GOAL通信

GOAL通信

2006.10.09
XML
カテゴリ: 教育全般




 意見や感想は別に構わないが、その意見が信条になり、指導における方法論にまで展開してしまうのはやや危険ではないかと、多くの記事を拝見して感じた。

 我々塾の指導者は直接生徒に教授していく立場にあり、一介の傍観者とは違う。

 どう思うかは勝手だ。

 だが、その思い込みのベクトルがどうであれ、生徒に向けられ大きな影響を与えるのだということを日々認識していく必要がある。



 私は自身を、基本的に「国語は簡単には語れない」というスタンスに置いている。

 国語は言語であり、わが日本においては「日本語」を意味する。

 国語力という大上段のテーマならば、その日本語を細分化し、緻密な論拠をもって明文化していく必要があろう。



 指導要領、白書、学校や塾や通信や家庭教師などの指導現場における状況なども不可欠だ。

 そんな資料と余力がどこにあるか。

 私には到底できない。



 ブログで語られている国語力とは、読解力や語彙力の低下をベースに、表現や文章の力を含んだ、いわゆるペーパーテストにおける総括的な国語の力の比較を指しているのだろう。

 ならばそれは塾を中心に語られている比較であり、国語力の根本からずれている。

 家庭を軸にした場合、学校を軸にした場合、友人との間の言語世界、メールやPCにおけるやりとり、社会生活上のコミュニケーション、いずれも一つの基準で語ることはできないはずだ。

 ペーパーテストの結果分析ならば、それは「国語科の得点力」であり「国語力」ではない。


 国語の点が悪い生徒でも社会生活は営める。

 不特定の人と日々会話を交わし、街に出て行動を考え、書店で立ち読みし、活字や音声で様々な国語に触れながら生活をこなしている。

 テストには点を取らせないための問いや、ひっかけ、あるいは難解な設問が必ず存在する。

 得点の差は、それらをカバーできるかどうか、要するに鍛錬の質と量で明確に出てくる。




 だがそれは考えてみれば、設問のパターンを熟知し、スコアを上げるための「慣れ」を身に付けることであって、国語力そのものを上げることではない。

 もちろん熟知し身に付けるためには、基礎となる語彙力は必要だが、それは「知識」として区分すべき性質のものだろう。



 本来の「国語力」とは全員が潜在的に持っているものだ。

 それは感性や感覚、より抽象的な概念などにも潜んでいる。

 絵画や映像などにも国語があるのである。




 生徒の表現は多種多様で、中には素晴らしい感覚の解答を書きなぐってくる者がいた。

 思わず唸る解答に○をあげたいと何度も思ったが、採点マニュアルにそぐわなければ減点であり、無得点になるのだ。

 私はそれらの光る解答にこそ、むしろ強い「国語」の力を感じる。

 実際に試されているのは、分析力、観察力、即断力であり、要領である。

 そう考えると、得点を上げるための視点を学び、方法論を身に付けることは、一概に「国語力」を磨くとは言い切れないのではないか。

 私は採点しながら、評価の限界を感じたものだ。



 絵画を見てどういう感想を持ち、どういう言語で表現できるか。

 これこそまさに「国語力」であろう。

 その感想には各人の経験や生活、多岐に渡る知識がにじみ出てくるだろう。

 色々な角度からの意見を拾い、概念を全員で包括していく。

 そういう生命感ある感覚を育てていくのが、理想の国語教育なのだろうと思う。



 「これはこう答えなければダメ」


 授業や試験を通じ、子供たちは長期に渡り一方的な断定型の教育を受けてきた。

 答えは一つではない。

 指導側も分かってはいても、切り出せないもどかしさがあった。

 抽象はより具体にしなければならない。もちろん、壮大なテーマで討論する時間もない。

 それがいま置かれている学校の技量であり、教科書の限界であろうと思う。



 今の教科書は作品主体であるが、もっと言語的要素を盛り込むべきだと感じる。

 年齢を重ね、やがて社会生活を営む上で有用な知恵と技術を与えていく。

 個性に沿ったセンスを磨くことも必要だ。

 高校生になり、新聞が読めない、敬語を知らない、果ては初対面の人とコミュニケーションが持てない。

 こういった若者が増えてきている原因の一つは、味気ない活字読解=国語という植え付けを繰り返して来たことにある。

 書き記したものも細かく矯正され、そこには○と×はあっても△はなかった。

 だから国語というと構えてしまい、書くことができない。まとめられない。

 国語とはそういうものではなく、もっとラフなイメージの愉悦空間なのだということを再認識させることが大切だろう。



 個を重んじる傾向にあるならば、是非の導き方も慎重にせねばならない。

 道徳に沿った判断が正しい。これは解る。

 だが本人の感覚による意見に対し、何が是で何が非なのか。

 明確なマニュアルが存在しない以上、大変難しい課題が潜んでいる。


 国語はすべての学問の基礎になる。

 と同時に、社会生活の土台でもある。

 家庭内で言葉を磨くことはいくらでも出来るだろう。

 塾の限界は、国語を根本から説いていく時間がないことであり、結局得点をターゲットに置いた演習と技術を与えることに終始せざるを得ない点だ。

 家庭では読書も会話もどんどんすればいい。


 国語と意識せずに、豊富な体験と言葉のシャワーを浴びること。

 「国語力」というものはその時間とともに、じっくり培われていくものだと思う。

 国語の力が低下しているとみな嘆くが、我々大人の波長に合わない点を確認し合っているだけではないのか。

 今の子供たちの言語、それはそれで素晴らしいではないか。

 最近そう思えてきた。

 そしてそこから始めてみようと思っている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2006.10.09 16:19:19


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

サイド自由欄

img2c074974zik6zj.jpg
GOAL通信へようこそ。

プロフィール

masa/k

masa/k

カレンダー

バックナンバー

2026.07
2026.06
2026.05
2026.04
2026.03
2026.02

フリーページ

キーワードサーチ

▼キーワード検索


© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: