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無所住心が身についたら、次の段階として変化に対応するということを身につけたいものです。小泉元首相は平成13年の所信表明演説の中で次のように述べています。私は変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」という考えを示したといわれています。森田先生は、「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先で鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固着することがないからだ。」
2013.02.11
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今日NHKである番組です。お勧めします。3回に分けて放送されましたが、今日2回目の再放送と3回目が放送されます。これはかって一世を風靡した日本の大手家電メーカーが、中国などに押されて倒産してゆく過程を描いたフィクションの物語です。しかしソニーやパナソニックなどの現実を知っているものからすると決してフィクションではなく、ドキュメント物語のように思います。森田との関連では、世界経済が変化流動しているときに、自ら変化対応しないで、旧態依然として過去の栄光にしがみついていることは、破滅を意味するということです。一つのことにとらわれると、身の回りに起きる変化にはとても対応できません。それがいかに神経症という悲劇を生みだしているのかを考えてみてください。話は変わりますが、ノキアという携帯端末の会社があります。今の業績は知りませんが、この会社はもとは木材業の会社だったということです。変化に応じて業態転換したのです。そして一国の経済を左右するほどの会社になったということです。
2013.02.09
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柔順と盲従は大違いです。20歳の水谷先生が入院中の時、森田先生が、「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」といわれた。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前に頭を下げた。森田先生は苦笑いしていわれた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気でぐるぐるまわりをしただろう。」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、ほんとうに柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行するといっても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない。」森田先生は意に沿わないながらも、運命に従って力を尽くすことを境遇に柔順といっておられます。盲従というのは意に沿わないのを押し殺してしまうことです。押し殺す必要はないのです。むしろ反発して心の中は煮えかえるような気持を持ったまま、運命に従う。これが大事なのです。これは精神拮抗作用のことを説明しておられます。精神拮抗作用は真ん中ということではありません。どちらか一方に偏ってしまうことがまずいいのです。状況に応じて右へ行ったり左へ行ったりすることがよいのです。
2013.02.09
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外国人は人と同じだということに悩む。人と違うことを喜ぶという。それに対して日本人は、人と違うことを恐れる。人と同じか、人より少し上ということで安心する。この違いはどう理解したらよいのだろう。外国人は、人と違うのは個性と捉える。長所を持っているととらえている。そして自分にあって他の人にはないものを活かして勝負してゆく。長所をアピールして生きていく。それこそが競争社会で生き延びる道であるという気持ちがある。日本人は、人と比べて劣るところがあると、人からダメ人間扱いされ、社会から見捨てられてしまう。社会から落ちこぼれてしまうと、孤立してしまう。孤立してしまうと人間は生き抜いてゆくことはできない。だから社会から受け入れられることが、人生では一番大事だと思っている。だから人と比べて劣っている、欠点がある、ミスをするなどということは決してあってはならないのである。だからミスは隠す。失敗をするとごまかす。欠点は取り繕うのだが、そういうことをすればするほど、他人に胡散臭がられ、敬遠されるのだが、本人は全く気がついていない。この悪循環を断ち切る道が森田理論の中にあります。