出羽の国、エミシの国 ブログ

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2016年05月08日
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 虎尾の会はメンバー伊牟田らによるヒュースケン暗殺により幕府に目をつけられ始める。伊牟田らが清河塾に出入りしていたのが幕府側に知られてたからだ。虎尾の会は「横浜異人館焼打ち(焚立て)計画」を企てていた。幹部15人でまざまな話合いが行われ8月か9月に実行しようとしていた。いつの頃からかこの情報が漏れていて幕府の隠密に付け狙われていた。ある日、八郎が幕府の捕り方(幕府の役人)に町で絡まれ、その首を切ってしまう事件を起こして幕府に追われることになる。

 “無礼打ち事件”と言われるものだが、実は最近の千代田区の資料で これが事実どおりではない“でっち上げ”の可能性が出てきた。というのは、北町奉行所同心・原胤昭の「清河八郎探索記録」の内容により、「無礼討ち」があったとされる 文久元/5/20(1861/6/27)の前日(文元/5/19)にすでに八郎への逮捕状が出ているということが判明したからだ。

 八郎や虎尾の会のメンバーに目を付けていた幕府は、どうにか八郎を逮捕しようと計画した。そして、逮捕状の準備をする。逮捕状(捕縛命令)の日付は 5/19。翌日5/20に八郎の後を追いかけ、何かしら事件が起こったように見せかけ、捕まえる・・・という段取りだったと考えられる。逮捕状が実際の(無礼打ち)事件の日より前に発効されたということが、事件自体の信憑性、事実かどうかが疑わしい。幕府は政治犯としてではなく(より確実な)殺人犯として逮捕したかったのかもしれない。

 後に八郎は赦免されるのだが、簡単に赦免される背景には こういった事情があったと思われる。この事件についての八郎が書いたものがあり、それには 「・・5月中に諸方に散乱いたし、その事件(焼打ち計画のこと)をはかるべしとて(行おうとして)、諸子に談合相済みける頃、或日 一会座にいたる帰り路、無礼なるものありて血気に忍びかね、遂に一撃しけるこそ短気なれ。それよりして大事の露見と相成り、・・・」(「清河八郎」、大川周明著)とある。“一撃””とあるので、北辰一刀流の「抜刀術」のイメージだったのかもしれない。八郎は、自叙禄で無礼討ち事件を“仕合”とも書いているので、もしかしたら打合いに近いものだったとも考えられる。とにかく咄嗟、反射的な防衛だったことが読みとれる。

 さらにこの事件にいたる経緯には幕府の偵察行動があった。
 「幕府の探偵吏により、隣に住む力士の家から清河塾の土蔵の下に、小さなトンネルが掘られ、床下で虎尾の会の密談は聞き取られていた、そして、幕府はそれぞれの諸国の勇士にも探偵をつけて一時に網を張って召し捕ろうと策略していた」(石坂周造回想録))


