出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年05月08日
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 そういう環境のハンデにも関わらず、八郎は行動の人で人との議論を重視した。八郎の行動力とコミニュケーション力は身分や組織の不足を補ったろう。視察・見聞のため全国を旅して回ったし、行く先々で知ったり紹介された多くの幕末の志士に会い、自分から出向いて議論も深めた。剣術試合もしたようだ。今と違いテレビなどがなかった時代なので、言葉の壁もあったと思う。言葉のなまりの修正は現代でもなかなかむずかしい。江戸に早く出たとは言え、庄内弁混じりの言葉だったことは想像に難くない。よくコミニュケーションができたと思うし、それを乗り越えて九州にまで遊説にいくというバイタリティーがすごい。
 清河塾は、そんな八郎が立てた江戸唯一の文武両道の塾(文武指南所)だった。1854年(安元)、24才で江戸神田の三河町に塾を開いたときの塾の看板は「経学・文章指南 清河八郎」、29才で「北辰一刀流兵法免許」を授けられてからの神田お玉が池での塾の看板は“「経学・文章・書・剣指南 清河八郎」”になった。清河塾には学生以外に多くの志士が集い、今でいう反政府組織のアジトのような場所になっていった。神田お玉が池の清河塾の家の裏の土蔵が会合の場所だったとされる。
清河八郎の学識と威容に心をひかれて清河塾を訪ねる士は、時局の緊迫につれて次第に多くなっていった。薩摩藩の樋渡八兵衛、伊牟田尚平、幕臣の山岡鉄太郎もその1人だった。
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 1860年(文2)2月、虎尾の会(尊王攘夷党)が結成される。発起人は山岡鉄太郎と言われる。今で言う、秘密結社、または(命がけの)同士会である。「虎尾」とは「書経」の「心の憂苦は虎尾を踏み、春氷を渡るがごとし」より起った言葉だそうだ。“国を守るためなら「虎の尾」を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていた。清河塾に集まった虎尾の会の人達は、志が高く幕府や薩摩など組織の枠を超えた人達の集まりだった。自分の考えを信じて、日本の事を考えていた人達とも言える。学才や剣術で名を上げた人や、幕末、明治でも活躍した人が名をつらねている。時代を牽引するような個性ある人達が多い。身分は、浪人・郷士はもとより、幕臣や薩摩藩士もいた。八郎の功績にはこのような多くの人材と交流を深めたことにもある。会の結成から、政治への関わりが深くなり活動が活発になっていく。事実、この虎尾の会メンバーの幕末維新に与えた影響は大きい。
 メンバーは次のような人たちだった。(はじめの発起人の15名)
 山岡鉄太郎、松岡 万、伊牟田尚平、樋渡八兵衛、神田橋直助、益満休之助、美玉三平、安積五郎、池田徳太郎、村上俊五郎、石坂周造、北有馬太郎、西川錬造、桜山五郎、笠井伊蔵
 なぜ、1860年に虎尾の会の結成されたか?この年に起きた大事件がある。桜田門外の変(安政7/3/3)だ。桜田門外の変の時に残した八郎の日記に、“「天下の形勢、内潰(ないかい)の外(ほか)これ無く候(そうろう)」”(内部崩壊)とあり、“ほうっておいても幕府は内部からつぶれてしまうだろう。だが、幕府が自然消滅するまで待っているわけにはいかない。幕府の崩壊に日本の国民が道づれにされたのではたまったものではない“とある。この事件で受けた衝撃の強さが伝わってくる、虎尾の会の同士たちも同じような気持ちだったのだろう。虎尾の会の結成は2月とも3月末とも言われ時期ははっきりはしないが、桜田門外の変のような事件が起きても不思議ではない時代の雰囲気があったと考えていいだろう。




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最終更新日  2020年05月10日 13時43分11秒
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