そもそも我々は人と比較する時、他人の長所と自分の短所を比べています。これは森田でいう調和、バランスをとるということから考えると片手落ちです。人と比べるのは人間としての宿命のようなものだから、これはどうしようもない。しかし他人の長所と自分の短所を比較するのだったら、反対の面である自分の長所と他人の短所も比較検討すべきだと思います。思考のバランスをとるということです。自分には長所はないと思っておられるかもしれません。森田では10の短所がある人は、必ず10の長所があるといいます。世の中の出来事はすべてバランスがとれているというのです。自分のすぐれた特徴や他人にはなくて自分にはあるものをはっきりとみつけることが大切です。それがはっきりすれば、次には欠点やミスや失敗は大変気になるでしょうが、それにはできるだけ手をつけないで、自分の持っているものや長所をいかに活かしていくかということに全精力を傾けていくこと。一つには神経質の性格特徴で学習しますが、一見ダメなようにみえるこの性格は実は宝の山を持っているようなものです。この性格特徴を活かしていくことです。こうゆう態度を森田理論学習で学んでいってほしいものです。
2013.02.05
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神経質同士は、お互いその心持が分かり、心の底まで見通しているから、お互いその欠点を挙げあって、相手にばかりそれを改良させようとする。グジグジといつまでも、しつこく言い争いをする。神経質の人は気の軽い大まかな人と結婚するのがよい。すると気の軽い人は、あの人はどうせ気難しがり屋だからといって大目に許し、また神経質の方では、どうせあれには、難しいことを言っても分からないといって、あまりやかましくいわなくなる。お互いに許しあうから円満になる。私の知り合いに浪費癖のある人がいた。ほしいものがあれば後先考えずすぐにローンをくむ。妻はそんなことばかり繰り返す夫に対して、反対して止めに入るといいのだが、そこの奥さんはすぐに夫に同調して「買おう買おう」というのである。これでは家計が破たんするのは目に見えている。にらみをきかす妻と結婚しておくべきだった。終にこの夫婦は家も手放し自己破産した。森田先生は「結婚についても、最も大切なことは調和ということである。」といっている。調和というのはバランス、精神拮抗作用のことだが、森田先生は宇宙から説き起こして調和ということを大切にしていた。私も調和というのは森田理論学習中の大事なポイントであると思う。不安と欲望の単元は調和がメインテーマである。森田では生の欲望が強ければ不安が大きいという。神経症で苦しむ人は不安の虜となって苦しむ。生の欲望はほったらかしになる。反対に生の欲望が突っ走るとこれはこれで始末に負えない。人間にはもともと欲望がでてくれば、不安がでてきて、欲望がかってに暴走しないように制御機能としてうまい具合に働くようにできているのである。そういう仕組みが森田理論学習によって分かれば、不安に振り回されることはなくなると思う。ただしこれはかくあるべしに振り回されないときのことであって、強力なかくあるべしに振り回されている時は、そんな悠長なことは言っておれないのである。この関係もおいおい学習して理解してゆきましょう。
2013.02.02
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自分の症状がまだよくならないとき、森田先生から「少しはよくなったか」と聞かれたら、どう答えるか。まだ実際によくならないから、正直に「まだまだです。」というか。あるいは、「おかげでだいぶよくなりました」というか。谷口さんという人は、「先生がせっかく今まで治そうと骨を折られているので、全く治らないというのは気の毒だと思いますから、おかげでよくなりましたという」と答えた。森田先生は、「それでよい。それが人情である。その人情の自然から出発すれば、万事がすらすらと流れるようになる。」といわれています。ここでは森田先生は感じから出発するということを言おうとしておられます。私はもう一つ別な面があると思います。もし私に聞かれたら、一方にはまた治らないという気持ちもある。また他方そう言っては森田先生に気の毒だという気持ちもある。そこでついつい会釈笑いして、もじもじしながら、頭を掻いて口ごもるだろうと思います。要はどちらか迷うときは、無理に態度をどちらかに無理やりに決めようとするのではなく、どっちつかずの態度がよいと思います。精神拮抗作用の応用です。事実森田先生も次のように言っておられます。森田施設から退院したO君、学資の援助をしてくれた人のところへ、就職のことで、依頼に行きたいのだが、就職が遅れた理由を聞かれると困るので、なかなか行けなかった。しかしやっと正直に答えようと決心がついた。それに対して森田先生は、「答えにくいことを聞かれたら、頭を掻いて口ごもればよい」といわれています。森田先生の言葉は、何を分からせようとしての発言なのだろうと考えながら読み解くことが大事だと思います。