 この事件の流れと詳細をまとめると次のようになる。
 ・・・アメリカ総領事館ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺した薩摩藩、伊牟田尚平や樋渡八兵衛は清河塾に出入りしていた。神田三河町にある清河塾の裏に土蔵があり、そこには毎日のように虎尾の会の志士が集まり謀議が行われていた。
 清河塾の一軒置いて隣に信濃屋という蕎麦屋があった。その主人の名前は宇兵衛といい、幕臣の同心の手先で十手を預かる縛吏(岡引)だった。そこから幕府の使いは時々清河塾のの土蔵の床下をもぐっては“落し掛”の位置から密談を聞いて幕府へ報告をしていた。
 5月20日、八郎は水戸藩の有志の切なる希望で両国柳橋の万八楼(当時有名な料理茶屋)で開催されたある書画会に出席した。その会は書画とは名目ばかりで内実は時局を憂える志士たちの懇談会だった。八郎は危険を察するところがあったのか気がすすまなかったが、山岡、池田、伊牟田、安積らを同道出席した。
 夕方の5時頃、水戸藩士との会合が終わり八郎ら一行は万八楼を出てお玉が池の道場へ帰るべく向かった。その途中、日本橋の甚右エ門町(現在の芳町)に差し掛かった時に、2、3人連れの職人風の男が八郎たちの前を遮って何事かありげに暴言を吐いてきた。職人風の男たちは蕎麦屋の信濃屋宇兵衛の子分たちだった。はじめは相手にしなかった。右や左に避けて通り過ぎようとしたが職人風の男たちも右により左によって八郎たちの行く手を遮る。
 そして、その1人の6尺棒を持っていた男が八郎をめがけて討とうと向かってきた。すると、八郎は「無礼者!」と一喝、と同時に素早く刀を抜く手も見せずに一刀のもとに斬りすてた。その早業にそばにいた山岡も気づかなかったという。腰に帯びていた刀剣(腰間の秋水)は長さ2尺三寸八分(90.1cm)の備州の刀工集団、三原正家の作で刀の切れ味も鋭いものだった。

 首が飛んで道そばの瀬戸物屋の店先にあった展示用の陳列皿の上に落ちたという。どこに隠れていたのか待機していた捕手(とりて)が一斉に押し寄せてきた。しかし、八郎の早業を見ていたので恐れて誰も近づくことができない。八郎が前に進むと捕手が退き、八郎が退くと捕手が前に進んだ。集まったやじ馬からドッと笑いが起ったという。幸いに夕暮れ時で辺りが暗くなり、八郎たち一行はバラバラに夜の街に消えた。

 そして、その1人の6尺棒を持っていた男が八郎をめがけて討とうと向かってきた。すると、八郎は「無礼者!」と一喝、と同時に素早く刀を抜く手も見せずに一刀のもとに斬りすてた。その早業にそばにいた山岡も気づかなかったという。腰に帯びていた刀剣(腰間の秋水)は長さ2尺三寸八分(90.1cm)の備州の刀工集団、三原正家の作で刀の切れ味も鋭いものだった。
 首が飛んで道そばの瀬戸物屋の店先にあった展示用の陳列皿の上に落ちたという。どこに隠れていたのか待機していた捕手(とりて)が一斉に押し寄せてきた。しかし、八郎の早業を見ていたので恐れて誰も近づくことができない。八郎が前に進むと捕手が退き、八郎が退くと捕手が前に進んだ。集まったやじ馬からドッと笑いが起ったという。幸いに夕暮れ時で辺りが暗くなり、八郎たち一行はバラバラに夜の街に消えた。
 刀で切られた“首が飛んだ”というのはかなりフィクションぽい。相手は首をはねられなくても相当のけがをしたかもしれない。切れ味のするどい刃物は切ったことがわからないくらいになるので切ったものが飛んだりすることはなく静かにその場に落ちるだけだろう。しかし、話の流れからはその時の雰囲気が伝わる。
 八郎の周りには他にも不審なことがあって、清河塾が2度(1度は地震)も火事にあっていた。それは偶然ではなく幕府によるものもあったのではないかと地元では考えられ私もそう聞かされてきた。そのように考えれば清河塾はかなり前から幕府にマークされていたことになる。幕府から追われているという危険を察知した八郎はうまく逃げて捕まらなかったのだが、これを理由に八郎の妻や会の同士が捕まり牢獄で亡くなる者が多く出てしまう。八郎は、なんとかこの無礼討ち事件から逃れた後、難苦の逃亡(潜中)生活に入る。


 無礼打ち事件は八郎の剣術のすごさを物語るエピソードでもあった(詳細は「回天の門」参照)。しかし、偶然の出来事ではなく八郎が政治犯としてつけ狙われていた結果の出来事だった。



 ※このつづき、"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版
 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。
👉 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版





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最終更新日  2020年05月10日 13時43分44秒
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