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副題:終戦・その後 何日か前、眠れぬままテレビを観ていたら再放送で放映されていた。無謀と言われたインパール作戦 「戦慄のインパール」かつてビルマと呼ばれていた、インドシナ半島西に位置するミャンマー。1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170922/index.html若い頃から、知識として知っていたが、戦争ってこんなに悲惨だったのだと改めて思い知らされた。戦争が終わったからと言って、戦前の日々が戻ってきた訳では無い。空襲は無くなったけれど、食料は相変わらず不足していたし、世相は戦時中より荒れていた。政府がなんの情報も与えないまま、国民を管理。統制し我慢だけを強いてきたことへの不満が爆発したのだろう。東京には学童疎開から帰京したものの空襲で家や両親を亡くした孤児が浮浪児と呼ばれ、食べるために窃盗を働いて、嫌われ者になっていた。統治はアメリカ軍に委ねられ、「進駐軍}が駐留することになった。8月末、パイプをくわえ、サングラス姿で厚木に降り立った司令官マッカーサーの写真を、 新聞で見たときは、正直『カッコイイ』と感じ、「こんな人たちと戦ったんだ。これが『鬼畜米英』???」不思議な気がした。進駐軍から「駐留軍」と名前と役割は変わったけれど、米軍は未だ 日本にいる。 2学期が始まった。真っ先にさせられたことは、教科書を墨で消すことだった。不適切と思われる部分を、先生の指示で、墨で塗りつぶしていった。今まで教えられてきたことは、間違っていたと・・・ 先生は、これからは「民主主義」の時代だから当然なのだと言う態度。 戦争が終わって、まだ2週間しか経っていない。その間に、何が変ってしまったのか。 「今まで教わってきたことは何だったのか」 「皇民教育」から180度の転換。1学期までの教育を否定する先生たち。 報道の姿勢も一変した。4年生の少女は混乱した。 「今度はアメリカ一辺倒だ。国家や政府や大人が言うことは信用できない」そして『何事も自分で考えなければ』と思った。そして、これからは『世間に振り回されない』→『自分で考える』→『いつから、そう思うようになったか』→『終戦後態度が変わった大人たちを見て』この考えを私の人生の原点と位置づけた。戦後も、ガラリと態度が変わった周囲の人たちのように、世相に迎合せず、 家の雰囲気は、戦争に負けたことを悲しむでもなく、かと言って、 戦争が終わったことを有頂天に喜ぶでもなく、それまでと変らなかった。家では落ち着けたことは救いであった。 その後、この国は驚くべき速さで復興を遂げた。10年で「もはや戦後ではない」と言われ、20年を待たずして東京五輪を開催し新幹線も開通した。、70年以上を生きた。『自分で考える』が誤った判断を下したこともあったかも知れない。 今ここにいる。「戦争の時代を語り継ぎたい」と大上段に構えて見たが、従軍した訳でも、家族を養う苦労をした訳でもない。この世代は多くは亡くなってしまった。。子供だった私の世代も後期高齢者になった。戦乱の世が再び来ないことを祈るしかない。昭和が終わり、退位時に『平成は戦争がなかった初めての時代』と上皇が発言された。どんなに不満があっても、自由と平和を享受している幸いを思う。一文を書くために、記憶にある幾つかの語句を検索してみて、戦争は戦う成人だけでなく、子供たちも巻き込んで不幸にすることを知った。ご参考に学童疎開:第2次世界大戦末期、米軍の本格的な本土空襲に備えて、大都市の国民学校初等科(現在の小学校)の児童を強制的に地方に移住させた。親戚などを頼る縁故疎開のほか、学校単位で3~6年生の集団疎開があった。https://kotobank.jp/word/学童疎開-43745 浮浪児:「一匹に二匹と数えられ」浮浪児を取り締まり、保護した時の話。戦後、東京・上野の地下道は浮浪児であふれ、数え切れない子どもたちが餓死し、凍死しました。生きた証しすら残せず、『お母さん』とつぶやき、一人で死んでいった。「浮浪児と呼ばれた子どもの大半は戦争孤児です。学童疎開中に空襲で家族を失った子もたくさん路上にいました。だれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられた。 ――孤児たちはなぜ、路上をさまようようになったのでしょう。 「当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた、と。