2013.01.26
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森田先生は精神拮抗作用とバランスについてしばしばコメントされています。免疫学の権威である安保徹医師が、免疫をつかさどる白血球のバランスが崩れることによって、ガンをはじめとするほとんどの病気は発生するのだといわれています。白血球の95パーセントは、顆粒球とリンパ球と呼ばれる細胞からできているそうです。そして顆粒球54%から60%、リンパ球35%から41%の比率になっているときバランス的に安定しており、病気にならず健康に暮らしてゆけるそうです。ガン細胞は健康な人でも毎日数千単位で作られているそうです。これを処理しているのはリンパ球です。この微妙なバランスを支えているのは自律神経ということです。自律神経にはご存知のように、交感神経と副交感神経があります。自律神経がどのように白血球の調整をしているのか。交感神経が優位になると、顆粒球が増えて働きが活発になります。副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて働きが活発になります。自律神経は私たちの意志とは無関係にコントロールされているのですが、実はストレスの影響を受けやすいという特徴があります。ストレスが多いと交感神経優位になります。人間関係や争い、気候変動、自然災害などのストレスなどにさらされると、顆粒球の割合が増えて、リンパ球の割合が減ってきます。ガンで外科的手術を受けると、途端にリンパ球が減少してきます。がんが再発した後亡くなる人が多いというのは、ガンを攻撃するリンパ球が少なくなっているということが原因の一つです。だから病気にならないために過度のストレスのないバランスのとれた生活を心がけることです。人間の寿命は125歳といわれていますから、それに向かうためには自然に沿った生き方が大事になります。安保徹先生は一般人分かりやすく免疫の話を本にされています。森田先生は筋肉の動きや宇宙の営みから調和とかバランスを論じられていますが、世の中の出来事を見てるとよくバランスの取れているものだなと思います。
2013.01.13
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森田先生曰く、「短い一生は面白く、気持よく、自分の好きなようにくらすのでなければ生きる甲斐がない。生きている価値がない」というふうに考えるのを、私は「気分本位」と名づけている。それは人生の事実や実際を無視して、ただ自分の気分を標準にして人生を判断しようとするものである。享楽主義とか耽溺主義とかいうものはそれから起こるのである。理知本位で、理想主義におちいるものがいる。この傾向の人は、人生を是非、善悪、正邪など価値的に批判し、自分の小知や小理くつできめた基準に適合しないことは一切それをやらないというふうである。理知本位は学生が時間割ばかり作り、明日から勉強しよう、明後日からしようと考えてとうとう勉強ができないでしまうようなものである。私はかねてから「自然に服従し、境遇に柔順なれ」と教えているが、自分の身分や境遇に順応して、それに素直に服従し努力するのが、私のいうところの「事実本位」の生活であり、実際主義、力行主義、本当の意味での自然主義である。二宮金次郎や中江藤樹などがそうであったように各人がそれぞれの境遇に応じて働き、不平も言わず、自分のしたい勉強をする。それは「事実本位」の心がけによってはじめてできることである。」対人恐怖の私でしたら、人に会うのがこわい。怖いから逃げてしまうのが気分本位。そんな自分を自己否定して、怖くないようにいろんな手を使ってやりくりする。これは思想の矛盾に陥り神経症になる道でした。事実本位とは、人に会うのは怖いが、必要最低限の仕事をしないと生きてゆけないので、しぶしぶ仕事に出かけてゆく。これが事実本位だと思います。
2013.01.11
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寺田和子さんは「気骨の女」という著書の中に次のように書いておられます。これは藤村トヨさんの一生を紹介したものです。森田先生は日本女子音楽体操学校の校長である藤村トヨさんに頼まれて34歳から講師をされています。無償で引き受けられました。性格は森田先生そっくりです。森田先生は陰ながら応援しておられました。森田正馬は「努力即幸福」という。生きとし生けるものは、アメーバ―から人間まで、営々刻々とその本能にそなわった最善の方法で機能を発揮している。アメーバ―が動き、白ネズミが篭のなかで車を回す。その機能の発揮を人間にたとえて、「努力」という。機能を発揮することそのものが[幸福]である。努力はすなわち幸福であり、同時に人生の目的でもある。人生の手段も努力であり、人生の実際も努力である。