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2013年08月21日
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カテゴリ: きりぎりす
 崇徳院は、讃岐に配流されてから八年後の長寛二年に、讃岐の配所で亡くなった。

 その死に様は、あの母君譲りの美貌と優れた歌の才には相応しからぬ、恐ろしくもあさましいものであった。

 崇徳院は京への帰還を許されず、それならせめて後世の菩提を祈ろうと、三年もかけて自らの血で大乗経を書写したという。だが、その経を都の然るべき寺で供養するよう願ったところ、そんな切なる小さな要望ですら無情に拒否された。院はあまりの仕打ちに憤激し、生きながら天狗の姿になると、自分の舌先を噛み切って、その大乗経に国家滅亡の誓いを血書したと伝えられている。

 そんな崇徳院の呪いは、今のところはまだ咒力を発揮してはいないようだ。

 崇徳院の死に先立つ平治元年、藤原信頼と源義朝の軍勢が、後白河院の三条烏丸御所を襲って炎上させた。信頼と対立していた信西入道は、御所から辛うじて脱出したものの逃亡中に自殺し、その首は謀反人として梟首(注)された。

 ところが、それから一月も経たぬ間に、今度はその信頼が二条帝を擁した藤原公教方から謀反人に追いやられたのである。六条河原で始まった合戦の結果、信頼は捕えられて斬首され、信頼方の主力であった源義朝は逃亡先の尾張で討ち取られた。

 保元の乱の時、父である源為義と対立して後白河方についた源義朝は、その後上手く立ち回って一旦は河内源氏の勢力を盛り返したものの、結局は父と同じように敗残の身となった。

 今、河内源氏の主流で生き残っているのは、義朝の子で伊豆へ配流されている源頼朝くらいであろうか。


*注=きょうしゅ。さらし首のこと。


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最終更新日  2013年08月21日 15時11分05秒
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