2019.06.30
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副題:1945(昭和20)年8月15日その日は夏休みだったので『田舎』にいた。祖父母と並んで、正午にラジオで玉音放送を聴いた。今日までの『生きる姿勢』の原点になった日なのに、その日の記憶は、異次元に飛んでしまったのか、風化されてしまったのか、断片でしか思い出せない。何故か空襲が途絶えていた。「おばあちゃん。空襲ないねえ。アメリカは逃げたのかなぁ」 家の前の道で、晴れた夏空を見上げながら呟いた記憶。『田舎』が好きだった。浦和に越した時からだ。祖母が近隣の農家から買い集めた野菜を届けてくれる祖父の自転車で連れ帰ってもらっていた。春の田んぼのレンゲ畑。道端のすみれやれんげ。小川のおたまじゃくし・いとことかいぼり。クワガタ・カブトムシ。そして何よりも近くの里山にさく大輪のヤマユリ。祖父は仕事場で、日差しを背中に浴びながら、角材に鉋を掻けている。薄く削られて、鉋から舞い上がった鉋屑の木目の濃淡を日光にかざし木目の美しさに魅せられた。一番興味を持ったのは墨付けだった。墨壷のカルコを角材の一方に刺し、後退りすると壷車がカラカラと素早く回り、墨糸が引き出されていく。角材の反対側の端までピント張った糸をつまんでパッと離すと、見事に細い黒い線が引かれ、 墨は一点も飛び散っていなかった。 祖母は。お洒落と言う訳ではないが、着物の襟をきちんと合わせ、髪は乱れていた事はなく優しい人だと思ったことはなかった。笑顔を思い出せない。抱きよせられた記憶もない。しかし3年生になって、学校に何か食料になる物を持参するように言われた時、毎週ドングリを袋一杯拾っておいて持たせてくれた。才覚のある人だったらしく、父の得意先へのお歳暮の見立てが好評で以後定番になったそうだ。早めに昼食を済ませた。東向きの家は、真夏の陽射しが差し込むこともなく、裏の竹やぶから吹き込む風は涼しかった。 当時は、「天皇陛下」と口にするときは、初めに「畏れ多くも」と枕詞のように言わなければならなかったし、言った人も、聞いた人も、立っていれば「気をつけ」の姿勢をとり、座っていれば正座に直った。だから、このときも当然のように、祖父母と並んでラジオに向かって正座した。 正午。甲高く、浮世離れのした口調で『玉音』が流れ始めた。 聞き終わっても、何が話されたのか、どんな内容だったのか、少しも分らなかった。 『堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ』だけ分ったので、これからもこの状態を続けていって欲しいと言うのだと思った。天皇陛下が、自ら国民に呼びかけたのだから、生半可な我慢では済まされないことになったのだと思った。「太平ヲ開カムト欲ス』と続いていたことは、後に知った。よく聞き取れなかったし、 聞き取れていたとしても、その言葉の意味が、戦争を止めることだとは、4年生の私の理解の域を越えていただろう。 https://ironna.jp/article/1855 口語訳付8月も15日を過ぎると、夕方は涼風が立つ。父がやってきた。祖父母は、昼間の放送は何だったのかと、真っ先に訊いた。「日本は戦争に負けたんです。戦争は終わったんです」淡々と言った。 「とにかく、もう空襲はないですから、今夜から明るく電気をつけても大丈夫ですよ」 祖父母が納得したところで、私に「そろそろ帰ろうか」と言った。自転車の荷台で、父の背に掴まりながら、心の中の『田舎』が遠ざかっていく気がした。この日、父37才、母33才。叔母23才、私10才、弟5才、末弟3才であった。衝撃を受けたのは、二学期が始まってから、大人たちの態度の変わり様を知った時だった。次回で終了です。
