曹操注解 孫子の兵法

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Oct 9, 2007
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テーマ: 三国志(520)
カテゴリ: 戦略
    □謹告□

 内容はほとんど新説ばかりという、三国志ファン、特に魏ファンの皆さん待望の孟徳・曹操の少年時代から董卓の乱まで、波乱の前半生に焦点を当てた前代未聞の歴史論考です。
 ここでは正史記述から、今回の出版では活字にできない細かい時代考証や解釈論などを連載しています。


曹操9.jpg


作画・Ms.KANZAKI


■第14回■

     ★議郎・曹操の活躍 その2★

 私の想定では、この「第一回上書事件」は、高齢を理由に免職された太尉・橋玄に対する恩返しという側面と、橋玄の後で政治腐敗の極みに達していた政権そのものを掣肘する意義があったと思う。

 どちらにしても、男子がまさに生命をかけて、必死の形相で、皇帝に堂々と意見したのである。

 それなりの理由がなくてはならない。

 正史の記述を丁寧に読み直していくと、曹操は「北部尉事件」のあと、昇進して頓丘県令になったが、しばらくして身内(母方の親族)に死罪になる人間が出て、連座刑で父子ともに罷免されたということになっている。

 このことは大変に重要な知見であるので、別のところでまとめて述べることにしよう。

 したがって、この議郎就任の背景事情としては、曹操個人の復讐劇という意味合いもあったと考えていいだろう。

 こうして突然免職された後、議郎に就任するまで、曹操は故郷に帰って勉強を続けた。



 それらの書籍類も故郷に設置されたので、曹操はかなりの勉強ができたと思われる。

 曹操の主著である【兵法接要】は、この時期に書かれ、洛陽でも公開されたと想定できる。

 第一に、議郎という職務は相応の文化人を皇帝の側近にするという名目で創設された官職である。
 だから、曹操も著作を発表しておかなければならないのであるが、処女作は【兵法接要】であった。

 これは何度か書き足されて、最終的にかなり大規模になったと思われるが、最初の著作は孫子兵法と孫ビン兵法の両方から、兵術の決まり手を法則化し、歴史上のケーススタディにつき合わせたものであった。

 それで兵法の要綱と現実の接点、【接要】というのである。

 その出来映えを高く評価したのが、議郎の何伯求である。

 彼は正史にも、橋玄とともに、曹操を評価した人物として登場する。

 そして議郎の同僚として、曹操の洛陽復帰のキッカケをつくることになった。

 曹操の洛陽復帰は、なかなか周到な準備があったに違いない。

 そこで考えられるのが、このタイミングでの政略結婚。。。もちろん相手は権力者の令嬢、劉氏である。



 しかし、三国志研究と自称するもの、どのようにこの事情を理解してきたというのだろうか。
 本当に文学研究者ってのはバカぞろいだと思うねえ。





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Last updated  Oct 12, 2007 12:26:20 AM
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