元気力UP!

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2025年06月12日
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カテゴリ: 吾輩は猫である



「巨人引力」




「何か新体詩でも作っているのかね。
面白いのが出来たら見せたまえ」と云う。
「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。
「文章? 誰《だ》れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも随分善いのがあるからなかなか馬鹿に出来ない。
全体どこにあったのか」と問う。
「第二読本」と主人は落ちつきはらって答える。
「第二読本? 第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と云うのは第二読本の中《うち》にあると云う事さ」「冗談《じょうだん》じゃない。
孔雀の舌の讐《かたき》を際《きわ》どいところで討とうと云う寸法なんだろう」「僕は君のような法螺吹《ほらふ》きとは違うさ」と口髯《くちひげ》を捻《ひね》る。
泰然たるものだ。
「昔《むか》しある人が山陽に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が馬子《まご》の書いた借金の催促状を示して近来の名文はまずこれでしょうと云ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。
どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家《ほんけ》のような事を云う。
主人は禅坊主が大燈国師《だいとうこくし》の遺誡《ゆいかい》を読むような声を出して読み始める。
「巨人《きょじん》、引力《いんりょく》」「何だいその巨人引力と云うのは」「巨人引力と云う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と云う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なつもり[#「つもり」に傍点]だが表題だからまず負けておくとしよう。
それから早々《そうそう》本文を読むさ、君は声が善いからなかなか面白い」「雑《ま》ぜかえしてはいかんよ」と予《あらか》じめ念を押してまた読み始める。
[#ここから2字下げ]ケートは窓から外面《そと》を眺《なが》める。
小児《しょうに》が球《たま》を投げて遊んでいる。
彼等は高く球を空中に擲《なげう》つ。
球は上へ上へとのぼる。
しばらくすると落ちて来る。
彼等はまた球を高く擲つ。
再び三度。
擲つたびに球は落ちてくる。
なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。
「巨人が地中に住む故に」と母が答える。
「彼は巨人引力である。
彼は強い。
彼は万物を己《おの》れの方へと引く。
彼は家屋を地上に引く。
引かねば飛んでしまう。
小児も飛んでしまう。
葉が落ちるのを見たろう。
あれは巨人引力が呼ぶのである。
本を落す事があろう。
巨人引力が来いというからである。
球が空にあがる。
巨人引力は呼ぶ。
呼ぶと落ちてくる」[#ここで字下げ終わり]「それぎりかい」「むむ、甘《うま》いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。
飛んだところでトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]の御返礼に預《あずか》った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。
「どうも驚ろいたね。
君にしてこの伎倆《ぎりょう》あらんとは、全く此度《こんど》という今度《こんど》は担《かつ》がれたよ、降参降参」と一人で承知して一人で喋舌《しゃべ》る。
主人には一向《いっこう》通じない。
「何も君を降参させる考えはないさ。
ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。
そう来なくっちゃ本ものでない。
凄《すご》いものだ。
恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。
僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近《えんきん》無差別《むさべつ》黒白《こくびゃく》平等《びょうどう》の水彩画の比じゃない。
感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも疳違《かんちが》いをしている。
ところへ寒月《かんげつ》君が先日は失礼しましたと這入《はい》って来る。
「いや失敬。
今大変な名文を拝聴してトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]の亡魂を退治《たいじ》られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。
「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。
主人だけは左《さ》のみ浮かれた気色《けしき》もない。
「先日は君の紹介で越智東風《おちとうふう》と云う人が来たよ」「ああ上《あが》りましたか、あの越智東風《おちこち》と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上《あが》っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈《こうしゃく》をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。

要約


ある日、主人の友人・迷亭君が「当分多忙で行かれない」と年始状を出しておきながら、飄々とやってくる。彼は主人が何か詩を作っていると察して「面白いのができたら見せろ」と言う。主人は翻訳をしているのだと答えるが、その文章が『第二読本』にあったと聞いて、迷亭君は呆れる。
その後、主人は「巨人引力」というタイトルの一文を読み上げ始める。それは、母と子の対話形式で「物が地面に落ちるのは“巨人引力”という地下に住む巨人がすべてを引っ張っているからだ」と説明する不思議な童話のような話だった。迷亭君は「なかなか面白い。これは名文だ」と感心し、「君の訳し方も冴えている」と主人を珍しく褒める。
そこへ寒月君が訪ねてくる。迷亭君は興奮気味に「いま名文を拝聴したばかりだ」と話し、寒月もなんとなく合わせて受け応える。話題は自然と、先日紹介された越智東風という男のことになる。主人は特に印象もなかったと話すが、迷亭君は「初対面では自分の名前の由来を語る癖がある変わり者だ」と語る。
物語全体は、日常の中に文学や滑稽なやり取りが差し込まれる漱石らしい構成で、特に「巨人引力」という幻想的かつ詩的な比喩表現がユーモラスに描かれている。猫の視点ではあまり語られないが、周囲の人物たちのやり取りが丁寧に描かれている回である。

解説


この回の特徴は、明治期における教養人たちの日常の中に、文学・科学・笑いが自然に混ざり合っている点にあります。明治の学校教育では『読本』と呼ばれる教材が広く使われ、欧米の思想や物語が翻訳紹介されていました。主人が訳した「巨人引力」もその文脈で理解できる、いわば教育的でありつつもユーモアを忘れない物語です。
また、「引力」を擬人化し、童話として再解釈する構図は、西洋文学の影響を受けた明治日本ならではの創意とも言えます。迷亭君の過剰な評価と主人のやや的外れな誇りが、文学青年の滑稽さを際立たせています。
このように、日常の茶の間での会話から教育・科学・文学の話に自然と展開するのは、漱石作品特有の“高尚なのに親しみやすい”魅力を象徴していると言えるでしょう。






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Last updated  2025年06月12日 21時59分57秒
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