2019.06.23
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副題:11人の大所帯記録によると、川崎も20回の空襲を受けているとのことだが、 記憶と思い合わせると、父が「川崎のおじさん」と呼ぶ夫婦がやってきたのは、 おそらく昭和20年4月15日の「川崎大空襲」の何日かあとのことだ。川崎は京浜工業地帯で工場が多い。爆撃は先ず工場地帯を襲ったと考えられる。小父さんは丸坊主で、50才よりは上に見えた。 奥さんの髪に白髪はなかったように覚えている。親戚なのだろうか、どんな係累なのか、10才の私は聞いてみることをしなかった。 二人とも大きな風呂敷包みを背負っていた。 客用の布団は、疎開させてあって、家にはもう置いてなかった。 現在のマットレスと言うか、敷布団は家族それぞれ2枚ずつ敷いていたので、 両親の分を1枚ずつ提供することになった。 「私たちは、座布団を並べた上に寝てもいいのよ。気を遣わないで」と奥さん。 「もう暖かいから、上は背負ってきた毛布で十分。掛布団は要らないからね」食事も遠慮がちで「私たちは、もう年だから、そんなに食べられない」奥さんは「後片付けは、わたしがする」と、掃除も洗濯も手伝った。 夜の空襲警報発令は続いていた。「私たちは経験者だから、逃げ方を知っている」と 防空壕に入ることはなかった。だから大きな荷物も持ち出せたのだろう。 トミさんの息子、武(たけ)さん、奥さんの冨美さん、息子の剛ちゃん(いずれも仮名)一家が避難してきたのは、それから40日ほど経った5月24日以後のこと。爆撃も終盤に入り、世田谷区などの住宅地にも及ぶようになったのだろう。ほとんど身一つの状態だった。叔母と、大人用の布団に寝かされていた私の敷布団の1枚ずつが使われ、掛け布団は、冬用の厚いもので我慢してもらった。 騒動は、早くも翌日から持ち上がった。 夫婦の一人息子剛ちゃんは、末弟より、何ヶ月か遅く生まれたそうだ。 一人っ子で甘やかされて育てられたであろう剛ちゃんと、末っ子で、家族の庇護のもとに育った末弟。そこんな二人に喧嘩をするなと言う方が無理なのだ。 昭和の家屋の間仕切りは襖だった。武さん一家に貸した部屋と、 私たち子どもが寝起きしていた部屋との間には4枚の襖があったが、 5月も下旬のことなので、みんなが起きれば開け放たれるのだが、 剛ちゃんは敷居を指して「ここからこっちは僕の家だから入ってきちゃ駄目」とピシャリと襖を閉めてしまった。末弟は閉められた襖にむかって「ここは、全~部僕ん家だい」と悔しそうに叫んだという。ここまでは後日、母からの伝聞である。その後も玩具を貸せ・貸さない、取った取られたと、叫んだり泣いたり(うるさい!) 母は大所帯の食料調達を今まで以上に実家に頼ることに苦労した。その上、乱暴・大雑把な富美さんのやること・なすことが気に入らない。家具を傷つけ、炊事用具を凸凹にした。直接注意すれば言い負さると思ったのだろう。一日中独り言で不平や愚痴を言っている。 私は玄関の二畳の部屋に机を移動してもらい、そこに引き籠った。いつも苛立った雰囲気の家になってしまっていた。誰に、こんな生活を市民に強いる権利があるのだろうか小父さん夫婦は、田沢湖畔の会社の寮に住み込みの仕事が見つかったと出発して行った。武さん一家が何時、何処へ出ていったか、私は記憶していない。 薪を割るときは、薪割り台を置かず直接タタキの上で割ったため、方々割れてしまった、傷だらけのタタキを残して・・・ 季節は移り、檜葉の垣根の根元にツユクサが咲いていた。 終戦の日が迫っていた。
2019.06.20
