元気力UP!

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2025年06月01日
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カテゴリ: 吾輩は猫である





今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目《しんめんぼく》を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと思えばこのくらいの眼付は至当だろうと考える
おりから門の格子《こうし》がチリン、チリン、チリリリリンと鳴る
大方来客であろう、来客なら下女が取次に出る
吾輩は肴屋《さかなや》の梅公がくる時のほかは出ない事に極《き》めているのだから、平気で、もとのごとく主人の膝に坐っておった
すると主人は高利貸にでも飛び込まれたように不安な顔付をして玄関の方を見る
何でも年賀の客を受けて酒の相手をするのが厭らしい
人間もこのくらい偏屈《へんくつ》になれば申し分はない
そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気も無い
いよいよ牡蠣の根性《こんじょう》をあらわしている
しばらくすると下女が来て寒月《かんげつ》さんがおいでになりましたという
この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話《はな》しである
この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る
来ると自分を恋《おも》っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄《すご》いような艶《つや》っぽいような文句ばかり並べては帰る
主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話しをしに来るのからして合点《がてん》が行かぬが、あの牡蠣的《かきてき》主人がそんな談話を聞いて時々|相槌《あいづち》を打つのはなお面白い
「しばらく御無沙汰をしました
実は去年の暮から大《おおい》に活動しているものですから、出《で》よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐《ひも》をひねくりながら謎《なぞ》見たような事をいう
「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、黒木綿《くろもめん》の紋付羽織の袖口《そでぐち》を引張る
この羽織は木綿でゆき[#「ゆき」に傍点]が短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している
「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う
見ると今日は前歯が一枚欠けている
「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた
「ええ実はある所で椎茸《しいたけ》を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで
椎茸の傘《かさ》を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭《じじいくさ》いね
俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽《かろ》く叩く
「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大《おおい》に吾輩を賞《ほ》める
「近頃|大分《だいぶ》大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる
賞められたのは得意であるが頭が少々痛い
「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す
「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう
ヴァイオリンが三|挺《ちょう》とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです
ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね
二人は女で私《わたし》がその中へまじりましたが、自分でも善く弾《ひ》けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨《うらや》ましそうに問いかける
元来主人は平常|枯木寒巌《こぼくかんがん》のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚《ほ》れる
勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱[#「七割弱」に傍点]には恋着《れんちゃく》するという事が諷刺的《ふうしてき》に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である
そんな浮気な男が何故《なぜ》牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底《とうてい》分らない
或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質《たち》だからだとも云う
どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない
しかし寒月君の女連《おんなづ》れを羨まし気《げ》に尋ねた事だけは事実である
寒月君は面白そうに口取《くちとり》の蒲鉾《かまぼこ》を箸で挟んで半分前歯で食い切った
吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった
「なに二人とも去《さ》る所の令嬢ですよ、御存じの方《かた》じゃありません」と余所余所《よそよそ》しい返事をする
「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている
寒月君はもう善《い》い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑《おひま》ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促《うな》がして見る


①タイトル
「吾輩は猫である」シリーズ NO.9
寒月来訪と椎茸とヴァイオリン――静かな嫉妬の午後
②本文要約
ある日、吾輩の主人のもとに来客の知らせが届く。主人は来客を迎えるのを好まず不安げな様子だが、訪ねてきたのは旧門下生の寒月であった。寒月は、どこか自信ありげで謎めいた雰囲気を持ち、来るたびに女性との交際話や芸術活動の報告をしては帰っていく。今回も「どっちの方角へ足が向くか」との曖昧な冗談から始まり、前歯が椎茸で欠けたという滑稽な話題に続く。
寒月は吾輩の姿を見て「立派な猫だ」と褒め、主人も得意げになるが、その様子を眺めながら、吾輩は頭を叩かれて痛みを感じつつも喜ぶ。さらに寒月はヴァイオリンの合奏会で女性たちと共演したことを語り、主人は「その女は何者か」と羨望のまなざしを向ける。
本来無欲そうに見える主人も、実は女性に興味があり、ある小説に登場する「七割弱の女性に惚れられる男」を真理だと感じたことがあるほどの“浮気者”。そのくせ今は書斎に閉じこもる牡蠣のような生活を送っている。この不一致に吾輩は呆れるが、ついに寒月が主人を散歩に誘い、旅順陥落後の市中の賑わいを見に出かけることになる。
③解説
この章では、明治時代の青年たちの生き方、対照的な性格、そして微妙な感情の交錯が軽妙な筆致で描かれています。寒月は文明的で活発な“明治の若者”を体現しており、芸術や女性、時事にも関心が深く、ヴァイオリンを弾き、社交を楽しんでいます。一方で主人は、学問や世間からは一歩退いた生活を送り、内にこもりがち。表向きは無欲そうでも、実は女性への関心や社交への未練が垣間見える人物です。
また、この時代背景として重要なのが「旅順陥落」の話題です。日露戦争が続く中、旅順の陥落は日本中を熱狂させた重大ニュースでした。寒月が「市中は大変な景気ですよ」と言う一言からも、国民的な勝利気分と、それを利用した“散歩への誘導”がわかります。
椎茸で前歯を折ったという逸話や、ヴァイオリンのエピソードなど、寒月の言葉にはどこか芝居がかかった雰囲気もあり、それに真剣に応じてしまう主人とのやり取りが、笑いを生む一方で、世代間や性格の違いを浮き彫りにしています。
そしてその間、無言で一部始終を見つめるトラ猫・吾輩の視点が、本作のユーモラスさと哲学的観察を支えており、読者に「人間とはなにか」を問いかけ続ける構成となっています。






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Last updated  2025年06月01日 17時56分41秒
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