタ切れで、更新が少なくなりました。8年も前に行ったティンコ♂の家。当時のブログを編集し冊子にしたものを画像として再度UPさせていただくとにしました。全40回くらいです。ネタ切れの時UPさせていただきますよろしくお願い申し上げます。次女(ティンママ)は、ロンドンに留学した時、出会いがあり、ティンパパと結婚しました。ティンコ♂が誕生後、ティンパパの転勤で、香港に住んでいましたが、ティンコ♂が10才になったとき、香港のインターナショナルスクールより、本国のイギリスで、教育を受けさせることに踏み切り、ティンママとティンコ♂だけが、イギリスに帰国しました。その1年後(2007年)に訪英した時のブログをまとめたものです。
2015.05.15
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