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副題:空襲の余波で3世帯同居1945年3月10日「東京空襲を記録する会」の資料によると、米軍の爆撃機B29約300機が、上空から炎をあげて火災を起こす「焼夷(しょうい)弾」約1700トン分を2時間半、落とし続けた。現在の墨田、江東、台東区はほぼ壊滅した。東京全体で27万棟が焼けて訳100万人が家を失った。 1945/3/11朝日新聞空襲警報が頻繁に発令されるようになった。何度も弟たちと防空壕に入った。狭い空間の雰囲気にワクワクするような気もした。浦和は爆撃の目的地ではないと父が言うので、ときどき布団から起き上がっては、『怖いものみたさ』で。入口から、代わる代わる夜空を飛ぶB29を見上げた。赤羽の高射砲陣地からの探照灯(サーチライト)が交錯しては交わり、ひときは明るい菱形を作る。オレンジ色の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて神秘的にさえ見えた。高射砲の発射音が聞こえるが、敵機の高度には届かなかった。「今夜は風が無いから、そんなには燃え広がらないだろうと思っていても、大量の焼夷(しょうい)弾により火災が発生すると、上昇気流が起こり、風を起こし被害が拡大するのだった。東京の被害の悲惨さは、9才の私にも理解できた。 地下壕で死亡する人々が続出した。との悲劇が生まれていたことを知ったのは、ずっと後のことだ。 被災地地図 焼け跡 何故こんなに」大勢の人が??? 背景にはこんな記事が??? 我が家は被災しなかったが、東京や川崎で被災した親戚の二家族が同居することになり、11人の大所帯となった。http://historyjapan.org/great-tokyo-air-raid-2第2次世界大戦中,1945年3月10日のアメリカ軍による東京の下町を中心とした地域に対する大規模な空襲。爆撃機ボーイングB-29を主力とするアメリカ陸軍航空隊の日本本土空襲は,マリアナ諸島に基地が完成した 1944年11月から本格化した。東京は 1945年3月10日,4月13日,5月25日の 3回にわたる大空襲を中心に前後 102回の空襲を受けた。3月10日午前0時8分から始まった空襲は,日本爆撃作戦の転機を画したもので,従来の軍事施設に対する昼間精密爆撃とは異なり,戦闘員・非戦闘員無差別の,木造家屋密集地帯に対する夜間焼夷弾爆撃であった。爆撃機約 300機が来襲し,約1700tの焼夷弾を投下,10日早暁にかけて大規模な火災による旋風が発生し,東京の全建物の 4分の1が破壊された。8万人以上(一説には 10万人以上)が一夜にして焼殺され,100万人が家を失った。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典他の資料では当日は風が強く、日本のレーダーをかいくぐっての低空飛行で侵入したとの記述もある。
2019.06.17
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副題:衣食住のうち住当時のポスターを検索してみた。 どんな時代にも『素敵』ないたずらが 薪・炭・練炭 住は家があれば事足りるという訳では無い。 人間は生きていくには火が不可欠だ。 毎年、祖母の手配で、薪が大八車で運び込まれ、縁の下に詰め込まれていたが、 自前で補給することが難しくなった。 買いだめして、物置の屋根まで積み上げられていた炭俵や練炭の袋も、 徐々に数を減らしていき、いつ無くなってしまうか、いつ配給があるのか分らなかった。きっと、軍需工場の燃料に廻されたのだろう。お風呂を焚く回数が減った。 風呂桶に水を張っておき、父の帰りの早かった日に薪をくべる。 追い炊きをしないために、夕飯が終わると、間をおかず家族が次々と入浴する。 父と末弟。母と上の弟。叔母。私。 「お炊事は、なるべく、1日に練炭1個で間に合わせるようにしましょうよ」 母と叔母の会話が聞こえた。炊事をしない時間は、大薬缶に湯を沸かしていた。寒い時期は、湯たんぽの湯として入れかえ、押入れの布団の間に入れておく。寝るときには布団は温まっていて、一石二鳥。葉物類を茹でる時にも、この湯が利用された。火傷の危険を防止するため、 座敷と台所の間に、仕切り戸がつけられ、子どもは台所に出入禁止。