実際を離れた観念のやりくりでは幸福はつくれない。森田先生は、「相撲取りはその体力、学者はその智力、詩人芸術家はその感情、宗教家はその意思、みなそれぞれの個性のままに、その機能を発揮してゆくことが幸福である。欲の袋に底がないように、死ぬいまわの際までも、飽くことを知らない向上的努力、その努力なく幸福はない。」正馬は、努力しなければならない、と説くのではない。「ねばならない」とすると、努力はたちまち労苦に変わる。無邪気に遊び事と思えば、努力は感興となる。今努力しているんだという自覚もなく、せっせとなにかに取り組んでいるとき、人は幸せなのである。こうゆう話をどんどんしてゆきたいと思いますが、これらをつなぎ合わせると神経質性格を持って生まれた人の生き方がはっきりと見えてきます。でも大事なことは、頭で理解するだけではなく、それらを自分の日常生活の中に具体的に落とし込んでいくということです。そのことを、グループで学習していくことが体得の早道です。
2013.01.11
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この言葉は、「生の欲望」の発揮には、必ず「不安、恐怖」が付きまといますが、どちらに偏ってもいけない。二つの間で時と場合に合わせてバランスを取りながら前進していくという事の説明になります。森田先生のお話から説明しましょう。精神現象は常にある意向が起これば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が抑制されている。対立する純な心を、理知でもって調整することが大事である。例えば、時間がたてば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。これが純な心である。その時、今日は下痢をしているから人前で行儀を悪くすると笑われると考えるのが理知である。この純な心と理知の調整によって人はその行いが正されて、初めて理想にもかなうようになる。 今日誰かの日記に「先生に叱られて、非常に恐ろしかった」と書いてある。ちょっと見ればなんでもないが先生に対する反抗気分と不従順を表している。先生に叱られて恐ろしいのは、当然であり、人情である。この純なる心そのままであると同時に、一方には、森田先生に接近し、話を聞き、指導を受けたいという心が対立している。この恐ろしくて逃げたいと、近づいて幸福をえたいという二つの心が相対立するときに、我々の心は、微妙になり、臨機応変、最も適切になり、いわゆる不即不離の状態となるのである。神経質者の考え方というものは、先生は恐ろしいという心を否定、圧迫し、一方には近づきたいという心に、いたずらにむち打ち、勇気をつけようとして、無理な努力を工夫し、その結果は、かえって神経の働きが萎縮し、偏りたるものになる。私の場合でゆうと、呉先生は私の恩師であるから当然最も恐ろしい人であった。もちろん取り入って先生に一目置かれたいと思うことはあったが、私から積極的に働きかけるというようなことはなかった。先生がお出かけのとき、車へ同乗を頼むことはなかったが、先生の方から「誰か一緒に乗らないか」といわれるときには、蜘蛛の糸にかかった昆虫に蜘蛛が飛びつくように、決してその機会を逃すようなことはなかった。患者とともに4、5人で町を歩いていると、私は息切れがするので、きわめてノロノロと歩いているのに、患者はいつまでも、ぴったり後ろからくっついてくる。私はじれったくて「いつまでも、僕のあとへくっついて来る人の気が知れない。」といったら今度は私の方からすっかり離れてしまって5、6間の間隔をおいてソロリソロリと歩いている。私はまた私の付き添いの娘をやって「離れてしまうような気のきかないものは、なんとも仕様がない。」と言わしてやった。患者はどうしてよいかまごついてしまう。私の話が始まる。犬を連れて散歩するときに、犬は主人のそばにばかりくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰ってきて、主人の足元に絡みついてくる。これが犬の自然な心で、いわゆる不即不離の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失ないはしないかという事が気にかかるから決して離れてしまうことはない。しかるに君たちは先生の先に追い越してしまうと無礼になるという理屈にとらわれ、反対に離れてしまえばまったくよりつかない。
2013.01.10