練炭コンロの回りも柵で囲まれた。 各家の門の脇には、防火用水が置かれるようになった。 空襲時の焼夷弾投下の初期消火のためと言われた。 コンクリート製の物もあったようだが、多くの家はドラム缶で間に合わせた。 傍らには、ドラム缶の水が少なくなったとき、底まで届くように 取っ手に縄を結びつけたバケツを置いておく。 この用水が蚊の格好の繁殖場所になった。 容器に蓋をすれば、いくらか防げたはずなのだが、不思議なことに蓋をしている家はなかった。消火活動が遅れると「お達し」でもあったのだろうか? 覗き込んでいると、ボウフラが尾を縮めたり伸ばしたりしながら、 クネクネと水面に浮き上がってきて、次々と羽化して、蚊になって 飛び立っていく。殺虫剤などなかった頃だ。早々と蚊帳を吊ってもぐり込むしかない。 「蚊帳の裾をパタパタしてから、入りなさいよ」と、母は言うが、 幼い弟達は、力は弱く、おまけに面白半分に出たり入ったりを繰り返すから、 何匹かは必ず蚊帳の中に入ってしまう。 夜中に「ブーン」と耳元で羽音がして、両手で潰そうとしても上手くいかない。 足や腕など、羽音が聞こえないところに飛んできた蚊に、刺され放題。 朝になると、何箇所も赤く腫れていた。 首尾よく潰せた蚊は、動きが鈍くなるほど、血を吸い取っていたからだ。
2019.06.13
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副題:衣食住のうち食イナゴ 芋づる 芋がら(ずいき) 食料も全て配給になった。米不足は慢性的で、麦・ジャガイモ。さつま芋・高粱でカサ増しし、さつま芋の蔓まで食した。 高粱はさすがに鶏の餌にまわすしか無かった。代用食とはじゃが芋・さつま芋・かぼちゃなどを蒸して一食とすることである。すいとん汁は、今、良質の小麦粉で作って、美味しく食べられるが、質の悪いゴソゴソした粉では、お世辞にも美味しいとは言えなかった。近所の家々の花壇は『家庭菜園』になった。我が家では、祖母の伝手で鶏を飼って卵を蛋白源にした。庭の片隅の鶏小屋は父の手作りだった。蛋白源には、いなごが仲間入りした。「大切なお米を食い荒らす悪い虫です」「栄養がたくさんあります」と言われ、イナゴ取りには何度も行った。当時、農薬などはなく、害虫駆除は、人の手で行われていた。これも『銃後の協力』なのだ。収穫目前の田んぼは、水を落としていたのか、長靴を履いた記憶はなく、下駄履きで行ったような気がする。稲穂という稲穂に、イナゴが群がるように止まっていた。竹筒に布袋を結わえ付けたものを持って、捕ったイナゴ入れていく。 袋がいっぱいになるのに、そう時間はかからなかった。とり逃がすとイナゴは、初秋の秋空に飛び立っていった。 翌日の夕飯に、イナゴを茹でて甘辛く煮付けたものが出た。 羽と飛び足はもいであるものの、イナゴの形はそのまま残っていて、何だか気味が悪い。口に入れると、足のギザギザが喉に刺さる感じだった。 いもがらは、里芋の茎のことで、ズイキとも呼ばれた。幼い頃は、従弟と葉を次々に揺らしながら畑の中を歩き、葉の上にたまっている水滴をどこまで飛ばせるか競ったものだった。ずいきはずっと食されてきた。 母も食べ慣れていたらしく、美味しい味付けだった。 さつま芋を掘り起こしたあとの蔓は、乾燥させたものを水で戻し、芋蔓雑炊になった。調理法が悪かったのか、硬かったし土の匂いがした。これが出された日はゲンナリだった。 やむなく食べていた食材だが、今ではイナゴは佃煮。芋づるは、おひたしやキンピラ。 ずいきは、煮物・酢の物として売られ食べられているようだ。格段に美味しくなっていることだろう。
2019.06.08
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副題:衣食住のうち衣戦況が悪化してくると全ての物資が配給制となっていた。衣料切符が配布された。 が、切符で買える生地はスフと呼ばれた粗悪品で、服に仕立てても着られるような代物ではなかった。男性は国民服、女性は標準服が推奨された。 標準服に関する記述:昭和17年(1942年)に、女性の標準服が制定される。 ある程度成功した男子の国民服と違って、女性の標準服は、結局模索に終わった。 袂を切った和服と、もんぺの組み合わせであった。 婦人標準服を定めた目的の一つは、材料の布を節約することだった。 要するに家にある手持ちの和服を仕立て直して、物資不足を補わせようという政策であった。映画「母べえ」では、吉永小百合さんが、昭和16年の開戦の日には、標準服を着用していたが、奨励され始めたのは、2年後位からではなかっただろうか? 母と叔母は標準服は着なかった。父が探してくる生地で洋裁が出来る人にブラウスやズボンを頼んでいた。 私には、父の従姉の娘さんのお下がりが送られて来た。 母は、単なる美意識から、着たくないと思っていたのかも知れないが、 父には、反戦・反骨の精神があったのかも知れないと思う。弟達に「大きくなったら、兵隊さんになれ」とは、決して言わなかったから… 父が国民服を着る決心をしたのは、終戦の半年前くらいだったと記憶している。 「いい生地ね。どこで買ったの」とびきり上等な生地に、母は感嘆の声を上げた。 帽子とネクタイは、銀座の「トラヤ」と「田屋」と決めていたお洒落好きの父。 この生地を出入りの仕立て屋さんに入念に仕立てさせた。 政府が統制令を敷いても、必ず統制品や禁制品の横流しが行われるのは、洋の東西を問わないらしい。ツテをたどって、それらを手にいれるのは、ささやかな庶民の知恵であり、抵抗でもあるのだろう。男性用・婦人用とも着用が義務付けられたものではなかったのが救いと言えるのかも知れない。 物資不足が深刻になり始めると、いろいろな物を手作りした。 手始めが鼻緒だ。通学用のズックなどは、とうに品切れで、 学校には下駄履きで行くようになっていたが、それでも、オイソレとは買えない。 家でも学校でも、四六時中、下駄を履いていれば、すり減るのも早い。 まず「歯継屋」さんで、すり減った下駄の歯を足してもらう。次に 鼻緒を父のネクタイを再利用して作る。ネクタイを鼻緒の幅に切って縫い、表に返す。芯は麻紐で、表地と芯の間には、薄く綿が入っていたような気がする。母が鼻緒をすげる手さばきも、回を重ねると鮮やかになっていった。お洒落な鼻緒の下駄は自慢だった。 下駄となれば、親指と他の指が割れていなくては履けない。 そして、足袋が必需品となった。これも手作りした。 掛布団や、かいまきの襟の別珍と呼ばれる綿ビロードが表地。家族用、客用を問わず、掛け布団やかいまきの襟がはがされた。 弟達は、黒い別珍。叔母と私の分は、えんじ色の別珍で作った。 そして、母は何処からか、紺色の別珍を調達してきた。裏地は父のワイシャツや、小さくなった私の服など。底布は帯芯を利用した。こはぜは、破れた足袋から大事に取っておいたものを使う。 「ここが一番たいへんなのよ。」とは、底布を縫い合わせるときだ。布が厚くて、針がなかなか通らないようだった。 足袋型紙 難解…指股・踵の丸みサイズは、「文」と言った。当時の私は7文前後だったと思う。 母は、父の粋な縞模様の丹前から、自分と弟達用に。叔母と私用には叔母が10代のときに着た銘仙の着物から、防空頭巾を作った。丹前の中綿も、そのまま利用された。銘仙は、今、時代を超え、再び復刻されるような、「色鮮やかさと大胆な模様」が特徴の絹織物だが、用途は普段着で、薀蓄を言わせてもらうと、お手伝いさんの一か月分のお給料が、銘仙1反分と、ほぼ同じだったそうだ。母と叔母は、日常は洋服を着ていたが、和服を楽しむ日もあったのだろう。 頭巾は通学のとき持参する。結び紐のところで、二つ折りにして、肩から斜めがけにして登校した。 防空頭巾は、空襲時に火災や落下物などから主に頭部を保護するためと、 頭髪に火がつくことを防ぐために作られた物で、特に女性や子供に着用された。 布地・綿入りのため、完全に火を防ぐことは困難だったので、水に濡らしてから着用した例もあったという。 しかし、空襲の猛火の中、命を守ってくれるほどの防具にはならなかった。 頭巾には「名札」は必ず縫いつけ、内側に「お守り」を縫い付けた人もいた。 頭巾を被って逃げ回らずに済んだ私は幸運だったが、失われた多くの命に合掌。