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森田的な生き方を一言でいうと、「自然に服従し、境遇に柔順なれ」ということになります。別の言葉に言い直すと「事実唯真」「あるがまま」です。同じことです。森田では核心的な大事な考え方です。暑いときは暑い。寒いときは寒い。勉強できないときは勉強できない。負ければ悔しい。貧乏は心細い。人に軽蔑されるのは恨めしい。それがそのままの動かすべからざる事実であってなんとも仕方のないことである。どうすることもできないからそのまま我慢する。これを「自然に服従する」という。イヤなこと、苦しいことも、ことさらこれをイヤと思わず、苦しいと感じないようにしようと我情をはるのを「自然に反抗する」といいます。すると心の葛藤が起こり、思想の矛盾が起こり、強迫観念が起こり、不安心が起こる。我々は世の中の感情の事実に勝つことはできない。事実に服従するよりほかに道はない。このことを考えないで、いたずらに拙なる知識を持って、観念で都合のよいように説明し、満足を得ようとするから、迷いのうちにさまようことになる。感情の事実を受け入れ、自然に服従して生きていくことを岩田真理さんは、サーフィンにたとえて説明されています。サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものにのっているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。人生の波に乗るとは、一瞬一瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察して、その時その時で適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2013.01.10
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我々の心が最も働くときは、「無所住心」といって注意が一点に固着、集中することなく、しかも全神経があらゆる方面に常に活動して、注意の緊張があまねくゆきわたっている状態であろう。この状態にあって私たちは初めてことに触れ、物に接して、臨機応変、すぐにもっとも適切な行動でこれに対応することができる。昆虫のように、触角がピリピリしてハラハラしている状態である。電車に乗っていて吊革を持たず立っていて、少しの揺れにも倒れず本も読める。スリにも会わず、降りる駅も間違わない。また車を運転していて、音楽を聴いたり、ナビを見たりしていても、車線変更もでき、赤信号ではとまる。交差点では歩行者や自転車に乗った人にぶっつかるようなこともない。普通の人が机上論的に考えて、読書するには閑静な場所を選び、精神を集中しなければならないというのは、実際は精神がぼんやりして無意識になるのに一番都合のよい場所をわざわざ選ぶようなものである。だから、同時に多くの事物に触れて、注意が多角的に働いている時に精神は最も緊張し、したがって本もよく読めるのである。「無所住心」が体得できると、一つのことだけにこだわることがなくなり、次から次へと感情が現れては消えてゆくようになります。それは常に流動変化している自然と同調してゆくことにつながります。
2013.01.10
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感じを生みだし、育て、高めていくということです。森田先生は言います。ここでの修養の出発点は、物事に対する「感じ」を高めてゆくことである。我々は、見るもの・聞くものなにかにつけて、ちょっと心をとめていれば、必ずなにかの「感じ」がおこる。かりそめにも、これにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こって、興味がわく。これを推し進めてゆけば、そこにいくらでも進歩がある。手をだすことが億劫だと思っても、イヤイヤながら仕方なく手をだしてみる。目の前のことに手をだしてみる。部屋の掃除、風呂の掃除、靴磨きなど。そこに何かの感情が生まれる。しばらく経つとどんな感情も流れてゆく。我々はすでに起きてしまった感情はやりくりすることはできませんが、手をつけることによって新しい感情を作り出すことができます。新しい感情が次から次へと生まれてくるようになれば、新しい感情は精神活動を活発にして、一つのことにだけこだわってはおられなくなります。日常茶飯事のことに手をだすのが基本ですが、仕事や勉強、自分のやってみたと思っていること、趣味やスポーツ、芸事などに拡がってくるとよいでしょう。その際、森田先生は「ものそのものになりきる」と言います。この態度が大切です。わしは風呂を焚くときには風呂焚きになりきり、診察する時は医者になりきり、将棋をさすときには将棋さしになりきる。つまりなにをやっても全力をつくすのだ。この心構えが大切です。私の参加している集談会で、これを徹底的に生活の中に取り入れている方がおられます。普通の人が見逃すようなちょっとしたことでいろいろと工夫が生まれ、生活の喜びが感じられています。それを聞く我々もたいへん刺激を受けています。
2013.01.10
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