2019.05.30
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副題;荷物の疎開疎開=空襲や火災などによる損害をすくなくするため、都市部の住民や産業を田舎へと移動(避難)させること。 翌日、学校から帰ると、家の中は文字通り「とっ散らかって」いた。母と叔母さんは、預けるものと、家に残す物の整理に追われていたらしい。 夕方、二人の男の人が、荷物を引き取りに荷車を引いてやって来た。 燃料不足と、非常時といわれる時代に、個人の利益のためにトラックを使うことなど許される筈もなく、人力に頼るほかなかったのだ。 父が下戸だったので、取り置きしていた配給のお酒を渡しながら、 「家に帰ってから飲んでください。お宅の方が、おつまみも上等でしょうから」 と母は言った。 男手と言っても、若者は徴兵されている人が多くなっていて、 手伝ってくれたのは、中年の人たちだった。 桐箪笥は、1棹が三段に分かれているので、1回に2段、中身を入れたまま、何とか荷車まで運ぶことが出来た。「重い物のから順に出しますから、蔵に積み重ねていってください」 雛人形、5月人形を積み込むときには 「来年は、お雛様を飾ること、諦めなくてはね」と呟いた。 最後の日に、唐草模様の大風呂敷に包んだ客用の布団を渡してから誰にともなく「これで、トミさんが来ても、断る口実が出来たわ。食べさせることは、ともかく焼け出されたら、連れてにげるには、足手まといになるし、万が一なんて時は、あのお嫁さんに何て言われるか分ったもんじゃないものね」嫁姑喧嘩をしては姑のトミおばあさんのほうが家出してきて、半年は我が家に居候を決め込む父の親戚のおばあさんのことを話題にした。のちに『あのお嫁さん』の夫;トミおばあさんの息子一家が、世田谷で罹災して、一部屋を貸すことになり、私たちを騒動に巻き込むことになろうとは・・・
2019.05.23
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副題:防空壕この時期、私は両親と弟二人、叔母(父の妹)の6人家族で浦和(現さいたま市浦和区)に住んでいて、母の実家が4キロ離れた郊外にあると言う環境だった。防空壕を掘れって、棟梁(伯父・母の長兄)に頼まれた」秋の日曜日3人の男の人たちが来た。父が「この辺にお願いしようか」と、庭の裏木戸に近い一角に決まった。奥の方に作ると、家が焼けてきた場合、道に出て逃げるのが困難になるとの判断だったと思う。まず四角い穴が掘られた。敷布団が2枚敷けるほどの広さで、 大人が座っても頭が着かない深さまで掘り下げられた。 杭と板で土留めをし、天井になるところは、丸太や角材などを渡し、 厚い板を敷いて掘り出した土が被せられた。、 天井の端に蝶番をつけ、人一人が出入りできる出入口を作ってくれた。これは『防空壕』と呼ばれた。(引用 防空壕内部のイメージ) その後、人命軽視のこんな『通牒』が出された。夕方になって、伯父が様子を見に来た。出来栄えをざっと見てから 「ばあさんが、本家の蔵に荷物預かってもらえるように頼んだ。 まいんち(毎日)、仕事帰りに人を寄越すから、少しずつ運べ」と告げ、 みんなを連れて帰っていった。 それから間もなく、空襲警報が頻繁に発令されるようになった。『警戒警報発令』となると、父と叔母は、防火要員として家に残り、母は弟二人を乳母車(ベビーカー₎に乗せ私と4人『田舎』と呼んでいた母の実家に避難して、そのまま泊まり、翌朝、学令の私だけを、祖父が自転車で家に送ってくれるのだが、母たちは午後家に戻るので、夜にはまた避難する日々だった。『警戒警報』からすぐに空襲警報になり、避難する時間がなかったとき何度か母と弟達と防空壕に入った。 いつもと違う雰囲気に、ワクワクするような気もした。 浦和は爆撃の目的地ではないと父が言うので、時々布団から起き上がっては、 「怖いもの見たさ」で、入り口を開けて、姉弟かわるがわる夜空を飛ぶB29を見上げた。 赤羽(東京都北区)の高射砲陣地からの探照灯(サーチライト)が、交錯しては交わり、夜空に、ひときわ明るい菱形を作る。オレンジ色の光の中に捉えられたB29は、銀色に輝いて神秘的にさえ見えた。 高射砲の発射音が聞こえるが、敵機の高さには届かなかった。 2才の末弟も、一度でその名を覚え、回らぬ舌で「ビーニージーク」と言った。東京の空襲被害の悲惨さは9才の私でも想像できた。大量の焼夷弾によって、広範囲の都市爆撃が行われるようになってからは多分公的に作られた地下壕は、防空壕の大規模なものだったと思うのだが安全と信じて避難した地下壕で焼死した人々が続出した悲劇が生まれていたことを知ったのは、ずっと後のことだった。
2019.05.21
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3年生になると、男女別に組替えされ、女子だけの組になった。級長副級長も選挙ではなく先生の任命で決められた。『選挙』と言うものがあることさえ知らなかった。『ほしがりません。勝つまでは』の標語のもと、生活も困窮していった。秋も深くなった頃から、東京が空襲を受けるようになった。 朝、登校しても、10時頃には警戒警報が出て、一旦帰宅する日が多くなった。昼間から空襲警報が出されることは少なかった。学校が指定した時間までに、警報解除になれば、再登校し、警報が続行されていれば、その日は休校になる。 「解除にならない方がいいね」などと、気楽な会話を交わしながら下校した。 『東部軍管区情報。南方海上より敵らしき目標、本土に近接しつつあり』 その後【目標】は『房総半島南方海上を旋回後、洋上はるかに遁走した」と警戒警報解除。朝の警報時に飛来する敵機は偵察のためで、夜になると編隊を組んだB29が大挙飛来『空襲警報』発令となる。そんな毎日だから、寝るときは、着ていたものを丁寧に畳んで、枕元に置いた。下から防空頭巾次に足袋。脱いだ服を順に積み重ねる。目をつぶって、今度は逆に、積み重ねて上にある下着から着はじめる。 「もっと早くして。1分で着ないとだめ」母の前で「脱いでは着る」練習ををくりかえした。 燈火管制下で、豆電球に覆いをかぶせただでさえ薄暗いのに、警戒警報が発令されるとそれすらも消灯しなければならなかった。まさに暗やみだ。目を閉じて、着替えの練習したのは、暗やみを想定してのことだった。玄関には家族の履物が大きい順に並べられ、暗くても迷うことがないように、毎晩準備していた。警戒警報…警戒を必要とする知らせ。特に、戦時下で、敵機の空襲のおそれがある場合などにサイレンで知らされた。 被弾してガラスが散乱するのを防ぐため窓に目張りをした。
2019.05.17
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年号が令和になって一週間になります。退位された上皇は平成が戦争のない時代でよかったとコメントされました。1945年8月に終戦になり、疎開先から皇居に戻られたとき焼け野原になった東京を見て、戦争の悲惨さを実感されたことによると言われています。「平和」という言葉を上皇は、在位中から度々口にされていらっしゃいました。戦争の悲惨さを語り継ぐことは、経験者の責務なのでしょうが、終戦時上皇は6年生、上皇后は5年生、私は4年生でした。5才下の弟には、もう殆ど記憶がないそうです。私たちが語り継げる最後の年代なのでしょう。当時はそれが「当たり前」と思って暮らしていましたが、戦争は従軍した兵士ばかりでなく、国民全体に苦しみを強要したか、理不尽さを強いられていたと年を経て感じるようになりました。10年も前に自分史を書くために別のブログに綴ったものから、抜粋・加筆して、戦争中の生活を何回か書きたいと思います。今後掲載予定の画像 肩掛けして通学 男性用標準服 女性用標準服。和服をした防空頭巾 仕立て直して作った。空襲時に飛来した爆撃機
2019.05.08
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